新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年05月05日
第140回 谷中村(五)
文●ツルシカズヒコ
野枝は黙った。
しかし頭の中では、一時に言いたいことがいっぱいになった。
辻の言ったことに対しての、いろいろな理屈が後から後からと湧き上がってきた。
辻はなお続けて言った。
『お前はまださつきのM(※渡辺政太郎)さんの興奮に引っぱり込まれたまゝでゐる。だから本当に冷静に考へる事が出来ないのだよ。明日になつてもう一ど考へて御覧。きつと、もつと別の考へ方が出来るに違ひない。お前が今考へてゐるように、皆んながいくら決心したからと云つて、決して死んでしまうやうな事はないよ。さういう事があるものか。よし皆んなが溺れやうとしたつて、屹度(きっと)救ひ出されるよ。そして結局は無事に何処かへをさまつて終(しま)ふだ。本当に死ぬ決心なら相談になんぞ来るものか。今云つている決心と云ふのは、かうなつてもかまつてくれないかと云ふ面当てなんだ、脅かしなんだ。何の本気に死ぬ気でなんかゐるもんか。もし、さうまで谷中と云ふ村を建て直したいのなら、何処か他のいゝ土地をさがして立派に新らしい谷中村を建てればいゝんだ。その意久地もなしに、本当に死ぬ決心が出来るものか。お前はあんまりセンテイメンタルに考へ過ぎてゐるのだよ。明日になつて考へて御覧、屹度今自分で考へていることが馬鹿々々しくなるから。』
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p396~397/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p226~227)
けれど、この言葉は野枝にはあまりに酷な言葉だった。
彼女が今できるだけ正直で善良で可哀そうな人たちとして考えている人々の間に、そんな卑劣なことが考えられているのだというようなことを、どうして思えよう!
だが野枝はまた「その善良な人たちがなんでそんなことを考えるものですか」とすぐに押し返して言うほどにも、そのことを否定してしまうことはできなかった。
けれど、なお野枝は争った。
ーーこの可哀そうな人たちの「死ぬ」という決心が、よし、辻の言うように面当てであろうと、脅かしであろうと、どうして私はそれを咎めよう。
もしそれが本当に卑劣な心からであっても、そんなに卑劣にしたものはなんだったんだろう?
自分の力で立つことができない者は、亡びてしまうより他に仕方がない。
そうして自から自分を死地に堕すところに、思い切り悪く居残っている者が亡びるのは当然のことだ。
それに誰が異議を言おう。
だのに、私はなぜその当然のことに楯つこうとするのだろう?ーー
野枝はそこに何かを見出さなければならないと思い焦りながら、果てしもない、種々な考えの中に何も捕捉しえずにいた。
なんとなく長い考えのつながりのひまひまに襲われる、漠然とした悲しみに、床についても、とうとう三時を打つごろまで野枝の目はハッキリ灯を見つめていた。
辻は谷中村のことで野枝と議論したこのときのことを、こう振り返っている。
大杉君も『死灰の中より』(ママ/『死灰の中から』)にたしか書いてゐる筈(はず)だが、野枝君が大杉君のところへ走つた理由の一つとして、(※辻が)社会運動に対する熱情のないことを慊(あき)たらず、エゴイストで冷淡だなどとなにかに書いたこともあつたやうだ。
渡良瀬川の鉱毒地に対する村民の執着――見す/\餓死を待つてその地に踏み止どまらうとする決心、――それを或る時、渡辺君が来て悲愴な調子で話したことがあつたが、それを聴いてゐた野枝さんが恐ろしくそれに感激したことがあつた。
僕はその時の野枝さんの態度が少し可笑しかつたので、後で彼女を嗤(わら)つたのだが、それがいたく野枝さんの御機嫌を損じて、つまり彼女の自尊心を多大に傷(きずつ)けたことになつた。
僕は渡辺君を尊敬してゐたから渡辺君がそれを話す時にはひそかな敬意を払つて聴ゐていたが、また実際、渡辺君の話しには実感と誠意が充分に籠つてゐたからとても嗤うどころの話ではないが、それに対して何の知識もなく、自分の子供の世話さへ満足に出来ない女が、同じやうな態度で興奮したことが僕を可笑しがらせたのであつた。
しかし、渡辺君のこの時のシンシヤアな話し振りが彼女を心の底から動かしたのかも知れない。
さうだとすれば、僕は人間の心の底に宿つてゐるヒュウマニティの精神を嗤つたことになるので、如何にも自分のエゴイストであり、浮薄でもあることを恥ぢ入る次第である。
その時の僕は社会問題どころではなかつた。
自分の始末さへ出来ず、自分の不心得から、母親や、子供や妹やその他の人々に心配をかけたり、迷惑をさせたりして暮らしてゐたのだが、かたはら僕の人生に対するハツキリしたポーズが出来かけてゐたのであつた。
自分の問題として、人類の問題として社会を考へて、その改革や改善のために尽すことの出来る人はまつたく偉大で、エライ人だ。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号/『ですぺら』・新作社・1924年7月/『辻潤全集 第一巻』_p396~397)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第139回 谷中村(四)
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻が辞し去ってから、机の前に坐った野枝は、しばらくしてようやく興奮からさめて、初めていくらか余裕のある心持ちで考えてみた。
けれど、その沈静は野枝の望むような批判的な考えの方には導かないで、なんとなく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民たちの惨めな生活を想像させた。
野枝の心は果てしもなく拡がる想像の中に、すべてを忘れて没頭していた。
『おい、何をそんなに考え込んでゐるんだい?』
余程たつて、Tは不機嫌な顔をして、私を考への中から呼び返した。
『何つて先刻からの事ですよ』
『何んだ、まだあんな事を考へてゐるのかい。あんな事をいくら考へたつて何うなるもんか。それよりもつと自分の事で考へなきやならない事がうんとあらあ。』
「そんな事は、私だつて知つてゐますよ。だけど他人の事だからと云つて考へずにやゐられないから考へてゐるんです。』
私はムツとして云つた。
何うにもならない他人の事を考へるひまに、一歩でも自分の生活を進めることを考へるのが本当だと云ふ事位知つている。
Tの個人主義的な考への上からは、私が何時までも、そんな他所事を考へてゐるのは、馬鹿々々しいセンテイメンタリストのする事として軽蔑すべき事かもしれない。
現に今日私とM氏との間に交はされた話も、彼には普通の雑談として聞かれたにすぎない。
けれど、今私を捉へてゐる深い感激は、彼の所謂(いわゆる)幼稚なセンテイメンタリズムは、彼の軽蔑位には何としても動かなかつた。
そればかりではない。
