2020年05月15日
政党政治の崩壊 五・一五事件
政党内閣制の確立
今日5月15日は五・一五事件が起きた日です。(昭和七年 1932年)
五・一五事件は昭和初期に起こった軍部によるクーデター事件ですが、同じクーデター事件でもこの4年後に起きた二・二六事件(2月26日付ブログ参照)に比べると、あまりクローズアップされることがありません。
しかし、五・一五事件は戦前の日本政治史において、大きな転換をもたらした重大な事件なのです。
大正十三年(1924年)に起きた第二次護憲運動により、憲政会を第一党とする護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)が成立したことによって、その後は衆議院における第一党が内閣を組閣する政党政治が行われることが慣習化しました。
これを「憲政の常道」といいます。
現在ではこれが当たり前ですが、当時は陸海軍などの軍部の力が強く、政党政治を維持し続けるのは決して簡単なことではありませんでした。
この民主主義の根幹ともいえる「憲政の常道」を崩壊させたのが五・一五事件なのです。
というわけで、今回は五・一五事件について語りたいと思います。
昭和恐慌による政党政治への不満
まず、この当時の日本の状況を説明します。
昭和四年(1929年)10月、アメリカのウォール街で起こった株式の大暴落をきっかけに恐慌が発生、これが世界恐慌に発展しました。
翌年、世界恐慌が日本にも波及したことで、企業の倒産が相次いで失業者が増大、日本も深刻な恐慌状態となったのです。(昭和恐慌)
さらに、アメリカの恐慌で日本の生糸輸出が激減し繭価格が大幅に下落したため、農業においても大きな打撃を被りました。
その上、都市部の失業者が農業を求め地方に流出したため、農家の貧困も深刻化してしまいます。
この昭和恐慌の一因となったのが当時の浜口雄幸内閣の経済政策でした。
浜口内閣は財政を緊縮して物価の引き下げをはかると同時に、産業の合理化を促進して国際競争力を高めようとしました。
昭和五年(1930年)1月、経済政策の一環として、貿易の拡大を目的に行なわれたのが金解禁です。
しかし、産業の合理化を進めたことで失業者が増えるという結果を招きました。
さらに、金解禁も欧米諸国に追随する形で行われたのですが、この時既に世界恐慌が始まっていたので、金解禁により日本の金が大量に海外へ流出することとなってしまったのです。
また、外交においても、同年にイギリスで開催されたロンドン海軍軍縮条約において日本が締結した条約内容に軍部が不満を抱いたため、浜口首相が東京駅で狙撃され重傷を負う事件が起きました。
このような政党内閣による経済政策の失敗や外交政策に対する不満が、やがて軍部の政治介入を顕著化させてゆきます。
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ファシズムの展開
昭和六年(1931年)3月、狙撃された浜口首相が不在だった内閣の混乱に乗じて、ある事件が起こります。
桜会(陸軍の組織団体)の橋本欣五郎と民間右翼の大川周明が、政党内閣を倒し軍部独裁政権の樹立を目指してクーデターを画策したのです。
しかし、軍事政権の首相に担ぎ上げようとしていた宇垣一成が離脱したため未遂に終わりました。(三月事件)
さらに同年9月、中国で満州事変が起こると、翌月に橋本と大川は満州事変に呼応する形で再び軍事政権樹立を画策しますが、これも未遂に終わりました。(十月事件)
この二つの事件はいずれも未遂に終わったものの、事件首謀者に対する処分の甘さが更なる軍事テロを招くことになります。
昭和七年(1932年)2〜3月にかけて、日蓮宗の僧侶であった井上日召が「一人一殺」、「一殺多生」を掲げて組織した右翼団体・血盟団が、政府や財界の要人を狙ってテロ事件を起こしました。
血盟団の団員たちは、前蔵相の井上準之助と、三井財閥の理事長・団琢磨を相次いで暗殺したのです。(血盟団事件)(※井上は金解禁を行なった浜口内閣の大蔵大臣)
このように政界や財界に対する不満からテロ活動が横行するようになり、次第に政党内閣の存続にも暗い影を落とすようになります。
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首相官邸を襲撃!
満州事変後の昭和六年(1931年)12月に組閣した政友会の犬養毅(いぬかい つよし)内閣は、昭和恐慌により落ち込んだ経済の立て直しを図り、浜口内閣が行なった金解禁の再禁止を断行します。
一方で満州事変後の陸軍の行動を黙認し、軍部とも協調を図ろうとしました。
しかし翌年3月、陸軍が中国国内に建国した満州国を犬養が承認しなかったことで、軍部は犬養首相に対し態度を硬化させてゆきます。(3月27日付ブログ参照)
それから2ヶ月後の昭和七年(1932年)5月15日、海軍の青年将校と民間の右翼団体が国家革新を唱え、首相官邸・警視庁・日本銀行を襲撃したのです。
首相官邸になだれ込んできたテロリストたちに対し、犬養首相は冷静に
「まあ待て、話せばわかる」
と、何度も繰り返して彼らを諭そうとしました。
多少の話し合いは行われたものの、首謀者の一人が突然「問答無用、撃て!」と叫んだのをきっかけにテロリストたちは次々に銃弾を放ち、ついに犬養は撃たれてしまいます。
犬養は重傷を負いつつ、なおも彼らと話し合おうとしたのですが、既に首謀者たちは立ち去り、犬養もその夜に亡くなってしまいました。
殺された犬養毅首相
五・一五事件により犬養内閣が倒されたことによって、8年間続いた政党政治は終わりを告げました。
以後は軍部が政治の実権を握るようになり、やがて日本は太平洋戦争への道を突き進むことになるのです。
まとめ
- 第二次護憲運動以降、政党内閣による政権が慣例化したことを「憲政の常道」という
- 政党内閣に対する不満から三月事件・十月事件・血盟団事件などのテロ活動が横行するようになる
- 五・一五事件で犬養内閣が倒されたことにより政党内閣は断絶、「憲政の常道」は崩壊した
実は五・一五事件の時、アメリカの喜劇王・チャールズ・チャップリンが来日していて、首謀者の中には「チャップリンを殺せばアメリカと戦争ができる」と考え、チャップリン暗殺を目論んでいた者もいたそうです。
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