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2020年01月31日

本能寺の変のカギを握る !? 明智光秀の名言

光秀が遺した言葉からそのポリシーを探る

大河ドラマは昨年の「いだてん」から「麒麟がくる」になって視聴率が好転しているようですね。

思うに、大河ドラマの枠は基本的に戦国ものと幕末ものが求められている傾向があるので、そういう意味で「いだてん」の時代設定には違和感があって、あまり視聴者に受け入れられなかったんじゃないかと考えられます。

なので、僕は決して「いだてん」が駄作で視聴率が悪かったのではなく、もっと別の枠で放送していたら好評だったかもしれないと思うのです。

「いだてん」の脚本を担当した宮藤官九郎さんは、「木更津キャッツアイ」、「タイガー&ドラゴン」、「あまちゃん」など数々のヒット作を生み出した方なので、(大河の枠でさえなければ・・・)と、残念に思ってしまうのです。


さて、今年の大河ドラマの主役・明智光秀ですが、この人物の前半生は不明な点が多く、謎に包まれています。
明智光秀.jpg
享禄元年(1528年)?〜 天正十年(1582年)

ある程度信憑性のある史料に彼が登場するのは、越前(福井県)の朝倉氏に仕えた後からなので、それ以前の光秀を描くのはなかなか困難なことです。

ドラマの中では斎藤道三や帰蝶(濃姫)と親密な関係にありますが、実際にはどうだったかわかりませんねぇ〜。(笑)

それはともかく、話題性という点で光秀は今欠かせない存在になってますので、今年は光秀について何度かやっていきたいと考えています。

というわけで、今回は明智光秀が遺した名言について語りたいと思います。

「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という」

本来、武士にとって「嘘をつく」ことは恥と考えられていました。

実際、戦国時代の前半に活躍した北条早雲や朝倉宗滴などの名将はそう述べています。

しかし、戦国の世は謀略や相手との駆け引きに優れていなければ生き残ることができない時代です。

若い頃から諸国を放浪し、厳しい状況下で生き抜いてきた光秀だからこそ、敢えて嘘を肯定し、武士が生き残るためには必要な武略の一つとして考えるようになったのではないでしょうか?

現在でも「嘘も方便」という諺が使われています。

光秀は、仏教における説法の嘘が方便として認められるのなら、武士が生き残るために使う武略としての嘘も認められていいはずと考えていたのかもしれません。

そして、光秀はこの言葉の最後に「百姓はかわゆきことなり」とも言っています。

光秀は、坊さんや武士のしたたかさと比べたら、これらの「嘘」を素直に信じる農民はかわいいものだと考えていたのでしょう。

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「徳なき王は匹夫、これを討つのは天の意志である」

これは、光秀の言葉というよりも考え方といった方が正しいかもしれません。

元々これは中国の戦国時代の思想家・孟子の言葉です。

孟子の思想は「臣(部下)が君(上司)を討つ」ことを認めているので、昔から日本では忌み嫌われる傾向がありました。

それでも、光秀は孟子の思想に傾倒していたといわれています。

この言葉をもっとわかり易く説明すると、「徳を失った王はただの匹夫(愚かな人間)に過ぎない。これを討つということは、王を討つのではなく匹夫を討つことなので、至極当然の道理である」という意味です。

これは一見、戦国時代の主流であった「下剋上の原理」に類似しているとも思われます。

しかし、光秀は教養ある常識人だったので、むやみに家臣が主君を討つ下剋上の考え方を全面的に支持していたわけではありません。

光秀は孟子の思想に従い、(尊敬できる主君ではなく、匹夫に成り下がってしまった主君を討つのは“世の習い”だ)と考えていたのではないでしょうか?

