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2019年08月30日
戦後日本の第一歩を刻んだ男
マッカーサー元帥の来日
秋雨前線が活発化して九州北部に記録的な大雨被害をもたらしていますが、このまま前線が留まるようなことがあると更なる被害が心配されます。
今年は梅雨明けが遅かった割に秋雨前線の到来は早いようで、夏が好きな僕にとって今年は何だか物足りなさを感じたまま夏が終わってしまいそうです。
さて、本日8月30日はダグラス・マッカーサー(アメリカ)が厚木飛行場に降り立ち、日本の占領統治が始まった日です。(昭和二十年 1945年)
マッカーサーはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官で、敗戦後に連合国の占領下に置かれていた日本の統治を実質的に主導した人物です。
今回は戦後の日本がGHQの主導によりどのように民主化していったのか、なるべくわかりやすい視点で語っていきたいと思います。
日本占領下の体制
ポツダム宣言を受諾し、昭和二十年(1945年)8月15日に戦争は終結しましたが、連合国側の占領統治は敗戦から約2週間後、マッカーサーの来日により始まります。
連合国の日本占領は以下の組織体制によって行われました。
@極東委員会(連合国の占領政策決定の最高機関、ワシントンに設置)
↓ 基本方針
Aアメリカ政府
↓ 指令
BGHQ(東京) ⇔ C対日理事会(GHQの諮問機関、東京)
↓ 指令・勧告
D日本政府
・・・というような形式をとっておりましたが、この体制はほとんど形骸的(形だけ)なものに過ぎず、連合国といっても実質的にはほとんどアメリカが中心で、GHQが主導権を握り、そのGHQの進駐軍(日本占領統治軍)もほぼアメリカ人というのが実態でした。
ということで、日本政府はマッカーサーの指導・勧告により政治を行なう間接統治という形で当面のあいだ国内を治めることになります。
スカパー!
日本の民主化
GHQがまず対日政策の基本に考えたのが、日本の非軍事化と民主化でした。
この考えを具体的に示したものが陸・海軍の解体と五大改革指令です。
- 婦人の解放
→女性にも選挙権を与える - 労働組合の助長
→労働者の団結、団体交渉などを保障 - 教育の自由主義化
→軍事教育を推進した教育者を追放し(公職追放)軍国主義的な教育を禁止 - 圧制諸制度の撤廃
→治安維持法、特別高等警察(特高)など一般民衆を弾圧した制度を廃止 - 経済の民主化
→財閥(三井・三菱・住友・安田など)を解体し独占禁止法を制定
これらの改革により、一般民衆の思想や政治活動の自由は保障されましたが、一方で占領軍に対する批判は禁止されていました。(プレス・コード=マスメディア規制)
つまり、現在の沖縄のように米国軍人が事件を起こしたとしても、当時の日本では報道されることがなかった、と考えられます。
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新憲法の制定
そして、GHQにとって最も重要な課題は、国家の最高法規であり統治の根本規範である日本の憲法を改正することでした。
GHQから憲法改正を指示された幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は、松本烝治国務大臣を中心に「憲法問題調査委員会」を設置し、憲法改正案を作成します。
しかし、日本政府の作成した憲法案は、天皇の統治権の容認、民主化の不徹底など以前の大日本帝国憲法とあまり変わらない内容だったので、GHQはこれを却下しました。
GHQは
・象徴天皇制
・戦争の放棄
・基本的人権の尊重
の三つを主軸に独自の憲法を草案し、これをもとに新憲法作成を要求、政府はGHQの草案に手を加えたものを政府原案として新憲法を発表するに至ります。
つまり、新憲法はGHQがほぼその骨格を作ったと言っても過言ではないのです。
そうしてできた日本の新しい憲法、日本国憲法は昭和二十一年(1946年)11月3日に公布され、翌年5月3日から施行されました。
まとめ
- 戦後日本の占領体制は実質的にGHQのマッカーサーが主導していた
- GHQの五大改革指令により日本の民主化が進み民衆は政府の様々な圧迫から解放された
- 日本国憲法はGHQの草案がメインだった
マッカーサーは1880年生まれなので、終戦後の来日時は既に65歳でした。
その後、1951年に71歳で退任しますが、退任演説で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という名言を残しています。
2019年08月28日
謎多き伝説の美女
世界三大美女の一人
皆さんは「世界三大美女」をご存じですか?