今日ばかりはさうした悲惨な話に無関心なTのエゴイステイツクな態度が忌々しくて堪らないのであつた。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p393/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p224~225)
「他人のことだからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているにちがいないんですからね。自分自身だけのことを言っても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だってやはり困るんですもの」
「そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、きりはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん、可哀そうな目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴らは、意気地がないからそういう目に遇うんだと思えば間違いはない。いつでも愚痴をいってる奴にかぎって弱いのと同じだ。自分がしっかりしていて、不当なものだと思えばどんどん拒みさえすればそれでいいんだ。世の中のいろんなことが正しいとか正しくないとか、そんなことがとてもいちいちと考えられるものじゃない。要するに、みんなが各々に自覚をしさえすればいいんだ。今日の話の谷中の人たちだって、もう家を毀されたときから、とても自分たちの力でかなわないことは知れきっているんじゃないか。少しばかりの人数でいくら頑張ったってどうなるものか。そんなわかりきったことに、いつまでも取りついているのは愚だよ。いわば自分自身であがきの取れない、深みに入ったようなもんじゃないか」
「そんなことがわかれば苦労はしませんよ。それがわかる人は買収に応じてとうに、もっと上手な世渡りを考えて村を出ています。何も知らないから苦しむんです。一番正直な人が一番最後まで苦しむことになっているのでしょう? それを考えると、私は何よりも可哀そうで仕方がないんです」
『可愛想は可愛想でも、そんなのは何にも解らない馬鹿なんだ。自分で生きてゆく事の出来ない人間なんだ。どんなに正直でも何でも、自分で自分を死地におとしていながら何処までも他人の同情にすがる事を考へてゐるやうなものは卑劣だよ。僕はそんなものに向って同情する気にはとてもなれない。』
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p396/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p226)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第138回 谷中村(三)
文●ツルシカズヒコ
今まで十年もの間、苦しみながらしがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう。
村民の突きつめた気持ちに同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。
といって、手を束(つか)ねてどうして見ていられよう?
けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。
しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。
この自分の気持ちを少しでも慰めたい。
せめて、その人たちとしばらくの間でもその惨めな生活をともにして、その人たちの苦しみを自分の苦しみとして、もし幾分でも慰められるものなら慰めたいというようなことを、渡辺はセンティメンタルな調子で語った。
野枝もいつしか引き込まれて暗い気持ちに襲われ出した。
しかし、野枝にはどうしても「手の出しようがない」ということが腑に落ちなかった。
とにかく、幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。
なぜに犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人たちの良心は、平気でそれを見逃せるのであろうか。
手を出した結果がどうあろうと、伸ばせるだけは伸ばすべきものではあるまいか。
その人たちの心持ちは「手の出しようがない」のではなく「手を出したってつまらない」というのであろう。
「ではもう、どうにも手の出しようはないというのですね。本当に採ってみるなんの手段もないのでしょうか?」
「まあそうですね、もうこの場合になっては、ちょっとどうすることもできませんね」
しかし、結果はどうとしても、なんとかみんなの注意を引くことくらいできそうなものだ、と野枝は思った。
こういうことを、いくら古い問題だからといって、知らぬ顔をしているのはひどい。
野枝は渡辺の話に感ずるあきたらなさを考え詰めるほど、だんだんにある憤激と焦慮が身内に湧き上がってくるのを感じた。
「嶋田という人は、木下さんや逸見さんのところに、そのことで何か相談に来たんですか?」
今まで黙っていた辻が突然に口を出した。
「ええ、まあそうなんです。しかし、村民もいまさら他からの救いをあてにしてるわけではないので、相談というのも、ほんの知らせかたがたの話に来たくらいのものなんですけれど、どうも話を聞いてみると実に惨めなもんです。実際どうにかなるもんなら――」
渡辺政太郎 (まさたろう)はそう言って、どうにも手出しのできないことをもう一度述べてから、木下のろくに相手にもならない心持ちは、たぶん今、当局に他からいくら村民たちの決心を呑み込ませようとしても無駄だから、やはりどこまでも本人たちによって示されなければ、手応えはあるまいということ、そうした場合になれば、ひとりでに世間の問題にもなるだろうという考えだろうと説明した。
「僕もそう思いますね。実際もうなんとも仕方のない場合になってきているのですからねえ」
辻は冷淡な調子で、もうそんな話は片づけようとするように言った。
辻は渡辺の谷中村の話から話題を変えたいようだったが、その話に興奮させられた野枝は可哀想な村民たちの生活を知ろうとして、渡辺に根掘り葉掘り聞き始めた。
彼らの生活は、野枝の想像も及ばない惨めさであった。
わずかに小高くなった堤防のまわりの空地、自分たちの小屋のまわりなどを畑にして耕したり、川魚を獲って近くの町に売りに出たりしてようやくに暮らしていた。
そればかりか、とてもそのくらいのことではどうすることもできないので、貯水池の工事の日傭いになって働いて、ようやく暮らしている人さえいた。
その上にマッチひとつ買うにも、二里近くの道を行かなければならないような、人里離れたとこで、彼らの小屋の中は、真っ直ぐに立って歩くこともできないような窮屈な不完全なものであった。
「よくまあ、そんな暮らしを十年も続けてきたものですねえ。で、その他の、買収に応じて他へ立ち退いた人たちはどうなっているんです?」