光秀は、比叡山の焼き討ち、足利将軍の追放、一向宗徒の殺戮、ついには朝廷を蔑ろにして自らが神になろうとしていた主君・信長を許し難い(匹夫)だと思っていたのかもしれません。

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「ときは今 あめが下しる 五月かな」

これは、本能寺の変が起こる直前の天正十年(1582年)5月28日に光秀が詠んだとされる句です。

この日、光秀は京都の愛宕神社で連歌師の里村紹巴などを招いて連歌会を開催しました。

この句を分析すると「とき」=「土岐」で、明智氏の源流である土岐氏を指し、「あめが下しる」は「あめ」=「天」で「天下を治める」を意味すると考えられます。

つまり、この句は「今こそ土岐氏が天下を治める」という光秀の決意表明そのものだと解釈できるのです。

そもそも連歌には掛け言葉の意味合いも含まれてますから、この連歌会の参加者は光秀がこの句に込めた真意を汲み取り、一種異様な雰囲気になったのではないでしょうか。

また、光秀はこの前日にも愛宕神社を訪れ、神前で占いを行ない、その後おみくじを何度も引いています。

さらに光秀は連歌会の最中、「本能寺の堀は浅いのか深いのか?」と参加者に尋ねたともいわれています。

これら光秀の言動が“何を意味するか?”は想像に難くないでしょう。



まとめ

  • 「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という」
     →武士にとって嘘は恥ではなく武略の一つ


  • 「徳なき王は匹夫、これを討つのは天の意志である」
     →愚かな人間に成り下がった主君を討つのは世の習い


  • 「ときは今 あめが下しる 五月かな」
     →今こそ土岐(光秀)が天下を治める時期だ


今年の大河ドラマを見る上で、これらの言葉は光秀の生き方のヒントになるかもしれませんね。

2020年01月29日

これぞ内助の功! 戦国武将を支えた妻たち

“縁の下の力持ち” だけではない妻の存在感

雪が降った昨日の寒さから一転して今日はびっくりするほど暖かかったですね。

普段の冬の服装では暑いくらいでした。

何しろ今日は4月上旬〜中旬くらいの気温だったとか。

九州では道路が冠水するほどの大雨が降るなど、夏ならともかく今の時期としてはちょっと考えられない異常気象ですね。

僕個人としては、寒さが苦手で冬が好きではないので、暖冬のままいつの間にか春になってくれたら理想的です。(笑)


さて、今日は戦国武将を陰で支えた女性たちを紹介します。

10月16日付のブログでも帰蝶(織田信長の妻)、松(前田利家の妻)、玉(細川忠興の妻)の名言について語りましたが、今回紹介するのは夫を歴史の表舞台に引き上げた女性たちです。

今でも良妻賢母な女性を妻に持つ夫が出世すると“内助の功”などと表現されますが、戦国時代は男尊女卑が酷く、政略結婚が横行するなど女性が「道具」のように扱われていた時代でした。

なので、女性の活躍や努力も軽視され、女性が表舞台に現れることはほとんどありませんでした。

そんな時代にあって、夫の出世に多大な貢献をしたと評価されている女性は並大抵ではないと思われます。

というわけで、今回は内助の功の代表とも言える戦国武将の妻について語りたいと思います。

自らの身を削って夫の面子を立てる

煕子(ひろこ 明智光秀の妻)


美濃(岐阜県)の豪族・妻木範煕の娘であった煕子は、光秀と婚約した後に疱瘡(天然痘)を患い、完治後もその痕が全身に残ってしまいました。

これが理由で破談になることを恐れた範煕は、煕子とそっくりな妹を煕子と偽り光秀の元に送りました。

しかし、光秀はこれを見破り、

「たとえ見た目が変わろうとも、私が妻として迎えるのは煕子だけです」

と宣言し、改めて煕子を迎えたといいます。

その後、光秀が仕えていた斎藤道三が息子の義龍に討たれてしまったため、光秀は浪人となり諸国を放浪した後、越前(福井県)の朝倉氏に仕えることになりました。

当時、朝倉家では家臣たちが月に一回持ち回りで会合を開き、回ってきた家では客人たちをもてなすのが恒例行事でした。

やがて光秀の順番が回ってきましたが、当時は日々の暮らしにも困窮するほど貧しく、とても客人をもてなす余裕などありませんでした。

困り果てた光秀が妻に相談すると、煕子は「わかりました。私にお任せ下さい」と快く引き受けました。

会合の当日、煕子は立派な御馳走や酒を用意してもてなし、客人たちはみな満足して帰りました。

客人たちが帰った後、光秀が今回の費用はどうしたのかと妻に尋ねると、煕子は頭にかぶっていた頭巾を取り、自らの髪を売って資金を調達したことを告白しました。

妻の献身に感激した光秀は「俺は必ず出世してこの恩に報いる。そして側室(正妻以外の妻)など一生持たない」と誓いました。

事実、光秀は戦国武将としては珍しく側室を持つことはなく、生涯煕子を大切にしたといいます。

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夫の“ここ一番!” を心得ていた妻

千代(ちよ 山内一豊の妻)