それは、クレオパトラ(エジプト)、楊貴妃(中国)、そして小野小町です。
紀元前から続く世界史の中で、世界三大美女の一人に日本人が入っているのは驚きですが・・・・どうやらこの説を唱えているのは日本だけのようです。(笑)
とは言うものの、今日でも美人を例える表現として「〇〇小町」という言葉が使われるように、小野小町=美女というのが日本では定説になっています。
しかし、この小野小町、美女としてあまりにも有名な割にはその存在についてほとんどわかっていません。
そこで今回はこの伝説の美女・小野小町について語りたいと思います。
小野小町とは?
小野小町(生没年不詳)は平安時代前期の女流歌人で六歌仙、三十六歌仙の一人。
六歌仙とは、『古今和歌集』に歌を遺した代表的な歌人のことで、小野小町・在原業平・僧正遍昭・大友黒主・文屋康秀・喜撰法師の六人です。
また、三十六歌仙とは藤原公任(きんとう)の『三十六人撰』に選ばれた平安時代を代表する36人の和歌の名人です。
(生没年不詳)と書いたように、その出生については不明な点が多く、祖父はやはり歌人として有名な小野篁(おののたかむら)ともいわれてますが、小町と篁はほぼ同時代に活躍したことから、祖父と孫の関係が成り立つのか疑問視されています。
出生地は出羽国(秋田県)といわれ、現在の湯沢市小野には小野小町の生誕伝説が多く残されていて、晩年もこの地で過ごしたとの説がありますが、小町の墓といわれる場所はこの秋田県から西は山口県まで日本各地に点在しており、その終焉の地も定かではありません。
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小野小町は本当に美女だったのか?
これだけ不明な点が多い人物だと(本当に美女だったのか?)という疑問も当然湧いてきます。
そもそも小野小町を美女と讃えたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之といわれています。
しかし、貫之は「小町の和歌はまるで古代の美女・衣通姫(そとおりひめ)の和歌のようだ」と、その歌風の類似性を指摘しただけで、美女という容姿を指摘したわけではありません。
だが、百人一首にもある小町の最も有名な和歌
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
(春の長雨で桜の花はすっかり色あせてしまった。いろいろ思い悩んでいるうちに私の美しさが衰えてしまったように)
という歌を詠んでいることから、やはり美女であろうことが窺えます。
もう一つ小町が美女であったことを示すエピソードがあります。
「百夜通い」
深草の少将という青年が小町の美貌に魅了され告白するが、小町は「あなたが私のもとに百夜通い詰めたら、あなたの愛情が本物であると信じて私はあなたの愛を受け入れます」と伝えた。
深草の少将は必死な思いで九十九夜まで通い詰めたが、念願の百夜めを前にとうとう力尽きて死んでしまった。
この話からも小町が男たちを夢中にさせる美女であったと想像できますね。
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『君の名は。』も小野小町の影響を受けていた!
小野小町に由来するものは現在でも多く残されています。
・秋田新幹線こまち
→小町が秋田県出身という説から
・あきたこまち
→秋田県を代表するお米
・小野川温泉(山形県米沢市)
→小町が京都から東北へ向かう途中に発見した温泉といわれ、小町ゆかりの(美人の湯)とされる
そして大ヒット映画『君の名は。』の新海誠監督は、小町の和歌
「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」
(あの人のことを思いながら眠ったから夢に出てきたのだろうか、夢と知っていたら決して目を覚まさなかったのに)
という歌をヒントに『君の名は。』を制作したと語っています。
まとめ
- ”絶世の美女”として名高い小野小町は平安時代の女流歌人で六歌仙の一人
- 生没年、出生地など不明な点が多い人物だが、美女伝説も多く残している
- 新幹線やお米、温泉など現在でも小野小町に由来するものが多数ある
いつの時代も男はミステリアスな美女に魅かれるものですね。(笑)
2019年08月26日
お雇い外国人の軌跡
夏の終わりを感じるものは?
皆さんには”夏の終わり”を感じるものがありますか?