野枝の頭の中では渡辺が語る事実と、彼女の感情が、いくつもいくつもこんぐらがっていっぱいになった。
しかし、そのもつれから起こってくる焦慮に追っかけられながらも、なお聞くだけのことは聞いてしまおうとして尋ねた。
「ええ、その人たちがまたやはり、お話にならないような難儀をしているのです。みんなが苦しみながら、でもまだ、谷中に残っているのは、ひとつはそのためでもあるんです。今いる人たちの間にもいったんは他へ行って、また戻って来た人などもあるんだそうです」
買収に応じた人たちも、残った人たちに劣らぬ貧困と迫害の中に暮らさなければならなかった。
最初はいいかげんな甘言に乗せられて、それぞれ移住して、ある者は広い未開の地をあてがわれて、そこを開墾し始めた。
長い間、朝も晩も耕し、高い肥料をやっても、思うような耕地にはならなかった。
収穫はなくわずかばかりの金はなくなる。
人里遠い荒涼とした知らない土地に、彼らは寒さと飢えにひしひし迫られた。
ある者は、たまたま住みよさそうなところに行っても、そこでは土着の人々から厳しい迫害を受けなければならなかった。
彼らの頼りは、わずかな金であった。
その金がなくなれば、どうすることもできなかった。
土を耕すことより他には、なんの仕事も彼らは知らないのだ。
耕そうにも土地はないし、金がなくなれば、彼らはその日からでも路頭に迷わねばならなかった。
そうしたハメになって、ある者は再び惨めな村へ帰った。
ある者はなんの当てもない漂浪者になって離散した。
渡辺によって話される悲惨な事実は、いつまでも尽きなかった。
ことに、貯水池についての利害の撞着や、買収を行うにあたっての多くの醜い事実、家屋の強制破壊の際の凄惨な幾多の悲劇、それらが渡辺の興奮した口調で話されるのを聞いているうちに、野枝もいつかその興奮の渦の中に巻き込まれていった。
そして、それらの事実の中になんの罪もない、ただ善良な無知な百姓たちを惨苦に導く不条理がひとつひとつ、はっきりと見出されるのであった。
あゝ! 此処にもこの不条理が無知と善良を虐げてゐるのか。
事実は他所事(よそごと)でもその不条理の横暴は他所事ではない。
これをどう見逃せるのであらう?
且(か)つてその問題の為めに、一身を捧げてもと人々を熱中せしめたのも、たゞその不条理の暴虐に対する憤激があればこそではあるまいか。
それ等の人はどう云ふ気持ちで、その成行きを見てゐるのであろう?
M(※渡辺政太郎)氏は日が暮れてからも、長い事話してゐた。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p393/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p224~225)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月04日
第137回 谷中村(二)
文●ツルシカズヒコ
谷中村の土地買収が始まると、躍起となった反対運動も、なんの効も奏しなかった。
激しい反対の中に買収はずんずん遂行された。
しかし、少数の強硬な反対者だけはどうしても肯(がえ)んじなかった。
彼らは祖先からの由緒をたてに、官憲の高圧的な手段に対しての反抗、または買収の手段の陋劣に対する私憤、その他種々なからみまつわった情実につれて、死んでも買収には応じないと頑張った。
大部分の買収を終わって、すでに工事にかかった当局は、この少数の者に対しては、土地収用法の適用によって、他に立ち退かすより他はなかった。
その残った家の強制破壊が断行された。
「その土地収用法というのはいったい何です?」
「そういう法律があるんです。政府がどうしても必要な土地であるのを、買収に応じない者があれば、その収用法によって立ち退きを強制することができるのです」
「へえ、そんな法律があるんですか。でも家を毀すなんて、乱暴じゃありませんか。もっとも、それが一番有効な方法じゃあるでしょうけれど、あんまりですね」
その家屋破壊の強制執行は、さらに残留民の激昂を煽った。
「そのやり方も、ずいぶんひどいんですよ。本当ならばまず毀す前に、みんなを収容するバラックくらいは建てておいて、それからまあ毀すなら毀して、それも他のところに建ててやるくらいの親切はなければならないんです。それをなんでも家を毀して、ここにいられないようにしさえすればいいくらいの考えで、滅茶苦茶にやったんでしょう。それじゃ、とても虫をおさえているわけにはゆきませんよ。第一、他に体の置き場所がないんですからね」
彼らはあくまで反抗する気で、そこに再び自分たちの手でやっと雨露をしのげるくらいの仮小屋を建てて、どうしても立ち退かなかった。
もちろん、下げ渡されるはずの買収費をも受けなかった。
県当局も、それ以上には手の出しようはなかった。
彼らがどうしても、その住居に堪えられなくなって立ち退くのを待つより他はなくなった。
しかし、それから、もう十年の月日が経った。
工事も済んで谷中全村の広い地域は、高い堤防を囲まれた一大貯水池になった。
そして河の増水のたびに、その貯水池の中に水が注ぎ込まれるのであった。
それでも彼らはそこを去りそうな様子は見せなかった。
『今となつちや、もう愈々(いよいよ)動くわけにはゆかないやうになつてゐるんでせう。一つはまあさうした行きがゝりの上から、意地にもなつてゐますし、もう一つは最初は手をつける筈(はず)でなかった買収費も、つひ困つて手をつけた人もあるらしいので、他へ移るとしても必要な金に困るやうな事になつたりして。処がこのころにまた提防を切つたんださうです。其処からは、この三月時分の水源の山の雪がとけて川の水嵩がまして来ると、どん/\水が這入つて来て、とても今のやうにして住んでゐる事は出来ないんださうです。当局者は、さうでもすれば、何うしても他へゆかなければならなくなつて立ち退くだろうと云ふ考へらしいのですがね。残つてゐる村民は、例へその水の中に溺れても立ち退かないと決心してゐるさうです。S(※嶋田宗三)と云ふその村の青年が、此度出て来たのもその様子を訴へに来たやうな訳なのです。』
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p386~387/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p221)
「ずいぶんひどいことをしていじめるのですね。じゃ今だって水に浸っているようなものなんですね。その上に水を入れられちゃ堪ったものじゃありませんわ。そして、そのことは世間じゃ、ちっとも知らないんですか?」
「ずっと前には鉱毒問題から続いて、収用法適用で家を毀されるようになった時分までは、ずいぶん世間でも騒ぎましたし、一生懸命になった人もありましたけれど、何しろ、もう三十年も前から続いたことですからねえ、たいていの人には忘れられているのです」
それは野枝にはまったく意外な答えであった。
まず世間一般の人たちはともあれ、一度は本当に一生懸命にそのために働いた人があるとすれば、今また新しくそうした最後の悲惨事を、どう上の空で黙過することができるのだろう?