一豊が織田信長に仕えて間もない頃、安土の城下に馬商人が「東国一の名馬」という触れ込みで10両もする高額な馬を売りに来ました。

一豊にも一目でわかるほど素晴らしい名馬でした。

しかし、当時500石取りしかない貧しい武将だった一豊にとって10両はとんでもない大金であり、とても買うことはできませんでした。

残念に思いながら家に帰って妻にこのことを話すと、なんと千代は黙って10両を夫に差し出したのです。

驚く夫に千代は

「このお金は私が嫁ぐ時、“この金は夫の一大事の時に使いなさい” と両親から渡されたものです。今こそその時だと思うので、ぜひその名馬をお買い下さい」

と答えました。

さっそく一豊はそのお金で名馬を買いました。
千代.jpg
千代と名馬の像

そうして間もなく、信長は京都で盛大な馬揃え(閲兵式、軍事パレード)を開催し、一豊も例の名馬に乗って参加しました。

たくさんいた名馬の中でも一豊の馬は一際目立つ存在で、信長の目にも止まりました。

一豊の身の上を知った信長は

「貧しい身でありながら、これほどの名馬を求めるとは武士の誉、天晴れである」

と、一豊を褒め称え、その場で一豊に1000石を加増したのです。

これによりきっかけを掴んだ一豊は、やがて土佐(高知県)一国を支配するほどの大名にまで出世しました。

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“ダメ夫” を支えて名門を復活させた妻

(はつ 京極高次の妻)


初は「浅井三姉妹」の次女で、織田信長の姪にあたる女性です。

姉の茶々が豊臣秀吉の側室(後の淀殿)、妹のが二代将軍・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)の正室という大きな権力者の妻になったのに対し、初が嫁いだ京極高次は地味な存在でした。

高次の京極家は室町幕府の中でも「四職」に任命されていたほどの名門でしたが、戦国時代の下剋上の波に呑まれ既に落ちぶれていました。

それにも増して、この高次という男は「ダメ男」と言われても仕方ない人物だったのです。

高次は、本能寺の変では明智光秀に味方し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側、さらに関ヶ原では最初西軍についた揚句に東軍に寝返っているのです。

つまり、ことごとく負け組を選んでしまい、よくもまぁここまでと呆れるほど優柔不断で先見性のない男だったのです。

そんなダメ男を支えたのが妻の初でした。

いくら京極家がもともと名門だったといっても弱肉強食の戦国時代にそんなことは関係なく、室町時代に名門といわれた名家の多くは滅びています。

普通なら一度でも負け組についてしまった時点で即滅んでも不思議ではない時代です。

しかし、高次が何度も救われ、さらに名門復活といえるほどの出世ができたのは、初が天下人・秀吉の寵愛を受けていた姉の茶々に事あるごとに働きかけていたからといわれています。

高次が秀吉に目を掛けられていたのは、実姉が秀吉の側室(松の丸殿)になっていたこともありますが、やはり妻である初の存在は大きかったでしょう。

徳川の時代になっても、初の妹が二代将軍の正室だったことから、高次は幕府から破格の厚遇を受けました。



まとめ

  • 明智光秀の妻・煕子は自らの髪を売ったお金で客人をもてなし、光秀の面子を保った

  • 山内一豊は妻・千代が与えてくれたお金で名馬を買い、このことで出世の糸口を掴んだ

  • 京極高次は妻・初の支えで名門の京極家を復活させることができた


光秀の妻のエピソードは大河ドラマのネタバレになるかも?(笑)

2020年01月27日

悲劇の将軍!源実朝暗殺の真相に迫る

黒幕は北条氏ではなかった !?