僕は毎年、甲子園の決勝が終わると「ああ、今年の夏もそろそろ終わりだな」と感じて、少し寂しい気持ちになります。
夏の高校野球は早い地区では6月半ばから予選が始まり、7月末までに甲子園大会に出場できる49の代表校が決定、そしてその夏に最後まで一度も負けなかった一校が頂点に立つ。
こうして考えると、僕は高校野球に夏の始まりと終わりの両方を感じているのかもしれません。
さて、実は先週、少し遅い夏休みを過ごしまして、長野や新潟をドライブしてきたのですが、そこで目にしたある人物の軌跡について語りたいと思います。
日本の近代地質学を築く
今回の旅行で僕が見てきたのはフォッサマグナと野尻湖のナウマンゾウなのですが、この2つに大きく関わるのがドイツの地質学者・ナウマンです。
ナウマンは明治八年(1875年)明治政府に招聘された所謂”お雇い外国人”の一人です。
お雇い外国人とは、江戸時代まで続いた鎖国により、諸外国と比べ著しく遅れていた日本の文化を見直すため、明治政府が西洋の学問・技術の導入を目的として政府機関や学校などに雇い入れた外国人のことです。
先週紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もその一人といえるでしょう。
ナウマンは来日から約10年間にわたり日本列島の地質を調査し、調査のために走破した距離は一万キロに達しました。
そして、列島調査をもとに日本地質図を作成し、フォッサマグナについての研究を『日本列島の構造と起源について』という著書にまとめています。
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フォッサマグナとは?
フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味し、日本列島を東西に分断する境目となる地層帯のことで、この分断線を「糸魚川-静岡構造線」と言います。
つまり、新潟県糸魚川市と静岡県静岡市を結ぶラインには本州を東西に分断するほどの大きな溝が存在するということです。
ナウマンはこのフォッサマグナの存在を、長野県南牧村の平沢峠からの眺めで発見したと言われています。
この平沢峠には広い駐車場があり、目の前に八ヶ岳がそびえる絶好のロケーションなので僕も何度か訪れているのですが、何度見ても僕には断層地形などわからないのでナウマンの観察眼の凄さを思い知らされます。
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ナウマンゾウは野尻湖だけ?
長野県の北部、新潟県との県境近くにある野尻湖には「ナウマンゾウ博物館」があって、この野尻湖はとにかくナウマンゾウ推しです。(笑)
ナウマンゾウは40万〜2万年前の日本の氷河時代に生息したゾウです。
最初にその化石が発見されたのは神奈川県の横須賀で、その他にも静岡県の浜名湖や瀬戸内海沿岸地域など日本各地でナウマンゾウの化石は発見されていますが、この野尻湖では最も大量の化石が見つかり、何度も発掘調査が行われたことからナウマンゾウ=野尻湖のイメージが定着したのだと思われます。
ナウマンゾウの名称は、ナウマンが発見したからではなく、ナウマンが日本の地質学や化石の研究に尽力した功績を称えて名付けられたようです。
また、日本に生息していた古代ゾウのうち、北方系のゾウをマンモス、南方系のゾウをナウマンゾウと分けるのが一般的でしたが、近年北海道でもナウマンゾウの化石が発見されたことから、ナウマンゾウはマンモスがいた北方地域にも生息していたと見直されています。
まとめ
- 明治時代のお雇い外国人・ナウマンはフォッサマグナの発見とナウマンゾウで有名なドイツの地質学者
- フォッサマグナとはナウマンが発見した本州を東西に分断する地層帯
- ナウマンゾウは野尻湖で大量の化石が発見された古代ゾウ
実際に現地へ足を運んでみると、いろいろな見聞が深まるのも旅の魅力の一つですね。
2019年08月22日
伝説 .1の人
日本各地にあまたの伝説を残す
本日8月22日は、空海が真言宗を開いた日です。(大同元年 806年)
空海でピンと来ない方も弘法大師といえば納得されるでしょうか。
弘法大師といえば、「弘法も筆の誤り」、「弘法筆を選ばず」のことわざで有名な筆の達人ですね。
お盆休みに各地を旅行された方も多いと思いますが、地方へ行くとこの弘法大師にまつわる伝説がホントに多いのです。
僕も旅が好きなので、日本全国さまざまなところに出掛けますと、弘法大師にまつわる地名や伝説の多さに驚かされます。
今回はこの弘法大師について語りたいと思います。
弘法大師(空海)とは
空海(774〜835年)
宝亀五年(774年)讃岐国(香川県)に生まれる、俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)
幼い頃から勉学に勤しむが、19歳の時に仏教を志し修行に励みます。
延暦二十三年(804年)遣唐使の留学僧として、天台宗の開祖・最澄と共に唐へ渡る
大同元年(806年)帰国した空海は真言宗を開く
弘仁七年(816年)高野山に金剛峰寺を開き、ここを真言宗の総本山とする
弘仁十四年(823年)嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜る
真言宗は密教といわれ、密教とは呪術的な方法で悟りを開こうと考える神秘的な要素の強い仏教です。
その後、天台宗の最澄も密教に興味を持ち、一時空海に弟子入りしたことで、やがて天台宗も密教化していきます。
なお、「弘法大師」の名は空海の死後、醍醐天皇から贈られたものです。
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怒らせると怖い!? エピソード
弘法大師にまつわるエピソードは日本各地になんと5,000以上もあるといわれています。(ホンマかいな?)