野枝は渡辺に、その何か不満な考えをむき出しに語った。
しかし渡辺はおしなだめるように言った。
「それゃ、あなたは初めて聞いたんだからそう思うのはあたり前ですけれど、みんなは、『まだ片づかなかったのか』くらいにしか思いはしないのでしょうよ。そういうことはほんとうに不都合なことです。不都合なことですけれど、しかし、それが普通のことなんですから。いまは三河島に引っ込んでいる木下尚江さん、ご存じでしょう? あの人でさえ、一時はあの問題のために一身を捧げるくらいな意気込みでいたんですけれど、今日じゃ、なんの頼りにもならないのですからねえ」
木下尚江といえば、一時は有力な社会主義者として敬意を払われた人である。
創作家としても、その人道的な熱と情緒によって多くの読者を引きつけた人である。
「へえ、木下さん? ああいう人でも――」
野枝は呆れて言った。
「木下さんも、前とはよほど違っていますからねえ。しかし木下さんばかりじゃない、みんながそうなんです。要するに、もうずいぶん長い間どうすることもできなかったくらいですから、この場合になっても、どう手の出しようもないから、まあ黙って見ているより仕方はあるまいというのがみんなの考えらしいんです。しかしーー」
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第136回 谷中村(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月の末、寒い日だった。
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻はいつになく沈んだ、しかしどこか緊張した顔をして、辻家の門を入ってきた。
辻は渡辺政太郎との親交について、こう書いている。
染井からあまり遠くない瀧の川の中里と云ふところに福田英子と云ふをばさんが住んでゐた。
昔、大井憲太郎と云々のあった人で自分も昔の新しい女だと云ふところから「青鞜」に好意を持つてゐたらしかつた。
恰度(ちようど)その時分、仏蘭西で勉強して日本の社会問題を研究にきたとか称する支那人が英子さんを通じて日本の新しい婦人運動者に遇ひたいと云ふので会見を申し込んできたので、一日その中里の福田英子さんのところで遇ふことにした。
日本語がよく解らず英語のわかる人を連れて来てくれる方が都合がよいと云ふので僕が一緒に行くことになつた。
僕はその時、始めて渡辺政太郎氏に会つたのである。
渡辺君は今は故人だが、例の伊豆の山中で凍死した久板君などと親友で、旧い社会主義者の間にあつてはかなり人望のあつた人であつた。
渡辺君は死ぬ前には「白山聖人」などと云はれた位な人格者であつたが、僕はその時から非常に仲がよくなつた。
渡辺君はその時分、思想の上では急進的なつまりアナァキストであるらしかつた。
僕は渡辺君が何主義者であるか、そんなことは問題ではなかつた。
僕は渡辺君が好きで、渡辺君を尊敬してゐた。
その後、大杉くんを僕等に紹介したのもやはりその渡辺君であつた。
渡辺君は僕の子供を僕ら以上の愛を持つて可愛がつてくれた。
僕の親愛なるまこと君は今でもそれを明らかに記憶してその叔父さんをなつかしんでゐるのである。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p12/『ですぺら』・新作社・1924年7月/『辻潤全集 第一巻』・五月書房_p393)
渡辺政太郎は上がるとすぐ、例のとおりに一(まこと)を抱き上げてあやしながらひとしきり喜ばしておいて、思い出したように傍にいた野枝に、明日から二、三日他へ行くかもしれないと言った。
『何方(どちら)へ』
何気なしに私はさう尋ねた。
『え、実は谷中村まで一寸行つて来たいと思ふのです。」
『谷中村つて何処なんです。』
『御存じありませんか、栃木ですがね、例の鉱毒問題のあの谷中ですよ。』
『へえ、私、些(ち)つとも知りませんわ、その鉱毒問題と云ふのも――』
『あゝさうでせうね、あなたはまだ若いんだから。』
さう云つてM氏は妻君と顔を見合はせて、一寸笑つてから云つた。
『T翁と云ふ名前位は御存じでせう?』
「えゝ、知つてますわ。』
『あの人が熱心に奔走した事件なんです。その事件で問題になつた土地なんです。』
『あゝ、さうですか。』
私にもさう云はれゝば何かの書いたものでT翁と云ふ人は知つてゐた。
義人とまで云はれたその老翁が何か或る村の為めに尽くしたのだと云ふ事も朧ろ気ながら知つてゐる。
しかし、それ以上の委しい事は何にも知らなかつた。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p381~382/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p218~219)
「実は今日その村の人が来ましてね。いろいろ話を聞いてみると、実にひどいんです。なんだかとてもじっとしてはいられないので、ひとつ出かけて行ってみようと思うのです」
渡辺は急に恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそう言って黙った。
普段、何ごとにも真面目な渡辺のひと通りのことではないような話の調子に、野枝は探るようにして聞いた。
「その村に何かあったのですか?」
「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ」
「え、どうしてですか?」
「話が少し後先になりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解からないでしょうけれど」
こう言って、渡辺はまず鉱毒問題というものから話し始めた。
栃木県の最南端にある谷中村は、群馬、茨城、埼玉と接近した土地で、渡良瀬という利根の支流の沿岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山の方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼしたことがある。
それが問題となって長い間、物議の種になっていたが、政府の仲介で鉱業主と被害民の間に妥協が成立して、ひとまずそれは片づいたのだ。
しかし水源地の銅山の樹が濫伐されたために年々、洪水の被害が絶えない、その洪水のたびに鉱毒が濁水と一緒に流れ込んでくるので、鉱毒問題の余炎がとかく上がりやすいので、政府ではその禍根を絶つことに腐心した。
水害の原因が水源地の濫伐にあることはもちろんであるが、栃木、群馬、茨城、埼玉らの諸県にまたがるこの被害のもう一つの原因は、利根の河水の停滞ということにもあった。
本流の河水の停滞は支流の渡良瀬川、思川(おもいがわ)らの逆流となって、その辺の低地一帯の氾濫となるのであった。
そこでその河水の停滞を除くために、河底をさらい、その逆流を緩和さすための貯水池を作ることが最善の方法として選ばれた。
そして渡良瀬川、思川の両川が合流して利根の本流に落ちようとするところ、いつも逆流の正面に当たって一番被害の激しい谷中村がその用地に充てられたのである。
※佐野が生んだ偉人・田中正造 その行動と思想
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月03日
第135回 ジャステイス
文●ツルシカズヒコ
しかし、野枝だけは青鞜社の仲間の中でも違った境遇にいた。
一旦は自分から進んで因習的な束縛を破って出たけれど、いつか再び自ら他人の家庭に入って因習の中に生活しなければならぬようになっていた。
野枝は最初の束縛から逃がれたときの苦痛を思い出し、その苦痛を忍んでもまだ自分の生活の隅々までも自分のものにすることのできないのが情けなかった。
