2020年04月20日
“美濃のマムシ”と恐れられた男 斎藤道三
謎多き戦国の梟雄
今日4月20日は“美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三が亡くなった日です。(弘治二年 1556年)
道三といえば、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本木雅弘さんがカッコよくも癖のある道三役を演じて話題になっていますね。
道三は作家・司馬遼太郎の『国盗り物語』の主人公であり、これを原作として昭和四十八年(1973年)には大河ドラマ『国盗り物語』(主演:平幹二朗)も作られました。
道三が“マムシ”(蝮)に例えられる理由は、咬みつかれると命を落とす危険性のある毒を持ち、蛇のように残忍で陰険な性質だからといわれています。
また、道三は松永久秀(10月9日付ブログ参照)と並び称される戦国の梟雄(きょうゆう)として知られています。
梟雄とは本来、(残忍で荒々しく強い人物)を意味しますが、戦国時代には(ずる賢く目的を達成するためには手段を選ばぬ悪人)を指して呼ばれることが多いですね。
梟雄と呼ばれる武将は他にも後北条氏の祖・北条早雲がいますが、久秀も含め彼らに共通するのは、その前半生がほとんど不明であることです。
これは、素性のわからない者が歴史の表舞台に上がってくるためには、なりふりなど構っていられないという戦国時代ならでは風潮といえるでしょう。
では、道三はどんな“なりふり構わぬ行為”をしてきたのでしょうか?
というわけで、今回は斎藤道三について語りたいと思います。
“国盗り”は親子二代で成し遂げたものだった!
斎藤道三 明応三年(1494年)〜 弘治二年(1556年)
斎藤道三の前半生が不明な点が多いのは前述の通りですが、少年期に京都の妙覚寺で僧侶としての修業を積んだ後、大山崎の油問屋に婿入りして油売りの商人となったようです。
道三は油売りをしながら諸国を歩き回り各地の情勢を探っていましが、そこで目を付けたのが美濃(岐阜県)でした。
その頃、国内情勢が混沌としていた美濃に潜入した道三は、まず美濃の豪族・長井氏に仕官、やがて長井氏の推挙で美濃守護の弟・土岐頼芸(よりなり、又はよりのり)に仕えることになります。
守護の座を狙っていた頼芸は、道三の策謀によって兄の政頼を追放して守護となりました。
念願の守護となり喜んだ頼芸はますます道三を気に入り、寵愛していた深芳野を道三の妻として下げ渡すほどでした。
しかし、道三の専横が目立ち始めると、道三を推挙した長井氏などの反感を買うようになります。
すると、道三は主家だった長井氏を討ち、やがて頼芸をも追放してついに美濃を奪うことに成功したのです。
・・・と、ここまでが『国盗り物語』にも描かれている道三の“下剋上物語”としての定説でした。
ところが、近年の研究によると、これは道三一人のことではなく、道三が父と親子二代で成し遂げたという説が有力です。
つまり、僧侶の修業から土岐氏に仕えるまでは道三の父・西村新左衛門尉(しんさえもんのじょう)の業績であり、新左衛門尉の死後に跡を継いだ道三が“国盗り”を完結させたというのです。
これが事実ならば、道三の代名詞である「油売り」は道三自身ではなく、道三の父の職業だったことになります。(※道三はこの間に名字を西村→長井→斎藤と次々に変えている)
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織田家と同盟し信長の舅となる
頼芸を追放して美濃一国を手に入れた道三でしたが、頼芸は隣国尾張(愛知県西部)の織田信秀を頼り、道三は信秀と戦うことになりました。
信秀は越前(福井県)の朝倉氏と手を組んで何度も美濃に攻め入りました。
天文十六年(1547年)の加納口の戦いでは、道三は兵力差において圧倒的に不利でしたが、地の利を活かして見事に織田軍を撃退します。
道三との戦いに苦戦を強いられていた信秀には、東にも駿河(静岡県)の今川義元という大敵が控えていました。
やがて信秀はこのまま美濃を攻め続けるのは得策でないと考えるようになり、一転して道三に和睦を申し入れます。
斎藤家と織田家による同盟の証しとして、道三の娘・帰蝶(10月16日付ブログ参照)を信秀の嫡男・信長に嫁がせることになりました。
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親子による骨肉の争い
天文二十三年(1554年)道三は嫡男の義龍に家督を譲り隠居します。
しかし、義龍は父の道三とは折り合いが悪く、以前から(自分の本当の父親は、道三が追放した土岐頼芸なのではないか?)という疑念を抱いていました。
つまり、義龍の母・深芳野は道三の妻になった時すでに頼芸の子(義龍)を身籠っていたと思っていたのです。
それがやがて疑心暗鬼を生み、義龍は(いつか自分は道三によって廃嫡され、代わりに弟が家督を継ぐことになる)と考えるようになります。
こうして精神的に追い詰められた義龍は、とうとう父を討つことを決意します。
義龍は病気と称して二人の弟を居城に呼び出した上で殺害し、ついに父の道三に宣戦布告したのです。
道三が義龍の謀反に気付いた時には既に遅く、斎藤家のほとんどの家臣たちが義龍側についていました。
弘治二年(1556年)4月、道三と義龍は長良川を挟んで対峙しましたが、義龍軍がおよそ17,500だったのに対し、道三に味方した兵はわずか2,700であり、とうてい道三に勝ち目はありませんでした。
道三は激戦の末に討ち取られますが、皮肉にも最後になって義龍の見事な采配ぶりを見直したといわれています。
一方、道三から援軍要請を受けていた信長は自ら軍勢を率いて道三救出に向かいましたが、到着する前に道三は討死してしまい間に合いませんでした。
道三は義龍との決戦前夜、「美濃を信長に譲り渡す」という旨の遺言状を書いていたそうです。
まとめ
- “美濃のマムシ”の異名で恐れられた斎藤道三は親子二代にわたって美濃の国盗りを成し遂げた
- 織田家と手を結んだ道三は娘の帰蝶を織田信長に嫁がせ信長の舅となった
- 道三は隠居した後に息子・義龍の謀反に遭い討死した
道三は若き日の信長をどう見ていたのでしょうか?
それは、また次回にお送りします。
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