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2020年03月30日

戦国の名言集・織田家

こんなことが・・・・

昨夜、志村けんさんが亡くなられたという訃報がありました。

新型コロナウイルスの陽性反応が発覚してからわずか一週間足らずの出来事です。

志村さんの感染がニュースになった時、既に人工呼吸器を付けていて重症だと聞いていたので心配していたのですが、まさかこんなに早く亡くなってしまうとは・・・・。

僕が物心ついた頃から志村さんは大スターで、小学生の時は『8時だヨ!全員集合』を毎週楽しみに見ていました。

全員集合の放送が終わってからも、『ドリフ大爆笑』や『だいじょうぶだぁ』などで見る志村さんのコントが大好きでした。

未だに信じられません、本当に悲しいです。

でも、今までたくさんの笑いを届けて下さったことに感謝しています、本当にありがとうございました。

心からご冥福をお祈り致します。


この名言集、徳川家、豊臣家に続いて今回は織田家です。

織田家の家臣は本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉に仕えた者が多いので、豊臣家の家臣=もと織田家臣という構図にもなっています。

織田家の家臣の特徴としていえるのは、もともとの身分を問わず、能力さえあれば台頭することができたということです。

よく知られているように、豊臣秀吉は農民出身であり、明智光秀は将軍家に仕えていたこともありましたが、その前は素性のよくわからない浪人のような身分でした。

革新家であった信長らしく、家臣にも能力主義を貫いていたといえます。

そんな信長に認められた家臣の中には、当時としては型破りな発想を持つ人物も少なくありませんでした。

というわけで、今回は信長の家臣たちが遺した名言について語りたいと思います。

「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」

これは、信長の重臣たちがそれぞれどういう存在だったかを端的に表現した言葉です。

「木綿藤吉」とは木下藤吉郎、後の豊臣秀吉のことです。

木綿というのは何に使っても便利で重宝することから、秀吉が器用でどんなことをやらせても上手にこなすことを木綿に例えたのです。

「米五郎左」とは丹羽長秀のことです。

米は人間が生きていく上で欠くことのできない食糧であるのと同じように、長秀は織田家にとって欠くことのできない存在であることを例えています。

「掛かれ柴田」は柴田勝家、「退き佐久間」は佐久間信盛をそれぞれ示しています。

織田家中随一の猛将として知られる勝家は戦場で常に勇猛果敢に突き進む姿勢から、逆に信盛は少しでも形勢が悪くなるとすぐ撤退しようとする姿勢からこう表現されたのでしょう。

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「既に知っていることは答えません」

森蘭丸 永禄八年(1565年)〜 天正十年(1582年)
森蘭丸.jpg

森蘭丸は信長お気に入りの小姓として知られていますが、信長が蘭丸を気に入っていたのは、彼が他の小姓たちと比べて傑出した才覚を持っていたからといわれています。

ある時、信長が厠(かわや=トイレ)に入る際、蘭丸に刀を持たせました。

用を足して出てきた信長は部屋に戻ると、何人かの小姓たちを集めて先ほどの刀を持ち

「この刀の鞘に刻み目がいくつあるかわかるか?当てた者にはこの刀をやろう」

と問題を出しました。

小姓たちはそれぞれに答えましたが、蘭丸だけは答えません。

不審に思った信長が「なぜお前は答えない?」と聞くと、蘭丸は

「私は先ほど刀をお預かりした時、刻み目を数えておりましたので既に正解を知っております。それを知らないふりをして答えるのは卑怯だからです。」

と答えました。

これを聞いた信長は蘭丸の正直さに感心して刀を与えました。

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「人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」

前田利家 天文七年(1538年)〜 慶長四年(1599年)