野枝はそれを自身の中に深く潜んでいる同じ伝習の力のせいだと思っていた。
そうして彼女はそれを、理知的な修養の力によって除くよりほかはないと思った。
しかし、野枝の生活は、他の仲間よりは、他人との交渉がずっと複雑だった。
そして、その他人の意志や感情の陰には、とうてい彼女の小さな自覚のみでは立ち向かうことのできない、社会という大きな背景が厳然と控えていた。
野枝はそれを思うと、どうすることもできないような絶望に襲われるのであった。
自分ひとりが少々反抗してみたところで、あの大きな社会というものがどうなるのか?
とは言っても、自分の握つてゐる「ジャステイス」を捨てるわけにはゆかない。
「要するに、みんなが自覚しなければ駄目なのだ」そう思いながら熱心に、やはり自己完成を念じていた。
けれども、ゴールドマンの態度はまるで違っていた。
彼女は社会の組織的罪悪を、その虚偽を、見逃すことができなかった。
彼女は虚偽や罪悪に対する憎しみの心を、そのままそれにぶつけていった。
そこに彼女の全生命が火となって、何物をも焼きつくさねばおかぬ熱をもって炎え上がっているのだ。
野枝の頭はクラクラした。
今にも何か自分もそうした緊張した生活の中にすべてを投げ棄てて飛び込んでいきたいような気持に逐(お)われ、じっとしてはいられないような気がするのだった。
彼女が、そんな回顧に耽りながら、沈み切つた顔をうつむけて家に帰りついた時には、雪はもう真白にすべてのものを包んでしまつてゐた。
子供を床の中に入れると、そのまゝ自分も枕についたが、眼は、どうしても慰さめ切れぬ心の悩みと共に、何時までも悲しく見開いてゐた。
電燈の灯のひそやかな色を見つめながら果てしもなく、一年前にゴルドマンの伝を読んで受けた時の感激を、まざ/\と思ひ浮べて考へつゞけてゐた。
それは、最近に彼女の心の悩みが濃くなつてからは、殊に屡々頭をもたげて彼女を憂欝にするのであつた。
そして、一年前よりは一層複雑になつた現在の境遇に省みて、諦めようと努める程、だんだんに其の感激に対する憧憬が深くなつてゆくのが、自分にもハツキリと意識されるのであつた。
(「乞食の名誉」/『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p362~363/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p265~266)
一九一五年(大正四年)の夏、らいてうは小石川区西原町から四谷区南伊賀町の貸し家に引っ越した。
その貸し家は山田嘉吉の弟の持ち家で、山田夫妻の裏隣りだった。
その貸し家にはらいてうが住む前には、山田嘉吉のアメリカ時代からの友人の弁護士、山崎今朝弥(やまざき・けさや)が住んでいた。
らいてうの後にその貸し家に住んだのは、大杉栄と別れた後の堀保子だった。
山田夫妻の隣人になったらいてうは、山田嘉吉のもとで勉強を続けるのだが、野枝が山田夫妻のところに通っていたころのことを、こう回想している。
……まだわたくしが西原町から通っていたころ、寒い時分に、野枝さんも一(まこと)ちゃんをおぶって、二、三回加わったことがありますが、そうした無理は長く続きませんでした。
一ちゃんがぐずるので、山田先生が閉口されたこともあります。
一つには、野枝さんが山田先生ご夫妻から、なんとなく好かれていなかったこともあります。
ことに山田先生は、好き嫌いの烈しい、きびしいというか、気むずかしい人でしたから、やむを得ないとはいえ、小さな子どもをつれて来られては皆の迷惑でもあり、なにかとルーズなところの多かった野枝さんのことが、気にいらなかったのでしょう。
それに感情的な態度でものを書くことが嫌いな先生は、野枝さんの書くものにも、批判的でした。
このころ、まだ大杉氏との関係ははじまっていなかったように思います。
大杉氏といっしょになったあとの野枝さんについては、夫妻ともに徹底的な反対者で、子供に対する母の無責任を非難してやまないのでした。
わたくしの借りていた家のあとに住むようになった、堀保子さん(大杉氏夫人)への同情もあったのでしょうが、「社会主義者」のエゴイズムへの烈しい嫌悪が、あれほど野枝さんを嫌わせることになったのでしょうか。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p570~571)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第134回 生き甲斐
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月末の深夜ーー。
吹雪の中、春日町(かすがちょう)で一(まこと)を背負って電車を待っていた野枝は、二年前のあの夏の日のことを思い浮かべていた。
ヒポリット・ハヴェルが書いた「エマ・ゴールドマン小伝」を読んだあの夏の日のことをーー。
多くの人間の利己的な心から、まったく見棄てられた大事な「ジャステイス」を拾い上げることが、現在の社会制度に対してどれほどの反逆を意味するかということは、野枝もその前からいくらか理解はしていた。
けれど、そういう社会的事実に対しては殊に疎かった野枝には、ひとりの煽動者に対して、大共和国の政府が取ったあらゆる無恥な卑劣な迫害手段は不思議なほどであった。
初めて知り得たそれらの事実に対して、野枝は数多(あまた)の人々をシベリアの雪に埋めた旧ロシアの専制政治に対してよりも、もっと違った、心からの憎悪を感じないではいられなかった。
しかし、それよりもさらにいっそう強く野枝の心を引きつけたものは、何よりもエマ・ゴールドマンその人の勇気であった。
燃ゆる情熱であった。
何物にも顧慮せずに自己の所信に向かって進む彼女の自由な態度であった。
読み進んでゆく一頁ごとに、彼女の立派な態度は敵の陋劣な手段に対して、どんなに野枝の眼には輝やかしく映ったろう?
野枝は静かに自分たちの周囲をふり返ってみた。
ここでも、すべての「ジャステイス」は見返りもされなくなっていた。
すべての者は数百年いや、もっと前からの伝習と迷信に泥(なず)んだ虚偽の生活の中に深く眠っていた。
たまたま少数の社会主義者たちが運動に従事しようとしても、芽ばえに等しい勢力ではどうすることもできない。
束縛の結び目のわずかな弛みを狙って、婦人の自覚を主張し出した自分たちにしても、何ひとつ満足なことはできない。
そして、必ず現れなければならない新旧思想の衝突が、本当に著しい社会的事実となって現れることすら、まだよほどの時の経過を必要とするのではあるまいかーーとさえ思えるのだった。
野枝はそんなことを考えながらも、すばらしいゴールドマンの生活に対して、自分たちの生活の見すぼらしさを思わずにはいられなかった。
「生き甲斐のある生き方」は、野枝が自分の「生」に対する一番大事な願望だった。
何物にも煩わされず、偉(おお)きく、強く生きたいということは、常に彼女の頭を去らぬ唯一の願いであった。
その理想の生活が、ゴールドマンによってどんなに強くはっきりと示されたことであろうか?
本当にそれほどの「生き甲斐」を得るためになら、「乞食の名誉」もどんなに尊いものだかしれない。
その「名誉」のためなら「奴隷の勤勉」もなんで惜しもうか?
だがいったい、いつになったら日本にもそういうときが来るのだろう?
そう考えると、野枝は急につまらない気がした。
そうして染々(しみじみ)と、人間の個々の生活の間に横たわる懸隔を思わずにはいられなかった。
野枝たちが、その機関誌『青鞜』を中心として作っているサアクルは、在来の日本婦人の美しい伝習を破るものとして、世間からは非難攻撃の的になっていた。
みんなはムキになってその非難と争った。
けれど、それがどれほどのものであったろう?