今日1月27日は鎌倉幕府三代将軍・源実朝が亡くなった日です。(健保七年 1219年)※改元前
源実朝.jpg
建久三年(1192年)〜 健保七年(1219年)

実朝は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝1月13日付ブログ参照)の次男として生まれ、若くして将軍の座に就いたものの、公の場で身内に殺された悲劇の将軍です。

実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮において甥の公暁に暗殺され、その公暁も直後に殺されたことで源氏の直系が途絶えてしまいました。

一般的にこの事件については、頼朝の嫡男であった二代将軍・頼家が伊豆の修禅寺に幽閉された後に暗殺された出来事が、現将軍である実朝の陰謀だと吹き込まれた頼家の子・公暁が父の復讐のために実朝を討ったとされています。

当初、この事件の黒幕は北条一族とされていました

なぜなら、源氏の正統が断絶すれば、幕府の実権を握れるのは御家人の中で最も実力のある北条氏だからです。

しかし、北条氏が黒幕だとすると疑問が残ります。

実朝は気性の激しかった兄の頼家と違って大人しい性格だったので、有力御家人の北条氏と対立することもなく、実朝の将軍就任中も実質的には北条氏が実権を握っていました。

そんな実朝を、なぜ今さら北条氏が殺す必要があるのでしょうか?

この事件にはもっと深い陰謀が隠されていたのです。

というわけで、今回は実朝暗殺の真相について語りたいと思います。

事件の概要

健保七年(1219年)1月27日、雪が降りしきる鎌倉の鶴岡八幡宮において、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が右大臣に任命されたことの就任式典が行われました。

式典後(最中とも)、石段脇の大銀杏の陰から突然一人の男が飛び出し、「親の仇はかく討つぞ!」と叫んで実朝を斬り、傍にいた太刀持ちの源仲章も斬り捨てました。

この暗殺者は二代将軍・源頼家の遺児である公暁で、殺された実朝にとっては甥にあたる人物でした。

公暁は討ち取った実朝の首を持ち去り自宅に戻った後、「今こそ我は大将軍である。その準備をせよ」という書状を書き、その書状を有力御家人の三浦義村の元に届けさせました。

しかし、いくら待っても義村が来ないので、公暁自ら義村の屋敷へ出向きました。

すると、公暁は義村の屋敷に着いたところで義村の家臣に襲われ殺されてしまったのです。

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三浦義村黒幕説

この説の根拠は、公暁が義村の家臣に殺されたからだけではありません。

この時に実朝と一緒に殺された源仲章がこの説のカギを握っています。

実はこの式典における実朝の太刀持ちは最初、北条義時だったのです。

ところが、義時は体調不良のため、式典の途中で太刀持ちを仲章に代わってもらったのです。

そして、公暁はこの太刀持ちが義時から仲章に代わったとは知らずに斬りました。

つまり、当初から公暁は実朝だけでなく義時も殺すつもりだったと思われるのです。

犯行の時、公暁が叫んだ「親の仇」も、実朝ではなく義時のことだったと考えられます。

なぜなら、公暁の父・頼家は北条氏と激しく対立していたために幽閉され後に暗殺されたことから、頼家暗殺が北条氏の仕業というのは暗黙の事実とされていたからです。

事件後の公暁の言葉も含めて考えると、実朝を殺したのは怨恨ではなく自分が次の将軍になるためであって、「親の仇」は義時の方だったと推測されます。

それでは、三浦義村はこのことにどう関係しているのでしょうか?

公暁の乳母が義村の妻であったことから、公暁と義村は親子に近いような親密な関係だったのです。

初代将軍の頼朝の死後、北条氏は幕府の実権を握るため有力御家人を次々と滅ぼしていたので、義村も危機感を抱いていました。

そこで、義村は公暁をそそのかし、公暁に実朝と義時の二人を殺させた上で公暁を次期将軍に擁立し、自らは公暁の後見人として北条氏に代わって幕府の実権を握ろうとしていたのではないでしょうか?

しかし、義時暗殺が失敗したことを知り、義時に今回の目論みが発覚してしまうことを恐れた義村が、口封じのために公暁を殺したと考えられます。

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実朝暗殺は鎌倉武士の総意だった !?