前田利家は14歳の時から信長に仕えていましたが、若い頃は気性が荒く、短気でケンカっ早い性格で知られていました。

ある時、信長が寵愛していた茶坊主に、利家は刀のこうがい(刀の装飾品)を盗まれてしまい、信長に茶坊主の処罰を求めましたが認められませんでした。

その時は我慢したのですが、さらに茶坊主が陰で利家の悪口を言っていることを知り、怒った利家はなんと信長の前でこの茶坊主を斬り殺してしまったのです。

激怒した信長はその場で利家を手打ち(処刑)にしようとしましたが、他の家臣たちに何とかなだめられ、利家は織田家追放処分となりました。

浪人となった利家のもとに織田家から様々な人間が訪れましたが、彼らの態度は主に三通りに分かれました。

一つめは、利家がこういう目にあっていい気味だとあざ笑う者。

二つめは、利家が信長様を恨んでいるのではないかと探りに来る者。

三つめは、利家のことを本当に心配してくれる者。

彼らを見て利家は一つのことを悟ります。

「しかし、本当の友人と言えるべき人は何と少ないことか。人は不遇に陥った時、はじめて本当の友情というものを知ることができるものだ」

その後、利家は再び信長に仕えるべく孤軍奮闘の活躍をみせ、ようやく再仕することを許されました。



まとめ

  • 「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」
    (織田家の重臣たちを表現した言葉)

  • 「既に知っていることは答えません」
    (森蘭丸)

  • 人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」
    (前田利家)


利家の言葉は大きな挫折を経験した時、本当に痛感させられる名言ですね。

2020年01月31日

本能寺の変のカギを握る !? 明智光秀の名言

光秀が遺した言葉からそのポリシーを探る

大河ドラマは昨年の「いだてん」から「麒麟がくる」になって視聴率が好転しているようですね。

思うに、大河ドラマの枠は基本的に戦国ものと幕末ものが求められている傾向があるので、そういう意味で「いだてん」の時代設定には違和感があって、あまり視聴者に受け入れられなかったんじゃないかと考えられます。

なので、僕は決して「いだてん」が駄作で視聴率が悪かったのではなく、もっと別の枠で放送していたら好評だったかもしれないと思うのです。

「いだてん」の脚本を担当した宮藤官九郎さんは、「木更津キャッツアイ」、「タイガー&ドラゴン」、「あまちゃん」など数々のヒット作を生み出した方なので、(大河の枠でさえなければ・・・)と、残念に思ってしまうのです。


さて、今年の大河ドラマの主役・明智光秀ですが、この人物の前半生は不明な点が多く、謎に包まれています。
明智光秀.jpg
享禄元年(1528年)?〜 天正十年(1582年)

ある程度信憑性のある史料に彼が登場するのは、越前(福井県)の朝倉氏に仕えた後からなので、それ以前の光秀を描くのはなかなか困難なことです。

ドラマの中では斎藤道三や帰蝶(濃姫)と親密な関係にありますが、実際にはどうだったかわかりませんねぇ〜。(笑)

それはともかく、話題性という点で光秀は今欠かせない存在になってますので、今年は光秀について何度かやっていきたいと考えています。

というわけで、今回は明智光秀が遺した名言について語りたいと思います。

「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という」

本来、武士にとって「嘘をつく」ことは恥と考えられていました。

実際、戦国時代の前半に活躍した北条早雲や朝倉宗滴などの名将はそう述べています。

しかし、戦国の世は謀略や相手との駆け引きに優れていなければ生き残ることができない時代です。

若い頃から諸国を放浪し、厳しい状況下で生き抜いてきた光秀だからこそ、敢えて嘘を肯定し、武士が生き残るためには必要な武略の一つとして考えるようになったのではないでしょうか?