ただみんな『青鞜』誌上にわずかな主張を部分的に発表するのが仕事の全部であった。
集まって話すことも、自分たちの小さな生活の小さな出来事に限られていた。
そして、みんなが与えられたものを着、与えられた物を食べ、与えられた室(へや)に住んで、小さな自己完成を計っていた。
実際に社会的生活に触れているものはほとんどなかった。
『青鞜』に向かっての攻撃のひとつは、物好きなお嬢様の道楽だというのであった。
実際そう見られても仕方のないほど、みんなの生活は小さかった。
みんなが自分たちの生活の弱点に気兼ねをしながら婦人の自覚を説いた。
けれど、それは決して道楽ではなかった。
みんな一生懸命だった。
けれど、まだ自分たちの力を危ぶんでいるみんなは、本当に向こう見ずに種々な社会的事実にブツかるのが恐いのだった。
しかし、彼女等の極力排している因習のどれひとつでも、現在の社会制度を無視して残りなく根こそぎにすることができるであろうかということになれば、どうしても「否」と答えるより他はなかった。
けれど、その点にはできるだけ触れたくもないし、触れずにいればそれですましてもいられるのが、みんなの実際であった。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第133回 タイプライター
文●ツルシカズヒコ
野枝が『青鞜』の同人のひとりである山田わかを訪ねたとき、山田嘉吉がわか夫人のために、社会学の書物を読む計画があるから勉強する気ならと誘われ、野枝は毎週二回くらいずつ通うことにした。
ウォードの書物を入手するのは困難なので、嘉吉は毎週読む予定の分のページをわざわざタイプライターで打たせて送ってくれた。
野枝はその親切を本当に心から感謝しながら、少しでもそうした勉強の機会を外ずさないように心がけていた。
しかし、辻の家族は野枝が家の外に仕事を持ったことに、いい顔はしなかった。
一(まこと)の世話は、渡辺政太郎、若林八代(やよ)夫妻が毎日のように来て面倒を見てくれることになり、汚れたものの洗濯、掃除までしてくれていた。
義妹の恒(つね)などの負担が増えるわけでもないのに、他人によけいな手伝いをさせて毎日のように出入させることを非難された。
とくに英語の書物を読みに他所(よそ)まで出かけてゆくなど、家持ち子持ちのすることではないと、激しい反感を持たれた。
野枝はもう一切、無関心な態度でいるより他に仕方がないと思った。
この日の夜、野枝が山田のところに出かける前にも、義母は例のとおり子供を持った女が始終出歩くことの不可をしきりに言った。
美津の話はすべての原因は辻が怠惰で遊んでいるからだ、というところまで押していった。
辻と野枝はその夜、散々に美津の愚痴を聞かされ、口汚く罵られた。
美津の要求は煎じ詰めれば、こういうことだったーー野枝を家庭の中に閉じ込めて、彼女の仕事を家の中だけのことにして自分の手ごろに合うような嫁にしたい、そのためには辻に早く何かの職業に就いてほしい。
たとえ辻に何かの収入の道がついたとしても、野枝は決して美津の希(ねが)うような嫁になるつもりはなかったが、美津は野枝が必然に自分の望み通りになるものと決めこんでいるーーこれから先の長い双方の暗闘が、野枝の心を暗くした。
ちょうど山田夫妻のところに行く晩だったので、子供のことを美津に頼むのも面倒と思い、子供を背負って家を出た。
道すがらに美津の言葉を思い出すと、今度はその無反省な、虫のいい、または悪感に満ちた義母の言い分に対して、野枝は先刻その前でしたような冷静な気持ちでの同情などはできなかった。
不断、忍んでいる多くの不快が一時に雲のように簇々(むらむら)と頭をもたげ出してきた。
野枝はもう家族の人々に対して、なんとも言えない憎悪を感ずるのであった。
辻と別れさえすれば、すべてが片づいてしまう。
それはわかり切っている。
けれど今、あの男と別れることができようか?
辻に対しては愛もある、尊敬も持っている。
そして、今あの家を自分が出れば困るのは辻ばかりだ。
自分が少々不実な女と見られるくらいは仕方がない。
けれど、あの男を自分のようなものに騙される、馬鹿なウスノロな男だと、あの母親の口から罵しらせることは辛い。
けれど、それもまんざら忍べないことはない。
前にはそう決心したこともあった。
けれど今は子供がいる。
子供がいる。
これをどうすればいいのだろう?
ああ、やはり、子供のためにできるだけのことは忍ばなければならないのだろうか?
野枝はそれは意久地のないことだと思いもし、言いもした。
その子供のためという口実を、自分も口にせねばならないのだろうか?
