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2020年04月22日

道三は信長をどう見たのか? 聖徳寺の会見

聖徳寺?正徳寺?

前回のブログでは斎藤道三の生涯について語りましたが、道三は娘婿となった織田信長をどう見ていたのでしょうか?

“美濃のマムシ”斎藤道三と“尾張の大うつけ”織田信長が初めて顔を合わせた出来事を聖徳寺の会見というのですが・・・これ、つい最近まではどの文献を見ても「正徳寺」の表記になっていたのです。

僕も「正徳寺」と記憶していたので(あれっ?)と思い確認してみたのですが、やはり現地でも「聖徳寺」となっています。

先日放送されたばかりの大河ドラマ『麒麟がくる』でも「聖徳寺の会見」のタイトルでした。

「聖徳寺」が正しい表記ならば、なぜ今までほとんどの文献には「正徳寺」と表記されていたのでしょうか?

僕なりにいろいろ調べてみましたが・・・どうもはっきりしたことはわかりません。

なので、最近「聖徳寺の会見」を知った方には、「正徳寺?漢字間違ってるよ!」と厳しく指摘しないで頂きたい。(笑)

さて、この聖徳寺の会見ですが、(舅と婿の関係とはいえ、こんな大物同士が直接会って話をすることなどあるだろうか?)と、会見の信憑性に疑問符が付けられています。

ですが、逆に考えると“マムシ”の異名を持つほど一癖も二癖もある道三が、会ってもいない“大うつけ”(大バカ)と呼ばれていた信長を気に入って信用したりするでしょうか?

やはり、道三は直接会って自分の目で信長という男を確認したからこそ、その後の信頼関係が生まれたと考えられます。

というわけで、今回は聖徳寺の会見について語りたいと思います。

家督を継いでも“うつけ”ぶりは相変わらず

天文十七年(1548年)織田信秀の嫡男・信長と、斎藤道三の娘・帰蝶が結婚しました。

この時、信長が15歳、帰蝶は14歳だったといわれています。

しかし、父の信秀が亡くなり織田家の家督を継いだ後も信長の“大うつけ”は治らず、傅役の平手政秀が責任を感じて諫死(かんし=悪行を諫めるための自殺)するほどでした。

信長の悪評を耳にした道三の家臣たちは事あるごとに信長のうつけぶりを道三に報告しましたが、道三は家臣たちの話を決して鵜呑みにせず、噂話など信用しませんでした。

しかし同時に、道三は

(これほど悪評高い信長とは、一体どのような男なのか?)

と、逆に興味が湧いてきたのです。

そこで、道三は信長と直接会ってみることにしました。

会見の場所は濃尾国境にある富田村の聖徳寺に決定しました。
聖徳寺跡.jpg
 現在の聖徳寺跡

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道三の度肝を抜いた信長の軍装備!

天文二十二年(1553年)4月下旬、道三は初めて娘婿の信長と会うことになりました。

それにしても、実の娘の結婚から5年も経って初めて娘婿と会う・・・戦国時代の政略結婚とはこんなものだったのです。

しかし、そこは“美濃のマムシ”と呼ばれた曲者の道三、ただ会うだけでは相手の本性はわからないと思い、一計を案じます。

会見の前に、信長がやってくる美濃街道沿いの民家に道三自ら隠れて、そこからこっそり信長の本性を暴いてやろうと考えたのです。

そして、ようやく現れた信長一行を見て、道三は思わず息を飲みました。

信長は700〜800の兵を引き連れ、その兵たちは鉄砲をおよそ500挺、そして三間半(約6b)もある長槍500本を携えていたのです。

鉄砲と長槍という先端兵器をこれだけ大量に所持することなど、当時はとても考えられず、道三がかなり驚かされたことは言うまでもありません。

しかし、肝心の信長は髪を雑に束ね、腰にはひょうたんをいくつもぶら下げて、虎皮の袴を着るという噂通りの大うつけスタイルだったので、道三は少々がっかりしながらも内心ではホッとしていました。