この事件の真相は、北条氏や三浦氏の有力御家人による権力闘争などが原因ではなく、武士社会全体に関わる切実な問題が背景にあったとも考えられています。

日本ではこの半世紀ほど前まで朝廷を中心とした貴族が政治を行なっていました。

貴族政治の下で武士たちはまるで「番犬」のように蔑まれ、ずっと貴族たちに虐げられてきたのです。

関東では源頼朝が将軍となり幕府を開いたことで、ようやく武士たちの地位が向上したのです。

しかし、実朝は武士でありながら貴族的な性格をもつ将軍でした。

公家の娘を妻に迎え、側近も後鳥羽上皇に仕えていた源仲章を始め朝廷寄りの人間が多かったのです。

また、実朝は歌人としても有名で、自らの歌集として『金槐和歌集』を出しています。

この和歌を通じても朝廷の貴族たちと親交が深かったといわれています。

かつて、平氏や木曾義仲1月20日付ブログ参照)、源義経が朝廷と関わったことで破滅への道を歩んだことを幕府の御家人たちはよく知っていました。

御家人たちは実朝に、武家が朝廷と関わることの危うさを説き行動を諌めますが、実朝の貴族志向はやむことがありませんでした。

そこで、実朝が将軍に君臨していることで幕府の将来に不安を覚えた御家人たちが、公暁を使って実朝を亡き者にしたということです。

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まとめ

  • 鎌倉幕府三代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で甥の公暁に襲われ命を落とした

  • この事件の黒幕とされる三浦義村は北条氏に代わって幕府の実権を握ろうとしていたが、北条義時暗殺が失敗したので口封じのため公暁を殺した

  • 御家人同士の権力闘争が原因ではなく、貴族志向の強かった実朝を不安視した鎌倉武士の総意でなされたとも考えられる


頼朝の血を引く源氏の直系がすべて悲劇的な最期を迎えてしまったのは、数々の陰謀によって多くの人間を葬ってきた頼朝の因果応報といえるのでしょうか。

2020年01月24日

“凡庸”に異議あり! 徳川秀忠の功績

偉大な父の跡を継いだ二代目

今日1月24日は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が亡くなった日です。(寛永九年 1632年)

多くの方が「徳川」といえば、イコール「家康」を連想してしまうほど、家康は戦国武将としても政治家としても傑出した人物ですね。

家康の存在が偉大すぎる故、その跡を継いだ秀忠は影の薄い人物として見られてしまうことが多いと思われます。

昔からよくある事例として、一代で頭角を表わした偉人の二代目は凡人で、不思議と三代目になって再び優れた人物が出てくるケースがあるといわれます。

徳川家もそう言われる傾向があります。

つまり、二代目の秀忠は凡人で三代目の家光が優秀だということですね。

しかし、それはどうでしょうか?

家光が将軍になっても、しばらくは父の秀忠が大御所として実権を握り、家光は父の死後に父が作り上げた武断政治を踏襲したに過ぎないともいえるのです。

家光の政治で大きな業績である参勤交代も、秀忠が力を注いでいた大名統制策を受け継いで制度化されたものです。

家康のように、たった一代で偉大な功績を遺した人物は並みの才能の持ち主ではありません。

つまり、親があまりにも優れた能力を持つ故、その子は親の威厳の前に圧倒されてしまい、その結果、自然と大人しく控えめな性格になりやすいので、親と比べて目立つことが少ないため、平凡な人間のように思われてしまうのです。

家康はたくさんいた子供たちの中から、なぜ秀忠を自分の後継者に指名したのでしょうか?

というわけで、今回は徳川秀忠について語りたいと思います。

三男なのに後継者候補 !?

徳川秀忠 天正七年(1579年)〜 寛永九年(1632年)
徳川秀忠.jpg

秀忠は徳川家康4月17日付ブログ参照)の三男として遠江(静岡県西部)の浜松で生まれます。幼名は長松。

長松誕生から間もなくして長兄の信康が織田信長の命令で切腹させられており、次兄の秀康も結城家に養子に出されたので、長松は家康の跡継ぎ候補として育てられました。

天正十八年(1590年)1月 豊臣秀吉の人質として上洛した長松はこの時に元服し、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗りました。

文禄四年(1595年)9月 浅井長政の娘(織田信長の姪)で秀吉の養女となっていた江(ごう)と結婚します。

江は出戻りで秀忠より6歳年上の姉さん女房でしたが、江との仲は睦まじく、秀忠は側室(江以外の妻)を生涯持たなかった稀有な将軍として有名でした。

江との間に二男五女をもうけ、末娘の和子(まさこ)は後水尾天皇に嫁ぎ、皇室にも徳川家の血筋を遺しました。

また、後水尾天皇と和子の間に生まれた娘が明正天皇(女帝)として即位したので、秀忠は天皇の外戚にもなっているのです。

慶長十年(1605年)4月 家康の跡を継ぎ、秀忠は二代将軍となりますが、幕府の実権は依然として大御所となった家康が握ったままであり、秀忠は偉大な父を持つ二代目としての苦悩を味わうことになります。

元和九年(1623年)7月 将軍職を嫡男の家光に譲りますが、秀忠も父家康と同じく大御所となり、亡くなるまで幕府の実権を握っていました。

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大失態!関ヶ原に間に合わず

秀忠の生涯を語る上で最もクローズアップされてしまうのが、皮肉にもこの失態です。

慶長五年(1600年)9月 関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)に臨むに当たり、家康の本隊は江戸から東海道を西に進み、秀忠には中山道を進む別働隊3万8千を率いる役割が与えられました。

秀忠は進軍の途中、家康に反旗を翻した北信濃(長野県北部)の真田昌幸幸村の親子を攻めました。

秀忠としては関ヶ原参戦の前に手柄を立て、父への手土産としたかったのでしょう。

しかし、百戦錬磨の真田親子の守る上田城は守りが固く、秀忠は大軍をもってしても攻めあぐねてしまい、結局上田城は落とせませんでした。

それどころか、上田城攻めにかなりの時間を費やしてしまったため、肝心の関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を犯してしまったのです。(9月19日付ブログ参照

当然、秀忠は家康の激しい怒りを買ってしまい、秀忠の関ヶ原到着後、家康は会うことすら許しませんでした。

秀忠にはこの時の失敗がよほど堪えたものと思われ、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣の時には、関ヶ原遅参の汚名返上と言わんばかりに5万もの大軍を猛スピードで畿内へ進軍させたのです。

しかし、早く着くことばかりに気を取られていたので、肝心の戦の準備が整っておらず、その上かなりの強行軍により兵も疲弊させてしまい、またしても家康に叱責されてしまう結果となってしまいました。

まさに、「羹(あつもの)に懲りて なますを吹く」といった感じですね。(笑)

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秀忠は“凡庸な二代目”ではない

何かと父家康の影に隠れがちな秀忠ですが、諸大名を統制する武家諸法度、朝廷や公家たちを統制する禁中並公家諸法度などを制定し、幕府機構を整備するための基礎を固めたのは紛れもなく秀忠の功績と言えます。

特に将軍の権威を確立するための大名統制策は家康を上回る厳しいものがあり、秀忠が将軍在職中、改易(お家取り潰し)された大名は41家にも及びました。

秀忠は外様大名を改易・転封(領地移転)した跡地には徳川の親藩・譜代大名を配置し、周辺大名の監視を強化して強固な支配体制を構築することに余念がありませんでした。

このような秀忠の努力により、その後250年にも及ぶ徳川幕府の安定した長期政権が続けられたといっても過言ではないのです。


秀忠は関ヶ原における失態をみてもわかるように、戦場においてはこれといった功績がなく、武将としては今一つだったかもしれません。

家康の重臣の中には秀忠以外の子を跡継ぎに推す意見もありました。

それでも、家康が自分の後継者に指名したのは秀忠でした。

それはなぜでしょうか?

確かに秀忠は武勇という点では兄の秀康や弟の忠吉に劣りますが、これから戦乱のない平和な時代では、武勇よりも治世能力に優れた秀忠こそが徳川政権を築いていくのに相応しいと家康は考えていたからです。

そのような意味において、家康が選んだ後継者は間違っていなかったと思われます。

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まとめ

  • 徳川二代将軍・秀忠は織田信長の姪・江と結婚し、その末娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を生んだ

