2020年04月24日
“戦国一の美女”といわれた悲劇の女性 お市
政略結婚する女性の役割とは?
今日4月24日は織田信長の妹・お市の方が亡くなった日です。(天正十一年 1583年)
このブログでも何度か書きましたが、戦国時代は「男尊女卑」の風潮が特に強かったので、父親や夫、又は男兄弟の動向によってその家の女性の運命は大きく左右される傾向にありました。
東国、いや戦国一の美女と謳われたお市は、その最たる例といってもいいでしょう。
兄の信長や織田家の男の親族の意向で結婚相手を決められ、その度に悲劇に見舞われてしまった薄幸の女性です。
この時代、武家の女性は“政略結婚の道具”として扱われてしまうことが多く、お市もその一人ではありましたが、お市はただの“道具”ではありませんでした。
父の織田信秀にはたくさんの娘がいましたが、その中で他国の大名に嫁いだのはお市ただ一人なのです。
信長は、美貌だけでなく聡明さも兼ね備えたお市の女性として抜群の器量を見込んでいたからこそ、兄弟の中で唯一お市だけを他国に嫁がせたと考えられます。
他国の大名と政略結婚する女性には両家を結ぶ親善大使であると同時にいざという時の人質であり、またスパイという側面も持つ重要な役割を担っていたのです。
つまり、信長はお市をこれだけの大任を任せられる女性だと考えていたということです。
というわけで、今回はお市の方について語りたいと思います。
長政との幸せな結婚生活
お市の方 天文十六年(1547年)?〜 天正十一年(1583年)
お市は織田信秀の五女として生まれます。兄の信長より13歳下の妹でした。
永禄十一年(1568年)信長は足利義昭を奉じて上洛を試みていましたが、上洛するためには敵対する近江(滋賀県)の六角氏を排除する必要がありました。
そこで信長は、同じ近江の浅井氏と同盟を結んで六角氏を挟撃しようと考え、妹のお市を浅井長政に嫁がせたのです。(※もっと早くに結婚していたとする説もある)
政略結婚とはいえ、長政とお市は仲睦まじく、二人の間には茶々・初・江の三人の娘も生まれ、お市は長政の元で幸せな日々を過ごしました。(※万福丸などの男児は長政の先妻の子といわれている)
そんなお市に転機が訪れます。
元亀元年(1570年)信長は数度にわたる上洛命令に従わない越前(福井県)の朝倉氏に業を煮やし、朝倉氏討伐を開始したのです。
しかし、朝倉氏は古くから浅井氏と盟友関係にあったので、長政は織田と朝倉、どちらにつくかの選択に迫られることになりました。
苦悩の末、長政は信長を裏切って朝倉に味方することを決意したのです。
夫の決意を察したお市は、陣中見舞いと称して「小豆袋」を信長の陣営に送り、長政の裏切りを知らせたといわれています。
袋の両端を紐で縛った小豆袋、つまりお市は、信長が浅井と朝倉に挟まれた“袋のねずみ”状態であることを表現したのです。
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夫と兄が激しく争った姉川
信長はお市の機転によって危うく挟み撃ちにされる窮地を脱することができました。
何とか危機は逃れたものの、長政に裏切られた信長の怒りは尋常ではありませんでした。
一旦京都に逃れて体勢を立て直した信長は、すぐに長政追討へ動き出します。
元亀元年(1570年)6月、近江の姉川において、信長は徳川家康(4月17日付ブログ参照)と組んで浅井・朝倉の連合軍と戦い、浅井朝倉軍を撃破しました。
姉川での勝利後も信長は長政追討の手を緩めず、天正元年(1573年)ついに信長は義弟・長政を攻め滅ぼしたのです。
お市は長政の居城・小谷城の落城寸前に三人の娘と共に救出され、信長の元に送られました。
翌年の正月、信長は多くの客人や家臣が集まった新年会の席で、長政とその父・久政の頭蓋骨を金粉塗りにしたドクロを披露したといわれています。
この時のお市の心境はいかばかりなものだったか、察するに忍びありません。
未亡人となったお市は三人の娘たちと共にしばらくは信長の庇護の元、平穏に暮らしていました。
しかし、天正十年(1582年)本能寺の変による信長の死は、お市の運命も激変させてしまうのです。
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再婚するも再び悲劇が!
本能寺の変後、信長の後継者を決める清州会議において、お市は織田家筆頭家臣の柴田勝家に嫁ぐことが決められました。
勝家は後継者に信長の三男・信孝を推していたので、信孝は未亡人であった叔母のお市を勝家に嫁がせることで織田家の安泰を図ろうと考えたようです。
この決定に以前からお市の美貌に憧れていた羽柴(豊臣)秀吉はかなり悔しがったといわれています。
やがて、信長の跡目を継ごうと野望を顕わにし始めた秀吉が勝家と対立し、織田家を二分する争いに発展しました。
天正十一年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。
その後、秀吉に追い詰められた勝家は、お市に三人の娘を連れて秀吉の元へ逃げるよう説得しますが、お市は頑なに拒否しました。
お市は娘たちを逃がした後、勝家と共に自害する道を選んだのです。
なぜ、お市は娘たちと共に逃げなかったのでしょうか?
生き延びて秀吉の妾になるなど、お市のプライドが許さなかったこともあるでしょう。
しかしはっきり言えるのは、一番頼りにしていた兄信長は既に亡く、二番目の夫まで失うことになり、もうお市には帰るべき場所がなかった、ということです。
まとめ
- “戦国一の美女”として誉れ高いお市は、兄の信長にとって政略結婚の「切り札」だった
- 夫の長政が信長を裏切った時、お市は「小豆袋」で信長に危機を知らせた
- 二度の落城に遭ったお市だが、最後は自らの意志で死を選んだ
お市は享年37歳、これも“美人薄命”というべきでしょうか。
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