野枝は一生懸命に目を瞑(つむ)ろうとした。
深い悔恨が湧き上がる。
不用意に、こうした家庭生活に引きずり込まれた自分の不覚が恨まれる。
思うまいとしても、自分の若さが惜しまれる。
自由な自分ひとりの意志で自分を活(い)かしたいばかりに、いつも争いを続けながら、すぐまた次のものに囚われる自分の腑甲斐なさがはがゆい。
どうすればいい自分なのだろう?
ああ! 本当に何物も顧慮せずに活きたい。
ただそれだけの望みがなぜに果たせないのだろう?
多くの気まずさと、冷たい反目が待っている家!
もう帰るまいか、逃げてしまおうかと思った家!
そこに向かって帰りながら、野枝はじっと思い耽っていた。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月02日
第132回 砲兵工廠
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月の末のある日の深夜、山田嘉吉、わか夫妻の家から帰宅の途についた野枝は、水道橋で乗り継ぎ電車を待っていた。
漸くに待つてゐた電車が来た。
ふりしきる雪の中を、傘を畳んで悄々(しほしほ)と足駄の雪をおとして電車の中にはいつた。
涙ぐんだ面(かお)をふせて、はいつて来た唯だ一人の、子を背負つたとし子の姿に皆の眼が一時にそゝがれた。
けれど座席は半ば以上すいてゐて、矢張り深夜の電車らしくひつそりしてゐた。
春日町(かすがちょう)でまた吹雪の中に取り残された。
長い砲兵工廠の塀の一角にそふておよそ二十分も立つてゐる間には、体のしんそこから冷えてしまつた。
(「乞食の名誉」/『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p332/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p249)
ただひたすらに忠実な自己捧持者でのみあるべき野枝は、いつのまにか、不用意のうちに、他人の家に深く閉じ込められてしまっていた。
その家のあらゆる習慣と情実を肯定しなければならなかった。
そうしてまたその上に不用意な愛によって子供という重荷を負はねばならなかった。
若い無智なこれから延びてゆかなければならない野枝にとって、このふたつの重荷は彼女の持つすべての個性の芽を圧(お)しつぶしてしまう性質のものであった。
それでもなお、野枝は決して彼女自身の生活を忘れはしなかった。
彼女はどんな重荷を背負わされても、自己を忘却したり、見棄てたりするようなことはしなかった。
そして実際、子供に対する重荷はほんど重荷とは感じないほどだった。
ただわずかに呼吸をし食物を要求する状態から、人間らしい知能がだんだんに目覚めてくるのや、一日一日とめざましく育ってゆく体を注意していると、なんとも言えない無限な愛が湧き上がってくるのであった。
けれど、一日中、また一晩中、子供にばかり煩わされて時間の余裕が少しもないのには、苦痛を感じないわけにゆかなかった。
どうかして、せめて読書の時間だけでも出したいと焦った。
子供を寝かしつける間や授乳の間に、台所で煮物の片手間にまで、野枝は書物を開くようにした。
義母の美津は決まって彼女が何か道楽でもしているように苦い顔をして、口癖のように言った。
「私なんか子供を育てる時分には、御飯を食べる間だって落ちついていたことはない」
美津は野枝がただ間断なく、子供のために働き、家のことで働いて疲れれば機嫌がよかった。
実際また読書をする暇に他の仕事をする気があれば、することは美津の言うとおりに山ほどあった。
けれど、野枝には家の中のことを調えて子供の世話でもしていれば、それで女の役目はすむという母親たちとは、違った外の世界を持っていた。
その役目を果たすことを決して嫌だとは思はなかったけれど、そしてまたそれにも相応の興味を持って果たすことはできたけれど、そればかりでおしまいにしてしまうことはできなかった。
一歩家の外に踏み出すと、野枝は自分のみすぼらしさ、意久地なさを心から痛感した。
うかうかしてはいられないという気がしきりにするのであった。
らいてうも野上弥生子も斎賀琴も山田わかも、みんなが熱心に勉強している。
そして、一番若い、一番無知無能な自分が何もできずに家の中でぐずぐずしているのだーーと思うと、野枝は何とも言えない情けなさ腑甲斐なさを感ずるのであった。
なんの煩いもなく自由に勉強できる人が羨ましかった。
束縛の多い自分の生活が呪わしかった。
と言って、今さら逃れることもできないのをどうすればいいか?