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大器の片鱗を見せた信長

信長の行列を見送った後、道三も聖徳寺に向かいました。

道三は、もし信長が先ほどのうつけスタイルのまま会見場に現れたら「無礼者!」と一喝してやろうと思っていました。

ところが、信長は瞬時に髪を結い直し、きちんと長袴を穿いた見事な正装で道三の前に現れたのです。

思いもよらない信長の変身ぶりに圧倒された道三に対し、信長は堂々と構え、道三にも一顧だにしません。

この状況に慌てた道三の家臣が「こちらが山城殿(道三)でござる」と信長に紹介すると、信長は

「・・・であるか」

と、一言だけ答えたといいます。

会見後の帰り道、道三は明らかにショックを受けている様子が見て取れました。

心配した家臣の猪子兵介が道三を慰めようと「何を見ても上総介殿(信長)はたわけでござりますな」と声を掛けると、道三は

「たわけ?ならば尚更残念だ。我が息子たちはそのたわけの門外に馬を繋ぐことになるだろう」

と、嘆いたそうです。

門外に馬を繋ぐとは、臣従、つまり信長の家臣になって従うという意味です。

道三は(息子たちが偉大な人物に従うなら納得するが、大バカ野郎と思われてる奴に服従させられるのでは何ともやりきれない)と皮肉ったのでしょう。

道三だけは“大うつけ”と呼ばれていた若き信長が大器であることを見抜いていたのですね。

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まとめ

  • 聖徳寺の会見とは、舅と婿の関係である斎藤道三と織田信長が初めて顔を合わせた出来事

  • 道三は会見前密かに信長の様子を観察したが、信長の最新鋭の軍備を見て圧倒された

  • この会見で道三は信長が本当は“大うつけ”などではなく、かなりの大器であることを見抜いた


長良川で息子に討たれた道三が「美濃を信長に譲る」と遺言した理由がわかるような気がしますね。

2020年04月20日

“美濃のマムシ”と恐れられた男 斎藤道三

謎多き戦国の梟雄

今日4月20日は“美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三が亡くなった日です。(弘治二年 1556年)

道三といえば、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本木雅弘さんがカッコよくも癖のある道三役を演じて話題になっていますね。

道三は作家・司馬遼太郎の『国盗り物語』の主人公であり、これを原作として昭和四十八年(1973年)には大河ドラマ『国盗り物語』(主演:平幹二朗)も作られました。

道三が“マムシ”(蝮)に例えられる理由は、咬みつかれると命を落とす危険性のある毒を持ち、蛇のように残忍で陰険な性質だからといわれています。

また、道三は松永久秀10月9日付ブログ参照)と並び称される戦国の梟雄(きょうゆう)として知られています。

梟雄とは本来、(残忍で荒々しく強い人物)を意味しますが、戦国時代には(ずる賢く目的を達成するためには手段を選ばぬ悪人)を指して呼ばれることが多いですね。

梟雄と呼ばれる武将は他にも後北条氏の祖・北条早雲がいますが、久秀も含め彼らに共通するのは、その前半生がほとんど不明であることです。

これは、素性のわからない者が歴史の表舞台に上がってくるためには、なりふりなど構っていられないという戦国時代ならでは風潮といえるでしょう。

では、道三はどんな“なりふり構わぬ行為”をしてきたのでしょうか?

というわけで、今回は斎藤道三について語りたいと思います。

“国盗り”は親子二代で成し遂げたものだった!

斎藤道三 明応三年(1494年)〜 弘治二年(1556年)
斎藤道三.jpg

斎藤道三の前半生が不明な点が多いのは前述の通りですが、少年期に京都の妙覚寺で僧侶としての修業を積んだ後、大山崎の油問屋に婿入りして油売りの商人となったようです。

道三は油売りをしながら諸国を歩き回り各地の情勢を探っていましが、そこで目を付けたのが美濃(岐阜県)でした。

その頃、国内情勢が混沌としていた美濃に潜入した道三は、まず美濃の豪族・長井氏に仕官、やがて長井氏の推挙で美濃守護の弟・土岐頼芸(よりなり、又はよりのり)に仕えることになります。

守護の座を狙っていた頼芸は、道三の策謀によって兄の政頼を追放して守護となりました。

念願の守護となり喜んだ頼芸はますます道三を気に入り、寵愛していた深芳野を道三の妻として下げ渡すほどでした。

しかし、道三の専横が目立ち始めると、道三を推挙した長井氏などの反感を買うようになります。

すると、道三は主家だった長井氏を討ち、やがて頼芸をも追放してついに美濃を奪うことに成功したのです。

・・・と、ここまでが『国盗り物語』にも描かれている道三の“下剋上物語”としての定説でした。

ところが、近年の研究によると、これは道三一人のことではなく、道三が父と親子二代で成し遂げたという説が有力です。

つまり、僧侶の修業から土岐氏に仕えるまでは道三の父・西村新左衛門尉(しんさえもんのじょう)の業績であり、新左衛門尉の死後に跡を継いだ道三が“国盗り”を完結させたというのです。

これが事実ならば、道三の代名詞である「油売り」は道三自身ではなく、道三の父の職業だったことになります。(※道三はこの間に名字を西村→長井→斎藤と次々に変えている)