その中からちょっとだけ紹介しましょう。
袈裟丸山(けさまるやま 群馬県東村)
弘法大師がこの山を訪れた際、この山を気に入りここに寺を建てようとした。
しかし、修行する山には千の谷が必要とされていたので、大師は谷の数を数え始めた。
この様子を見ていたこの山の神は「寺などが建てられては毎日大勢の人が訪れて面倒だ」と考え、谷を一つ隠して999個にしてしまった。
そうとは知らず、いくら数えても谷が一つ足りないことに落胆した大師は、山の頂上で着ていた袈裟を丸めて投げつけ去って行ったことから、この山は「袈裟丸山」と呼ばれるようになった。
独鈷山(とっこざん 長野県上田市)
真夏の暑い時、弘法大師が山の麓の村を歩いていると、川で女たちが野菜を洗っていた。
とても喉が渇いていた大師は女たちに「水を飲ませてくれぬか」と頼んだが、弘法大師とは知らぬ女たちは「みすぼらしい坊さんだね、水を飲みたきゃこれで汲んで飲みな」と、ザルを大師に投げつけた。
ザルでは水を汲めないので、大師は悲しげに去って行った。
すると数日後、この付近の川の水が干上がってしまった。川の上流や下流では普通に水が流れているのに、あの女たちが住む村だけ夏になると川の水が干上がってしまうのだ。
この村がある山は、あの時に大師が独鈷(仏具)を埋めたことから独鈷山と呼ばれるようになった。
米神(こめかみ 神奈川県小田原市)
弘法大師がこの地を訪れた時、村人に水を求めたが断られたため、この土地の水を出なくしてしまった。
以来、この村では水で米が炊けなくなり、米を噛んで食べるようになったという。
こうして見ると、水を飲めなかったことに対する恨みが多いですね。(笑)
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なぜこれほどまでに伝説が多いのか?
弘法大師が修行のため諸国を歩いたのは事実でしょうが、一人でこれほど多くの伝説を作れるわけはありません。
各地に残る弘法伝説の多くは、この時代に日本各地を行脚した遊行僧・高野聖(こうやひじり)を弘法大師と同一に考え、さらに大師が幅広い分野において業績を残したことへの尊敬の念が、各地の伝説と結びついて生まれたのではないかと考えられます。
まとめ
- 空海の開いた真言宗は密教として天台宗にも大きな影響を与えた
- 弘法大師の伝説は日本各地に5,000以上もある
- 伝説の多くは弘法大師への崇拝の念から生まれた
今度訪れた場所にも弘法大師の伝説があるか調べてみたくなりますね。
2019年08月20日
” Kwaidan ”はお好き?
夏の思い出
僕が子供の頃、学校では夏になると怪談話が流行っていて、林間学校へ行った時などは話の得意な子が夜ごとクラスの皆を集めて怖い話を披露したものでした。
当時の僕は怖い話が好きなくせに怖がりだったので、話の途中にトイレへ行くフリをして逃げ出したりしていました。(笑)
それと、当時この時期になると、日本テレビのお昼の時間帯に『あなたの知らない世界』という視聴者投稿の怖い話を再現VTRと共に紹介する番組があって、毎年これを見るのを楽しみにしてましたね。
子供心に出演者の新倉イワオさん(放送作家)の顔までコワく感じたのを覚えています。(笑)
時代が変わっても、やはり子供たちは怖い話に興味があると思いますが、情報化・デジタル化が進む昨今、ドライな現代っ子は怖い話に対する”熱量”があるのかどうか・・・。
そんなわけで今回は日本の怪談にまつわる人物について語りたいと思います。
小泉八雲とは?