現在でも「嘘も方便」という諺が使われています。

光秀は、仏教における説法の嘘が方便として認められるのなら、武士が生き残るために使う武略としての嘘も認められていいはずと考えていたのかもしれません。

そして、光秀はこの言葉の最後に「百姓はかわゆきことなり」とも言っています。

光秀は、坊さんや武士のしたたかさと比べたら、これらの「嘘」を素直に信じる農民はかわいいものだと考えていたのでしょう。

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「徳なき王は匹夫、これを討つのは天の意志である」

これは、光秀の言葉というよりも考え方といった方が正しいかもしれません。

元々これは中国の戦国時代の思想家・孟子の言葉です。

孟子の思想は「臣(部下)が君(上司)を討つ」ことを認めているので、昔から日本では忌み嫌われる傾向がありました。

それでも、光秀は孟子の思想に傾倒していたといわれています。

この言葉をもっとわかり易く説明すると、「徳を失った王はただの匹夫(愚かな人間)に過ぎない。これを討つということは、王を討つのではなく匹夫を討つことなので、至極当然の道理である」という意味です。

これは一見、戦国時代の主流であった「下剋上の原理」に類似しているとも思われます。

しかし、光秀は教養ある常識人だったので、むやみに家臣が主君を討つ下剋上の考え方を全面的に支持していたわけではありません。

光秀は孟子の思想に従い、(尊敬できる主君ではなく、匹夫に成り下がってしまった主君を討つのは“世の習い”だ)と考えていたのではないでしょうか?

光秀は、比叡山の焼き討ち、足利将軍の追放、一向宗徒の殺戮、ついには朝廷を蔑ろにして自らが神になろうとしていた主君・信長を許し難い(匹夫)だと思っていたのかもしれません。

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「ときは今 あめが下しる 五月かな」

これは、本能寺の変が起こる直前の天正十年(1582年)5月28日に光秀が詠んだとされる句です。

この日、光秀は京都の愛宕神社で連歌師の里村紹巴などを招いて連歌会を開催しました。

この句を分析すると「とき」=「土岐」で、明智氏の源流である土岐氏を指し、「あめが下しる」は「あめ」=「天」で「天下を治める」を意味すると考えられます。

つまり、この句は「今こそ土岐氏が天下を治める」という光秀の決意表明そのものだと解釈できるのです。

そもそも連歌には掛け言葉の意味合いも含まれてますから、この連歌会の参加者は光秀がこの句に込めた真意を汲み取り、一種異様な雰囲気になったのではないでしょうか。

また、光秀はこの前日にも愛宕神社を訪れ、神前で占いを行ない、その後おみくじを何度も引いています。

さらに光秀は連歌会の最中、「本能寺の堀は浅いのか深いのか?」と参加者に尋ねたともいわれています。

これら光秀の言動が“何を意味するか?”は想像に難くないでしょう。



まとめ

  • 「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という」
     →武士にとって嘘は恥ではなく武略の一つ


  • 「徳なき王は匹夫、これを討つのは天の意志である」
     →愚かな人間に成り下がった主君を討つのは世の習い


  • 「ときは今 あめが下しる 五月かな」
     →今こそ土岐(光秀)が天下を治める時期だ


今年の大河ドラマを見る上で、これらの言葉は光秀の生き方のヒントになるかもしれませんね。

2019年12月25日

戦国の名言集・豊臣家

徳川の時代になっても豊臣家への忠誠を忘れず

今日はクリスマスです。

聞くところによると、最近はクリスマスに何も特別なことをしない“クリスマススルー”が増えているみたいですね。

確かに今年はイブが火曜日で当日も水曜日という“ド平日”の日程の悪さに加え、10月に消費税が10%に上がったので高い外食をしないという影響もあるようです。

ある番組の調査では、今年のクリスマスは「普段の日常と変わらない」と答えた方が約40%もいたそうです。

この数字にはちょっと驚きました。

僕が学生の頃、クリスマスは本当に一大イベントでした。

クリスマスを目標に秋から必死にバイトし、イブは彼女とリッチなディナーをして奮発したプレゼントを渡す・・・というのが若者の定番だったのです。(※僕はバブル世代のちょい後です)