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織田家と同盟し信長の舅となる

頼芸を追放して美濃一国を手に入れた道三でしたが、頼芸は隣国尾張(愛知県西部)の織田信秀を頼り、道三は信秀と戦うことになりました。

信秀は越前(福井県)の朝倉氏と手を組んで何度も美濃に攻め入りました。

天文十六年(1547年)の加納口の戦いでは、道三は兵力差において圧倒的に不利でしたが、地の利を活かして見事に織田軍を撃退します。

道三との戦いに苦戦を強いられていた信秀には、東にも駿河(静岡県)の今川義元という大敵が控えていました。

やがて信秀はこのまま美濃を攻め続けるのは得策でないと考えるようになり、一転して道三に和睦を申し入れます。

斎藤家と織田家による同盟の証しとして、道三の娘・帰蝶10月16日付ブログ参照)を信秀の嫡男・信長に嫁がせることになりました。

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親子による骨肉の争い

天文二十三年(1554年)道三は嫡男の義龍に家督を譲り隠居します。

しかし、義龍は父の道三とは折り合いが悪く、以前から(自分の本当の父親は、道三が追放した土岐頼芸なのではないか?)という疑念を抱いていました。

つまり、義龍の母・深芳野は道三の妻になった時すでに頼芸の子(義龍)を身籠っていたと思っていたのです。

それがやがて疑心暗鬼を生み、義龍は(いつか自分は道三によって廃嫡され、代わりに弟が家督を継ぐことになる)と考えるようになります。

こうして精神的に追い詰められた義龍は、とうとう父を討つことを決意します。

義龍は病気と称して二人の弟を居城に呼び出した上で殺害し、ついに父の道三に宣戦布告したのです。

道三が義龍の謀反に気付いた時には既に遅く、斎藤家のほとんどの家臣たちが義龍側についていました。

弘治二年(1556年)4月、道三と義龍は長良川を挟んで対峙しましたが、義龍軍がおよそ17,500だったのに対し、道三に味方した兵はわずか2,700であり、とうてい道三に勝ち目はありませんでした。

道三は激戦の末に討ち取られますが、皮肉にも最後になって義龍の見事な采配ぶりを見直したといわれています。

一方、道三から援軍要請を受けていた信長は自ら軍勢を率いて道三救出に向かいましたが、到着する前に道三は討死してしまい間に合いませんでした。

道三は義龍との決戦前夜、「美濃を信長に譲り渡す」という旨の遺言状を書いていたそうです。



まとめ

  • “美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三は親子二代にわたって美濃の国盗りを成し遂げた

  • 織田家と手を結んだ道三は娘の帰蝶を織田信長に嫁がせ信長の舅となった

  • 道三は隠居した後に息子・義龍の謀反に遭い討死した


道三は若き日の信長をどう見ていたのでしょうか?
それは、また次回にお送りします。

2020年04月17日

“天下泰平”をもたらした戦国の覇者 徳川家康

政策転換が意味するものとは?

昨日、緊急事態宣言がこれまでの7都府県から全国すべての都道府県に拡大されました。

さらに、所得が減少した世帯を対象に30万円を給付する案が撤回され、所得制限なく全国民に一律10万円を給付することがほぼ決定しました。

昨夜行われた安倍総理の会見の様子を見ると、何か“焦りと苛立ち”のようなものを感じました。

これらは一体、何を意味するのでしょうか?

もしかしたら・・・いや、もしかしなくても、今の日本は私たち一般人が考えるより、はるかに深刻な状況になっているのかもしれません。

これは、僕を含め楽観的な国民に対して、(今、日本が置かれている状況をしっかりと把握し、今後起こりうる“最悪の事態”を想定し備えよ!)という警告とも受け取れます。

改めて気を引き締め、コロナ対策に臨まなければなりません。


さて、今日4月17日は徳川家康が亡くなった日です。(元和二年 1616年)

徳川家康については・・・正直、これほどの大物になると内容が多過ぎて、この人物の何について語ればいいのか逆にわからなくなります。(汗)