  • 秀忠は関ヶ原の戦いの時、合戦に間に合わず父家康に厳しく叱責された

  • 家康は平和な時代の統治者として治世能力に優れた秀忠を自分の後継者に選んだ


関ヶ原における遅参を猛省して大坂の役での速過ぎる進軍は、秀忠の真面目過ぎる一面を物語っていますね。

2020年01月22日

死の彷徨! 八甲田山雪中行軍遭難事件

史上最悪の山岳遭難事故

明日1月23日は八甲田山雪中行軍遭難事件が起きた日です。(明治三十五年 1902年)
雪中行軍遭難記念像.jpg
遭難現場付近に立つ記念像

この事件は、日本はおろか世界規模でみても山岳遭難事故としては最大級です。

日本陸軍の青森歩兵第5連隊が青森市から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事故なのですが、行軍に参加した210名中199名が死亡するという史上稀にみる大惨事になってしまったのです。

この事件については、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』で一般に知られるようになり、さらにこの小説を原作として昭和52年(1977年)に上映された映画『八甲田山』(主演:高倉健)により当時大きな話題となりました。

真冬の雪山で大規模な行軍訓練が行われたのは理由があります。

日本は明治二十七年(1894年)の日清戦争に勝利したのですが、その後ロシアを中心とした三国干渉により戦利地の一部を手放さねばならなかったのです。

この時の屈辱から、日本はロシアを敵国とみなし、来たるべきロシアとの戦争を想定して軍隊は寒冷地での戦いに慣れておく必要がありました

そのための訓練地として選ばれたのが青森県の八甲田山でした。

現在でも冬山での遭難は毎年起きていますが、それにしても、なぜこれほどの甚大な犠牲者が出てしまったのでしょうか?

というわけで、今回は八甲田山雪中行軍遭難事件について語りたいと思います。

遭難の経緯

この行軍訓練は、青森屯営(駐屯地)から八甲田山の田代新湯にある温泉地までの片道21`を1泊2日で往復する行程でした。
八甲田山地図.jpg

明治三十五年(1902年)1月23日 午前6時55分、神成(かんなり)中隊長を指揮官とする青森歩兵第5連隊に加え、行軍を監督するために山口大隊長率いる特別移動大隊本部も随行し、総勢210名は青森屯営を出発しました。

途中、天候が悪化してきたことから、田茂木野の地元住民に「この先の行軍はやめた方がいい。もし先に進むなら、案内人をつけるべきだ」と忠告されます。

しかし、夏に何度も行軍訓練を行なっていて慣れた道だったことから指揮官たちはこの申し出を断ってしまいます。

その後、予想以上の降雪の影響で荷物や食糧を運ぶためのソリがほとんど動かなくなってしまい、次第に行軍全体が進まなくなっていきました

この状況に加えさらに猛吹雪ともいえる悪天候となったため、行軍の中止も検討されましたが、山口大隊長は続行を命令します。

午後4時、先頭部隊が馬立場に到着しましたが、ソリ隊は既に1時間以上遅れていました。

遅れを取り戻すため日没後も行軍しますが、これ以上先に進むのは無理と判断、午後8時30分に目的地の田代新湯まであと1.5`の平沢で露営(野宿)することを決断します。

隊員たちは寒さを凌ぐため、雪穴を掘って狭い穴の中で立ったまま夜を明かすことになりました。

【ひかりTVブック(電子書籍)】
生き地獄と化した死の彷徨

翌24日午前1時、このままでは全員凍死してしまうことを恐れた山口大隊長がついに帰営(青森屯営に戻ること)を決断します。

この時、神成中隊長は「真夜中の猛吹雪の中では方向が分からず、かえって危険なので朝を待つべき」と反対しますが聞き入れられませんでした。

午前2時30分、青森屯営に向けて帰営を開始しますが、猛吹雪のため顔を上げて進むことができず、方向を見失い部隊は雪の中を迷走してしまいます。

隊員たちは次々に低体温症重度の凍傷になり動けなくなる者が続出、また極度の疲労と不眠により幻覚を見て錯乱し、裸になって凍死する者までいました。

このような状況に陥り、山口大隊長は帰営するより近い田代新湯に向かった方が早いのではと考えあろうことか再び今来た道を戻ることを決断したのです。

その後、何時間歩こうとも目的地には着けず、結局午後5時まで歩き続けてようやく2日目の露営地が決まりました。

後の調査で分かったことなのですが、驚くことにその場所は最初の露営地からなんと数百bしか離れていなかったのです。

つまり、午前2時30分に最初の露営地を出発して2日目の露営地に到着するまで14時間以上歩き続けて数百bしか進んでいないことになり、この時の行軍がいかに迷走していたかが窺えます。

