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2020年04月17日

“天下泰平”をもたらした戦国の覇者 徳川家康

政策転換が意味するものとは?

昨日、緊急事態宣言がこれまでの7都府県から全国すべての都道府県に拡大されました。

さらに、所得が減少した世帯を対象に30万円を給付する案が撤回され、所得制限なく全国民に一律10万円を給付することがほぼ決定しました。

昨夜行われた安倍総理の会見の様子を見ると、何か“焦りと苛立ち”のようなものを感じました。

これらは一体、何を意味するのでしょうか?

もしかしたら・・・いや、もしかしなくても、今の日本は私たち一般人が考えるより、はるかに深刻な状況になっているのかもしれません。

これは、僕を含め楽観的な国民に対して、(今、日本が置かれている状況をしっかりと把握し、今後起こりうる“最悪の事態”を想定し備えよ!)という警告とも受け取れます。

改めて気を引き締め、コロナ対策に臨まなければなりません。


さて、今日4月17日は徳川家康が亡くなった日です。(元和二年 1616年)

徳川家康については・・・正直、これほどの大物になると内容が多過ぎて、この人物の何について語ればいいのか逆にわからなくなります。(汗)

エピソードの少ない人物を取り上げるのは難しいのですが、あまりに多過ぎるのも考えものです。

また、家康の場合は三英傑(信長・秀吉・家康)の中でも特に幼少期から亡くなるまで波乱万丈の人生を歩んだので、コンパクトにまとめるのが尚更難しいのです。

しかし、家康は様々な合戦や人物エピソードなど主役以外でも度々登場するので、命日に改めて彼の人生を振り返ってみるのもいいかもしれませんね。

というわけで、今回は徳川家康の生涯について語りたいと思います。

不遇な人質生活が後の人生の糧に

徳川家康 天文十一年(1542年)〜 元和二年(1616年)
徳川家康(将軍).jpg

家康は松平広忠の嫡男として三河(愛知県東部)岡崎で生まれます。幼名は竹千代。

弱小だった松平家は駿河(静岡県中部)の今川義元の庇護を受けるため、父の広忠は6歳の竹千代を今川家へ人質に出しました。

竹千代は人質先で元服し、義元の偏諱を受けて「松平元康」と名乗りますが、人質生活は延べ12年間にも及びました。

しかし、この長い人質生活を耐え忍んだ経験が、後に彼の驚異的ともいえる忍耐強さを培ったと考えられています。

永禄三年(1560年)桶狭間の戦い5月18日付ブログ参照)で義元が敗死すると、元康は故郷の岡崎に帰って独立、名も「徳川家康」と改めました。

桶狭間の戦いで義元を破った尾張(愛知県西部)の織田信長と同盟し、領内にはびこる一向一揆に苦戦しつつも、やがて三河統一を果たします。

元亀三年(1572年)家康の前に最大の敵が現れます。

天下を狙って上洛を開始した“甲斐(山梨県)の虎”武田信玄です。(4月10日付ブログ参照

領国に侵入してきた武田軍に対し、家康は三方ヶ原において戦いを挑むも力の差は歴然であり、大敗を喫してしまいます。(12月20日付ブログ参照

しかしながら、信玄相手に臆することなく真っ向から立ち向かい、武将としての意地をみせた家康は、三年後の天正三年(1575年)長篠の戦いで武田家にリベンジを果たしました。

天正七年(1579年)家康にまたしても大きな試練が訪れます。

信長により、妻の築山殿と嫡男の信康が敵である武田家に内通しているという嫌疑がかけられてしまい、信長は家康に築山殿と信康の処分を迫ったのです。

家康は今や強大な勢力となった信長に逆らっては徳川家の存続が危ういと考え、苦悩の末に築山殿を家臣に殺害させた後に信康を切腹させました

この事件は、信康の将来性を恐れた信長が、家康の忠誠心を試すために仕組んだ陰謀といわれています。

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試練を乗り越えた先に開けた天下人への道

天正十年(1582年)本能寺の変で信長が自害すると、信長の家臣だった羽柴(豊臣)秀吉が台頭してきます。

家康は秀吉と争った小牧・長久手の戦いには勝利するものの、長期にわたる秀吉の巧みな外交戦略の前に根負けし、結局秀吉に臣従することとなりました。

天正十八年(1590年)秀吉が全国統一を果たすと、家康は関東に転封させられますが、この時点で秀吉をも超える石高を領有し国内最大の大名になりました。

豊臣政権下では五大老の筆頭となりますが、朝鮮出兵には従軍しなかったのでこの間に軍事力を温存することができ、これが後の関ヶ原の結果にも影響したと考えられます。

秀吉の死後、ようやく家康は天下取りの野望を顕わにし、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)に勝利して天下の覇権を握りました。

慶長八年(1603年)家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開くも、わずか二年で将軍職を子の秀忠に譲ってしまうのです。

おそらく、家康は関ヶ原で勝利した直後から

いかにして豊臣家を滅ぼすか?

の一点に集中していたので、将軍の地位にはさして興味を示さなかったものと思われます。

家康は半ば強引に豊臣家を討つための口実を作り、慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)でついに悲願だった豊臣家滅亡を果たしました。

将来の禍根を全て絶ち、何も思い残すことが無くなった家康は、翌年の元和二年(1616年)4月17日、75歳で永眠しました。

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天下取りのポイントは何だったのか?

信長や秀吉でも叶わなかった“戦国の最終覇者”に家康がなれたポイントはどこにあったのでしょうか?

これについては様々な要素があるものの、“最終覇者”という観点から言えば、やはり健康長寿が大きな要因といえるでしょう。

武田信玄は天下を取れるだけの器でしたが、天下取りの志半ばにして53歳で病死、織田信長は天下取り目前でしたが49歳の時に本能寺で横死、豊臣秀吉は天下統一を果たしたものの子供がなかなかできず、豊臣政権の下地を固める前に62歳で病死しました。

そんな彼らに対し、まず家康は「人生五十年」といわれた時代に75歳という長寿をまっとうしたのです。

その間に関ヶ原の戦いや大坂の役で敵を確実に殲滅し、多くの妻妾に16人もの子供を産ませて徳川政権の土台を盤石にしました。

しかし、家康の長寿は決して“偶然”ではないのです。

家康は漢方医学を学び、特に薬学については力を注いでいました

久能山のふもとに薬草園を作り100種類以上の薬草を栽培、それらの薬草を家康自らが調合して自家製の薬まで作っていたのです。

このようなことから考えれば、家康の長寿は医学知識を身に付け、健康管理に関して常に細心の注意を払っていたため“必然”の結果といえるでしょう。



まとめ

  • コ川家康は少年時代の長い人質生活によって強い忍耐力が培われた

  • 家康は信長や秀吉の下風に立ち、ジッと耐え忍んだことで天下取りへの道が開けた

  • 家康が天下取りを成し遂げた大きな要因は、徹底した健康管理に基づく長寿にあった


日本が今こういう時だからこそ、私たちは家康の忍耐強さを見習うべきかもしれませんね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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