彼女は本当に、それを考えると堪らなかった。
とにかく、野枝は家族の人たちからは非難されようと、嫌味を聞かされようと、自分の勉強だけは止めまいと決心した。
たとえ、まとまった勉強らしい勉強はできなくとも、せめて、普通の文章くらいは読みこなせるだけの語学の力だけでも養っておきたかった。
野枝がらいてうから『青鞜』を引き継いだのも、せっかく出し続けてきた雑誌を止めるのは惜しいと思ったからでもあるが、仕事として引き受けた『青鞜』をやりながら、自分の勉強の時間を捻出しようという魂胆も潜んでいた。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
※東京砲兵工廠2 ※東京砲兵工廠3
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第131回 四ツ谷見附
文●ツルシカズヒコ
女性解放問題にも深い関心を持っていた山田嘉吉が、アメリカの著名な社会学者、レスター・フランク・ウォード(Lester Frank Ward)の講義をすることになり、その勉強会に山田わか、らいてう、野枝などが参加していた。
その夜のテキストはウォードの『Pure sociology』だった。
予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を遂(お)ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。
払い退けやうと努める程いろ/\不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。
思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。
其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷(すべ)つてゆくにすぎなかつた。
(「乞食の名誉」/『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p328/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p247)
レッスンが終わると、いつものように熱いお茶が机の上に運ばれた。
生後一年四ヶ月の一(まこと)が、野枝の膝の上で他愛なく眠っていた。
快活な山田夫妻の笑顔も、その夜の野枝には虚しく映った。
野枝はお愛想笑いをしながら、小さなストーブにチラチラと燃えている石炭の焔を見つめていた。
野枝は惨めな自分に対する深い憐憫が、涙となって溢れ出そうになるのをじっと抑えていた。
外はいつのまにか雪になっていた。
通りの家はもうどこも戸を閉めて、どこからも家の中の燈(ひ)は洩れてこなかった。
街灯だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光を投げていた。
無理無理に停留所まで送ってくれた嘉吉と、言葉少なに話しながら電車を待っている間も、野枝の眼には涙がいっぱい溜まっていた。
この雪の降りしきる夜更けに、もう帰るまいとさえ思ったあの家に、やはり帰ってゆかなければならないと思うと情けなかった。
こんなときに親の家でも近かったらーー親の家、それも自ら叛(そむ)いて離れてきたのだった。
三百里も西の方にいる親達とは、もう長い間音沙汰なしに過ごしてきた。
そしてまったくの他人の中での苦しい生活がもう二年も続いている。
深夜であろうとなんであろうと、遠慮なく叩き起こせる家の一軒くらいあればと野枝は思わずにはいられなかった。
漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。
運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。
電車の内は隙(す)いてゐた。
皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。
なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。
とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。
電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。
とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。
背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。
とし子は安心してまた向き直つた。
そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附に近く来てゐた。
(「乞食の名誉」/『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p330~331/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p248)
四ツ谷見附で乗り換えると、野枝は再び不快な考えから遠ざかろうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。
けれど水道橋まで来て、そこで一層激しくなった吹雪の中に立っている間に、またとりとめもなく拡がってゆく考えの中に野枝は引きずり込まれていた。
刺すような風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。
足元には音もなく、後から後からと見る間に雪が降り積んでいく。
「どこかへこのまま行ってしまいたい!」
野枝は白い柔かな地面に射す薄っすらとした光りをじっと見つめながら、焦(じ)れているのか、落ちついているのか、自分ながらわからない気持ちで考へているのだった。
「どこへでも、どこでもいい」
ここにこうして夜中立っていても、今夜出がけに苦しめられたような家には帰って行きたくなかったーー野枝は腹の底からそう思うのだった。
けれど、背中に何も知らずに眠っている子供を思い出すと、野枝の眼にはひとりでに熱い涙が滲んできた。
「自分だけなら、他人の軒の下に震えたっていい。けれど?」
何も知らない子供には、ただ温かい寝床がなくてはならない。
窮屈な背中から下ろして、早くのびのびと温かな床に寝かしてやりたい。
だが、可哀そうな母親が子供に与えるたったひとつの寝床は、やはりあの家の中にしかない。
野枝の眼からは熱い涙が溢れ出した。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index