正直、僕自身は昔からクリスマスにあまり関心がない方だったので、特に残念ということもありません。

とはいえ、子供の頃の楽しかったクリスマスの思い出はあるので、クリスマスよりハロウィーンの方が盛り上がっている近年の傾向には何か違和感を覚えてしまいますね。


さて、今日は豊臣家の武将にまつわる名言を紹介します。

豊臣秀吉は「人たらしの名人」といわれるほど他人を懐柔するのが得意で、人望もありました。

その人たらしぶりは、秀吉のライバルだった徳川家康の重臣・石川数正が家康を裏切って秀吉に寝返ったほどです。(11月8日付ブログ参照

そんな秀吉は多くの家臣に慕われていたので、豊臣家というよりは秀吉個人に忠誠を尽くす武将が多かったといえます。

関ヶ原の戦いの後、徳川の天下になっても「亡き太閤殿下(秀吉)の御恩を忘れてはならない」という思いが秀吉の直臣たちには受け継がれていました。

というわけで、今回は豊臣家にまつわる武将の遺した名言について語りたいと思います。

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」

加藤清正 永禄五年(1562年)〜 慶長十六年(1611年)の言葉
加藤清正.jpg

「賤ヶ岳七本槍」や「朝鮮の虎退治」など数々の武勇伝を持つ猛将・加藤清正は、子供の頃から秀吉に実の息子のように可愛がられた武将です。

関ヶ原の戦いの後、世は豊臣から徳川の時代となり、清正も自分の娘を家康の息子に嫁がせるなど徳川家との関係は良好でした。

しかし、清正は領地である熊本から江戸の将軍家や隠居して駿府(静岡県)に住む家康と会見する時、必ず大坂城に立ち寄り、豊臣秀頼(秀吉の息子)に挨拶してから東へ向かうことを習慣としていました。

他の西国大名は、家康の顔色を気にしてまっすぐ江戸や駿府に向かうのが当然だったのです。

清正の行動を快く思わない家康の側近が「大坂城に立ち寄らず、まっすぐ江戸や駿府に来たらどうだ?」と清正に問い質すと、清正は

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである。にも拘らず、大坂に挨拶もせず江戸に向かってしまっては武士として忠義に反するので、これだけはやめられない」

と、きっぱり言い放ちました。

律義で頑固な清正らしいエピソードですが、こういう一本筋の通ったところが清正人気の所以でしょうね。

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「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」

福島正則 永禄四年(1561年)〜 寛永元年(1624年)の言葉
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賤ヶ岳七本槍の筆頭であり、関ヶ原でも大活躍した福島正則は清正と並び称される豊臣家の猛将で、やはり秀吉に子供の頃から可愛がられ、清正とは兄弟のような間柄でした。

正則は関ヶ原での活躍により、家康から広島49万石を与えられました。(9月29日付ブログ参照

しかし、二代将軍・秀忠の時に居城の石垣を幕府に無断で修復した罪を問われ、改易(領地没収)になってしまったのです。

豊臣恩顧の大名を潰すための謀略とも思えるこの処分に納得がいかない正則の家臣たちは、正則に幕府へ異議を申し立てることを勧めました。

すると、正則は

「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」

と答えました。

つまり、正則は(この領地を与えてくれたのは家康公(先代)だから、家康公がこういう処分をしたのなら自分にも言いたいことはある。しかし、この処分を下したのは秀忠公(当代)だ。ならば仕方のないことなので、自分はこの処分に従う)と考えていたのです。

それでも納得いかず、幕府と一戦交えることも辞さない家臣に対し、正則は

「自分は弓。泰平の世では戦国の武器は蔵に収め鍵を掛けられるべきなのだ」

と答え、静かに領地を去っていきました。

まさに“老兵は語らず”という、古武士のような正則の心情が窺える言葉です。

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「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」

木村重成 文禄二年(1593年)?〜 慶長二十年(1615年)の言葉


木村重成は豊臣秀頼の家臣で、若いのですが勇猛果敢な武将として知られていました。

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣5月8日付ブログ参照)が始まると、重成はなぜかほとんど食事をとらなくなりました。

