2020年03月18日
謙信の後継者は誰か? 御館の乱
なぜ戦国時代には家督争いが絶えなかったのか?
御館の乱とは上杉謙信の死後、上杉家中で起きた家督争いを巡る内乱です。
戦国の世において、家督争いは避けて通れないことが多く、むしろスムーズな家督相続が行なわれる方が稀といってもいいくらいです。
なぜなら、家督を継ぐ嫡子とそうでない庶子とでは雲泥の差があり、庶子になるとたとえ血を分けた兄弟であっても、当主の一家臣に過ぎない立場に甘んじなければならないからです。
その上、庶子に少しでも不穏な動きがあれば、当主は「謀反の疑いがある」として殺してしまうことも少なくなかったのです。
実際、謙信も兄の晴景と家督争いをしている(3月13日ブログ参照)し、織田信長は謀反を起こした実弟を謀殺しています。
また、武田信玄は弟に家督を継がせようと考えていた父を追放して強引に武田家の家督を相続しました。
ましてや上杉家の場合、謙信の死後に残されたのは、もともと兄弟でもない赤の他人どうしの養子だったので家督争いが起きるのは必然ともいえる状況でした。
というわけで、今回は謙信の死後に起きた家督争い・御館の乱について語りたいと思います。
謙信の突然の死により後継者争いが勃発!
天正六年(1578年)3月13日、越後(新潟県)の上杉謙信は脳溢血により突然の死を迎えました。
生涯独身を貫いた謙信に実子はなく、養子は複数いましたが、誰に家督を継がせるかまで謙信は決めてなかったのです。
亡くなった時点で謙信の養子は3人いました。
北条氏康の七男で氏政の弟にあたる景虎、謙信の姉・仙桃院の子である景勝、もう一人は能登(石川県)の畠山氏の一族であった上条政繁の3人です。
政繁は養子というより人質に近い立場だったので、始めから家督相続の対象とはなりませんでした。
また、景勝の姉が景虎に嫁いでいたので、景勝にとって景虎は義兄ということになりますが、この二人のどちらかが謙信の跡を継ぐ対象でした。
一説によると、景虎が小田原の北条氏政の実弟であることから、謙信は景虎に関東管領職を、景勝に越後国主の座を譲ろうと考えていたともいわれています。
しかし、一つの家に二つの権力を共存させるというのはさすがに無理があり、現実的にこれは不可能だったでしょう。
景虎と景勝は互いに「後継者は自分だ」と主張して譲らなかったので、二人は上杉家当主の座を巡って争うことになりました。
スカパー!
当初は兄弟の後ろ盾がある景虎が優勢
景虎側につくか景勝側につくかで上杉家中は真っ二つに分かれましたが、当初は近隣の戦国大名である北条氏や武田氏に親族を持つ景虎が優位と見られていました。
しかし、先に動いたのは景勝の方でした。
景勝はいち早く春日山城の本丸を占拠し、謙信が蓄えていた上杉家の莫大な軍資金を確保したのです。
一方、遅れを取った景虎ですが、前関東管領の上杉憲政を味方につけ、春日山城の北東にある御館(憲政の屋敷)を本拠地としました。
景虎の実兄・北条氏政は弟を援護するため、同盟者であった甲斐(山梨県)の武田勝頼に景虎の支援を依頼します。
勝頼も景虎の妹を妻としていたので、景虎の義弟にあたることから景虎を支持しました。
勝頼は景虎支援のため、およそ2万の軍勢を越後に派遣します。
これで景虎は実家の北条家に加えて武田家のバックアップも得たことにより、かなり優位な立場となりました。
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勝頼の調略に成功し形勢は逆転
劣勢となった景勝ですが、謙信の遺した軍資金にモノをいわせ、勝頼を黄金一万両で買収して味方につけることに成功したのです。
しかし、勝頼はなぜ妻の兄を裏切ってまで買収工作に応じてしまったのでしょうか?
おそらく当時の武田家は、長篠での大敗による損失や甲州金山の枯渇などにより深刻な財政難だったため、勝頼にはどうしても金が必要だったのではないかと思われます。
こうして景勝から金を受け取ったものの、やはり義兄の景虎を攻撃することはできない勝頼は中立の立場をとり、越後に入って両者を仲裁し、一旦和睦を成立させました。
そんな折、徳川家康が武田領の駿河(静岡県)に侵攻してきたので、勝頼は慌てて駿河へ向かいました。
勝頼が去ったことで和睦は破綻し、両者は再び戦闘状態に入りました。
勝頼の後ろ盾がなくなったことを知った北条氏政は景虎の支援軍を派遣しますが、積雪によって進軍を阻まれてしまいます。
天正七年(1579年)3月、景勝は春日山城から御館を攻め、景虎は防戦し切れず御館から逃亡しました。
景虎は南下して鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)まで逃れますが、城主の堀江宗親に裏切られてしまい、3月24日ついに自害して果てました。
勝利した上杉景勝
景勝は家督争いには勝利したものの、この戦いは家中を二分する争いとなったため、景虎側についた多くの重臣を失い上杉家の勢力は大きく損なわれる結果となりました。
まとめ
- 御館の乱とは上杉謙信の死後、上杉景虎と上杉景勝の二人の養子による上杉家の家督争い
- 当初は北条氏政と武田勝頼の二人の戦国大名を兄弟に持つ景虎が優勢だった
- 景勝は勝頼の買収に成功したことで形成を逆転し勝利した
この結果、勝頼は氏政も裏切る形となってしまい、武田家と北条家の同盟は破綻し勝頼は更なる苦境に陥ってしまいます。(3月11日付ブログ参照)
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