2020年01月20日
“旭将軍” と呼ばれた戦の奇才 木曾義仲
信州の山奥から打倒平氏に立ち上がる
今日1月20日は“旭将軍” の異名で知られる木曾義仲が亡くなった日です。(寿永三年 1184年)
本名:源義仲 久寿元年(1154年)〜 寿永三年(1184年)
一般的に義仲が“木曾義仲”と呼ばれるのはその出身地によるものですが、皆さんはこの木曽地方をご存知ですか?
明治時代の文豪・島崎藤村の『夜明け前』の有名な書き出し「木曾路はすべて山の中である」という言葉にも表されているように、長野県の木曽地方はかなり山深い印象があります。
僕は親戚が木曽地方にいるので子供の頃から何度も行っているのですが、この地方は深い山々によって閉ざされた集落が多く、現在でも独特な習慣や方言が根強く残っています。
まして、義仲が生きた800年以上昔の時代ともなれば、ほとんど未開の地に近かったのではないかと思われるので、ここから打倒平氏の旗挙げをしてその悲願を果たした義仲のポテンシャルは凄いものがあります。
打倒平氏と聞くと、源頼朝を総帥とした鎌倉軍とその弟の義経の活躍ばかりがクローズアップされてしまいますが、先に打倒平氏を果たしたのは義仲なのです。
そういった意味において義経の快進撃は、義仲の活躍によってすっかり勢いを失い斜陽になった平氏を倒したに過ぎないとも考えられるのです。
つまり、義仲ではなく義経がまだ勢いを失っていなかった平氏と先に戦っていたら、義経といえどもあれほどの快進撃ができたかどうかわかりません。
その義経に討たれてしまったことから、一般的にはあまり良いイメージがない義仲ですが、長野県では『信濃の国』という長野県歌の中にも登場する地元の英雄です。
というわけで、今回は木曾義仲について語りたいと思います。
奇襲戦法で平氏の大軍を撃破!
義仲は源義賢(頼朝の父・義朝の弟)の次男として武蔵(東京・埼玉・神奈川東部)に生まれます。幼名は駒王丸。
義仲が2歳の時、父義賢が甥の義平(頼朝の長兄)に討たれると、義仲の養育係であった中原兼遠とともに信濃(長野県)に逃れ、以後は兼遠の庇護の下、南信州の木曽谷で育ち“木曽義仲”と呼ばれるようになりました。
治承四年(1180年)9月、後白河法皇の皇子・以仁王の令旨(天皇の親族が発した命令書)を受け、いよいよ木曽谷から打倒平氏に立ち上がります。
各地に潜んでいた源氏や反平氏の豪族を味方につけながら北上し、信濃・越後(新潟県)を制圧した後、義仲は北陸に進出しました。
旗挙げ以来、ここまで順調に勢力を伸ばしてきた義仲の前に最大の敵が立ちはだかります。
寿永二年(1183年)5月、義仲追討のため都から派遣された平維盛軍10万と越中(富山県)と加賀(石川県)の国境付近にある砺波山で対峙することになったのです。
数の上では圧倒的に不利な義仲はここで一計を案じます。
500頭の牛の角に火をつけた松明(たいまつ)を括りつけ、山の上から敵陣に突入させる、いわゆる“火牛の計”という奇襲攻撃により見事、平氏の大軍を撃破したのです。
これが義仲の名を一躍全国に轟かせた倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いです。
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義仲の快進撃で平氏は都落ち
その後も破竹の勢いで進撃する義仲軍に恐れをなした平氏は、ついに京都を離れ西国へと逃げて行ったのです。(平氏の都落ち)
同年7月、平氏に代わり京都に入京した義仲は後白河法皇の信任を得て、左馬頭兼越後守に任ぜられました。
この頃朝廷では、平氏と共に都落ちした安徳天皇に代わって高倉上皇の皇子を新しい天皇に擁立しようとする動きがありました。
この時、義仲は北陸で共に戦ってきた以仁王の遺児・北陸宮を次期天皇として強引に推し、朝廷の皇位継承問題に介入してきたのです。
この時代、武士が朝廷の問題に介入してくることは、あの平清盛でさえ不評を買ったわけですから、ましてや地方から出てきたばかりの義仲が口出ししたとなれば朝廷も穏やかではありません。
後白河法皇は義仲の介入に激怒し、これをきっかけに両者は不仲となります。
さらに、義仲が北陸から連れてきた大軍が長く京都に居座ったため食糧不足となり、義仲の部下が略奪などの狼藉を働くようになったので京都の治安も悪化してしまいます。
都の人々からも“田舎育ちの無礼者”のレッテルを張られてしまい、「これでは平氏の方がまだマシだった」と、義仲は大いに反感を買うようになってしまいました。
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頼朝の追討軍に敗れた“旭将軍”
義仲はこのような状況を打開し、再び後白河法皇の信頼を回復するため、勢力を盛り返しつつあった西国の平氏追討に出陣します。
同年10月、備中(岡山県)水島において平氏軍と戦いますが、平氏得意の海上戦となったため、義仲軍は惨敗を喫してしまいます。
この間、既に義仲を見限っていた後白河法皇は、鎌倉の頼朝に義仲追討の院宣(法皇の命令書)を下しました。
これを知った義仲は急遽京都へ引き返し、後白河法皇を幽閉するクーデターを起こし、法皇を脅迫して逆に頼朝追討の院宣を出させたのです。
寿永三年(1184年)1月、義仲追討のために頼朝が差し向けた範頼・義経の鎌倉軍が京都に迫ってくるのを知り、義仲は朝廷に自らを征東大将軍に任命させました。
しかし、都の人々の信頼を失い、水島で平氏にも敗れた義仲を支持する者は少なく、入京した頃と比べて義仲の軍勢は激減していました。
義仲は鎌倉軍を宇治の瀬田で迎え撃ちますが、鎌倉軍の圧倒的な兵力の前に敗れます。(宇治川の戦い)
宇治川で敗れた義仲は今井兼平(中原兼遠の子)ら数名の家臣と共に逃げ延びますが、やがて鎌倉軍に追いつかれ、ついに近江(滋賀県)粟津で討死しました。
まとめ
- 信濃の木曽谷で挙兵した義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り、その名を全国に轟かせた
- 平氏を都から追い出して入京した義仲だが、皇位継承問題への介入や京都の治安悪化で信頼を失った
- 義仲は名誉挽回に奮戦するも後白河法皇に裏切られ、最後は頼朝の派遣した鎌倉軍に討たれた
義仲が俗に“旭将軍”といわれるのは『平家物語』に由来しており、義仲が入京の際「夕日のように西へ落ちていく平氏に代わって、東から昇る朝日のような勢いがあった」ことからそう呼ばれるようになりました。(※諸説あり)
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