2日目の露営地でも続々と凍死者が出たので、隊員たちはここを出ることを願い出ますが、山口大隊長は前日の決断失敗から夜に動くことをためらいました。

それでも隊員たちに懇願されたため、翌25日午前3時、再び真夜中の行軍を開始したのです。

しかし、またしても迷走してしまい、ついに神成中隊長は「天は我々を見放した!」と、絶望的な言葉を口にしてしまいます。

この言葉をきっかけに、それまでわずかな気力だけで生き長らえていた隊員たちの心が折れ、次々に倒れていったといいます。

その後、第5連隊は出発から4日後までに生き残っていたのは30名で、最終的に救助されたのはわずか17名(うち6名も救助後に死亡)だけでした。

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遭難は天災ではなく人災だった !?

山岳遭難は天候の急激な悪化などが原因になることが多いのですが、これほど多くの犠牲者を出してしまった要因は、自然災害というより冬山に対する認識の甘さによるところが大きいと考えられます。

  • 予行演習との相違
    神成中隊長は本番の5日前に予行演習を行なっていましたが、この予行演習は本番の中間地点である小峠までしか行っておらず、この時は天気も晴天だったので荷物を運ぶためのソリの運行も問題ありませんでした。
    しかし、本番では吹雪の中のソリの運行はかなり時間がかかったので行軍を遅らせてしまいこれが隊員たちの体力を奪った一因でした。


  • 天候の悪化
    出発の翌日から北海道・青森地方には大寒波が襲来しており、青森市でもマイナス9℃を記録していたので、吹雪の八甲田山ではマイナス20℃を下回っていたと考えられます。
    また、猛吹雪のため視界が全く見えなくなる“ホワイトアウト”状態になり、完全に方向感覚を失っていたのです。


  • 準備不足
    雪中行軍の計画が発表されたのは出発のわずか2日前だったので、隊員たちが必要な装備を用意する時間などほとんどありませんでした。
    しかも、行先が田代新湯という温泉場と聞かされていたため、隊員たちは楽観的に考え通常の冬の装備より薄着だったのです。


  • 指揮系統の乱れ
    本来、この第5連隊の指揮官は神成中隊長ですが、神成の上官である山口大隊長が同行していたため、行軍の前進・露営・帰営などの重要な決定事項を山口が神成と相談もせず独断で命令していたことが混乱の原因となりました。
    しかもこの時、山口は猛吹雪による極寒で冷静な判断力を失っていたと思われます。


その他にも、この第5連隊の遭難が「人災」と考えられる“裏付け”となる出来事があったのです。

実はこの時、同じ陸軍の弘前歩兵第31連隊も八甲田山で1月20日〜31日まで雪中行軍を行なっていたのです。

この第31連隊は、弘前を出発し十和田湖〜八甲田山〜青森と行軍して弘前に戻る11泊12日の行程でした。

第31連隊の指揮官は行軍訓練を1ヶ月前に発表して準備を万全にし、事前に行軍で通る町村役場に食糧・休憩所・宿泊先などの協力を要請、道案内人の手配も怠りませんでした

その結果、第31連隊に参加した37名は全員無事に帰還することができたのです。

勿論、第5連隊と比べて長期に及ぶ行程だったからより慎重になったとも言えるのですが、それにしても第5連隊の計画の杜撰さと認識の甘さは否定できないでしょう。



まとめ

  • 八甲田山雪中行軍遭難事件は参加した210名中199名が死亡した世界的にみても最大級の山岳遭難事故

  • 猛吹雪の中の行軍は迷走を繰り返し、ついには幻覚を見て錯乱し裸になり凍死する者までいた

  • 多くの犠牲者を出した要因は計画の甘さや準備不足、指揮系統の乱れなど「人災」と言えるものだった


余談ですが、『新耳袋』という本の第四夜に収録されている第五十三話「八甲田山」という話は、この事件にまつわる怪談であり、とても怖い内容でした。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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