小泉八雲(旧名:ラフカディオ・ハーン)
アイルランド出身の文学者で、アメリカに渡りヨーロッパ文学を紹介、やがて東洋の文化に興味を持ち明治二十三年(1890年)に来日し、島根県の松江で中学校の英語教師となります。
同年、日本人の小泉セツ(節子)と結婚、明治二十九年(1896年)に帰化し日本国籍を取得、小泉八雲と名乗ります。
八雲の名は、彼が日本で最初に住んだ島根県の旧国名・出雲国の神話で、スサノオノミコトが詠んだ和歌の枕詞「八雲立つ」から拝借したといわれています。
その後、高等学校や大学の講師を務めるかたわら日本の文化を研究し、『知られざる日本の面影』、『心』、『怪談』などを執筆し、海外に紹介しました。
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八雲の名を知らしめた ” Kwaidan ”
数々の執筆を世に送り出した八雲ですが、日本において彼の名を一躍有名にした作品が『怪談』(Kwaidan)です。
これは、妻のセツから聞いた日本各地に伝わる伝承や民話に、八雲が独自の解釈を加えて物語にしたものです。
この中の代表的な物語を紹介します。
『耳なし芳一』
盲目の琵琶法師・芳一は平家の亡霊に取り憑かれ、夜ごと平家の人間が眠る墓地に行き、『平家物語』を琵琶の音色に合わせて弾き語っていた。
これを知った和尚は、このままでは芳一が平家の亡霊にとり殺されてしまうと危惧した。
和尚は芳一の全身にお経を書き、「誰が来ても決して声を上げず、ついて行ってはならぬ」と固く命じた。
その夜、落ち武者の亡霊が芳一を連れ出しに来たが、亡霊が呼んでも答えず姿も見えない。
しかし、亡霊には芳一の耳だけが見えたので、呼びに来た証拠として芳一の耳を引きちぎって持ち去ってしまった。
和尚が耳にだけお経を書き忘れてしまったのだ。
以来、彼は”耳なし芳一”と呼ばれるようになった。
『雪女』
雪深い山里に住む父子がある日猟に出たが、吹雪に遭ってしまい山小屋で一夜を過ごすことになった。
その晩、息子がふと目を覚ますと白い着物を着た女が小屋に入って来て、父親の顔に白い息を吹きかけるとあっという間に父親は凍死してしまった。
息子はあまりの恐ろしさに身動きができずにいると、女は息子の目の前に顔を近づけた。
しかし、女は「お前はまだ若く美しいので今回だけは助けてやる。だが、今夜あったことをもし人に話したら、お前の命はない」と言い残し消えた。
数年後、大人になった息子の家にある夜、一人の美しい娘が訪ねてきた。
娘は「今夜一晩泊めて欲しい」と懇願したので息子は泊めてやることにした。
翌日から二人は一緒に暮らすことになり、やがてたくさんの子宝にも恵まれた。
そうして幸せな日々を過ごしたある冬の晩、外は吹雪になった。
息子はあの夜のことを思い出し、妻にあの夜に起こった出来事をつい話してしまった。
すると、妻の表情が見る見る変わり、あの夜の恐ろしい女になった。
女は「あれほどあの夜のことを人に話してはいけないと言ったのに、とうとう話してしまいましたね。約束通りあなたの命をもらう・・・」
息子は覚悟したが、女は「でも、かわいい子供たちのことを思うと私はあなたを殺せない、もしあなたがこの子たちを不幸にすることがあったら、その時こそあなたの命をもらう」と言って、女は吹雪の中へ消えていった。
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物語は八雲の生い立ちに深く関わっていた
『耳なし芳一』や『雪女』の話は多くの人が知る名作ですが、数ある日本の伝承・民話の中から八雲がこれらを物語にしたのは、彼の生い立ちに関わりがあると思われます。
現在残されている八雲の写真は、上の写真のように左を向いている顔写真が多いのですが、これは八雲が16歳の時、事故で左目を失明してしまったのでそれを隠すため、と言われています。
左目を失った代わりに八雲は聴覚が鋭くなり、「音の世界」に興味を持つようになったので、盲目の法師が琵琶を弾き語る様子を想像し、自分に重ね合わせたのでしょう。
また、八雲の父はイギリス人、母はギリシャ人で、両親は結婚して父の母国であるアイルランドに住んでいたのですが、八雲が4歳の時、父の裏切りにより母は一人ギリシャに帰ってしまいます。
この父の裏切りによって子供たちと別れざるを得なくなった母の心境を、八雲は雪女の物語に託したのではないかと想像できます。
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まとめ
- 日本の文化に興味を抱いたラフカディオ・ハーンは明治時代に来日し小泉セツと結婚後に帰化して小泉八雲と名乗った
- 八雲を日本で一躍有名にした作品は『怪談』(Kwaidan)
- 八雲の描いた物語は彼の生い立ちに深く関わっていた
古くから伝わる怪談話には作者の思いが込められているのですね。