エピソードの少ない人物を取り上げるのは難しいのですが、あまりに多過ぎるのも考えものです。

また、家康の場合は三英傑(信長・秀吉・家康)の中でも特に幼少期から亡くなるまで波乱万丈の人生を歩んだので、コンパクトにまとめるのが尚更難しいのです。

しかし、家康は様々な合戦や人物エピソードなど主役以外でも度々登場するので、命日に改めて彼の人生を振り返ってみるのもいいかもしれませんね。

というわけで、今回は徳川家康の生涯について語りたいと思います。

不遇な人質生活が後の人生の糧に

徳川家康 天文十一年(1542年)〜 元和二年(1616年)
徳川家康(将軍).jpg

家康は松平広忠の嫡男として三河(愛知県東部)岡崎で生まれます。幼名は竹千代。

弱小だった松平家は駿河(静岡県中部)の今川義元の庇護を受けるため、父の広忠は6歳の竹千代を今川家へ人質に出しました。

竹千代は人質先で元服し、義元の偏諱を受けて「松平元康」と名乗りますが、人質生活は延べ12年間にも及びました。

しかし、この長い人質生活を耐え忍んだ経験が、後に彼の驚異的ともいえる忍耐強さを培ったと考えられています。

永禄三年(1560年)桶狭間の戦い5月18日付ブログ参照)で義元が敗死すると、元康は故郷の岡崎に帰って独立、名も「徳川家康」と改めました。

桶狭間の戦いで義元を破った尾張(愛知県西部)の織田信長と同盟し、領内にはびこる一向一揆に苦戦しつつも、やがて三河統一を果たします。

元亀三年(1572年)家康の前に最大の敵が現れます。

天下を狙って上洛を開始した“甲斐(山梨県)の虎”武田信玄です。(4月10日付ブログ参照

領国に侵入してきた武田軍に対し、家康は三方ヶ原において戦いを挑むも力の差は歴然であり、大敗を喫してしまいます。(12月20日付ブログ参照

しかしながら、信玄相手に臆することなく真っ向から立ち向かい、武将としての意地をみせた家康は、三年後の天正三年(1575年)長篠の戦いで武田家にリベンジを果たしました。

天正七年(1579年)家康にまたしても大きな試練が訪れます。

信長により、妻の築山殿と嫡男の信康が敵である武田家に内通しているという嫌疑がかけられてしまい、信長は家康に築山殿と信康の処分を迫ったのです。

家康は今や強大な勢力となった信長に逆らっては徳川家の存続が危ういと考え、苦悩の末に築山殿を家臣に殺害させた後に信康を切腹させました

この事件は、信康の将来性を恐れた信長が、家康の忠誠心を試すために仕組んだ陰謀といわれています。

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試練を乗り越えた先に開けた天下人への道

天正十年(1582年)本能寺の変で信長が自害すると、信長の家臣だった羽柴(豊臣)秀吉が台頭してきます。

家康は秀吉と争った小牧・長久手の戦いには勝利するものの、長期にわたる秀吉の巧みな外交戦略の前に根負けし、結局秀吉に臣従することとなりました。

天正十八年(1590年)秀吉が全国統一を果たすと、家康は関東に転封させられますが、この時点で秀吉をも超える石高を領有し国内最大の大名になりました。

豊臣政権下では五大老の筆頭となりますが、朝鮮出兵には従軍しなかったのでこの間に軍事力を温存することができ、これが後の関ヶ原の結果にも影響したと考えられます。

秀吉の死後、ようやく家康は天下取りの野望を顕わにし、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)に勝利して天下の覇権を握りました。

慶長八年(1603年)家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開くも、わずか二年で将軍職を子の秀忠に譲ってしまうのです。

おそらく、家康は関ヶ原で勝利した直後から

いかにして豊臣家を滅ぼすか?

の一点に集中していたので、将軍の地位にはさして興味を示さなかったものと思われます。

家康は半ば強引に豊臣家を討つための口実を作り、慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)でついに悲願だった豊臣家滅亡を果たしました。

将来の禍根を全て絶ち、何も思い残すことが無くなった家康は、翌年の元和二年(1616年)4月17日、75歳で永眠しました。

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天下取りのポイントは何だったのか?

信長や秀吉でも叶わなかった“戦国の最終覇者”に家康がなれたポイントはどこにあったのでしょうか?

これについては様々な要素があるものの、“最終覇者”という観点から言えば、やはり健康長寿が大きな要因といえるでしょう。

武田信玄は天下を取れるだけの器でしたが、天下取りの志半ばにして53歳で病死、織田信長は天下取り目前でしたが49歳の時に本能寺で横死、豊臣秀吉は天下統一を果たしたものの子供がなかなかできず、豊臣政権の下地を固める前に62歳で病死しました。

そんな彼らに対し、まず家康は「人生五十年」といわれた時代に75歳という長寿をまっとうしたのです。

その間に関ヶ原の戦いや大坂の役で敵を確実に殲滅し、多くの妻妾に16人もの子供を産ませて徳川政権の土台を盤石にしました。

しかし、家康の長寿は決して“偶然”ではないのです。

家康は漢方医学を学び、特に薬学については力を注いでいました

久能山のふもとに薬草園を作り100種類以上の薬草を栽培、それらの薬草を家康自らが調合して自家製の薬まで作っていたのです。

このようなことから考えれば、家康の長寿は医学知識を身に付け、健康管理に関して常に細心の注意を払っていたため“必然”の結果といえるでしょう。



まとめ

  • コ川家康は少年時代の長い人質生活によって強い忍耐力が培われた

  • 家康は信長や秀吉の下風に立ち、ジッと耐え忍んだことで天下取りへの道が開けた

  • 家康が天下取りを成し遂げた大きな要因は、徹底した健康管理に基づく長寿にあった


日本が今こういう時だからこそ、私たちは家康の忍耐強さを見習うべきかもしれませんね。
プロフィール
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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