心配した妻が「しっかり食事をとらないと、いざという時にお役に立てませんよ」と諭すと、重成は

「ものを食わないのは首を切られた時のためだ。今度の戦でおそらく私は死ぬであろう。もし首を切られた時、切り口から食べ物が出てくるのは見苦しい限りなので、食事を控えている」

と答え、これを聞いた妻は言葉を失いました。

そして出陣した重成は徳川勢相手に奮戦しますが、最後は力尽き討死しました。

重成の首実検をした家康は、髪に焚き染められた香の香りに気付き、最後まで武士としての気高さやたしなみを忘れない重成の心掛けに感動したといわれます。

重成について詳しい素性はわかっていないのですが、おそらく20歳そこそこで、これほどの覚悟を持って戦に臨んでいたことを考えると、なかなかの人物であったと思われます。

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まとめ

「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」
(加藤清正)

「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」
(福島正則)

「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」
(木村重成)

彼らの言葉には、絶対に曲げられないポリシーや強い覚悟のようなものを感じますね。

2019年11月08日

戦国の名言集・徳川家

忠誠心の高い三河武士

天下人・徳川家康4月17日付ブログ参照)を支えた家臣は皆優秀な武将ばかりですが、中でも特に武勇に優れた4人を徳川四天王といいます。

徳川四天王とは、酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4人です。

この4人が四天王と称賛されるのは武勇だけでなく、主君・家康に対する忠誠心が非常に高かったこともその理由の一つと言えます。

ただ、この4人に限らず家康の家臣団の中枢をなす三河武士は、主君に対する忠誠心が特に高いことでよく知られています。

三河(愛知県)武士の忠誠心が高い理由として、家康は6歳〜18歳まで今川家の人質となっていましたが、その間松平家(後の徳川家)では家康の父・広忠が死んで主人のいない状態が長く続いたのですが、それでも若殿の家康が帰って来るのを待っていた家臣のみが松平家に残ったので、自然と忠誠心の高い家臣が選別されたと考えらえます。

また、このような家臣たちの忠誠心に感謝した家康自身が、常日頃から「我が家臣は宝」と誇っていたことも家臣たちに更なる忠誠心を植え付けたといえるでしょう。

今回は四天王の中の3人にまつわる名言について語りたいと思います。

「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八」

本多忠勝 天文十七年(1548年)〜 慶長十五年(1610年)を称えた言葉
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これは、敵将が(家康が持つにはもったいない)という意味を込めて皮肉った言葉です。

唐の頭(からのかしら)とは、ヤク(中国産の牛の仲間)の尾毛を束ねて飾った兜のことで、本多平八とは本多(平八郎)忠勝のことです。

忠勝は徳川家随一の猛将と恐れられ、生涯で57回の合戦に臨みかすり傷一つ受けたことがないといわれています。

元亀三年(1572年)三河に侵攻してきた武田信玄軍を徳川軍が迎え撃った一言坂の戦いで、殿(しんがり・軍の最後方で戦い本隊を逃がす役目)を務めた忠勝は、坂下という戦いに不利な地形に陣取りながら奮戦し、家康率いる本隊を無事撤退させることに成功しました。

この時の忠勝の奮闘ぶりに感嘆した武田の武将がこの付近に立てた高札に書かれてあったのが上の言葉です。


忠勝は猛将に相応しい蜻蛉切(とんぼぎり)という名槍を持っていたことでも有名です。

この槍は、刃に止まったトンボが真っ二つに切れてしまったほどの鋭さからその名が付けられました。

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「秀吉は信長公の恩を忘れて織田家に敵対する義理なき者」

榊原康政 天文十七年(1548年)〜 慶長十一年(1606年)の言葉
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本能寺の変後、信長の後継者となった豊臣秀吉に対し、信長の次男・信雄は家康を味方につけ秀吉と対戦します。(小牧・長久手の戦い)

この時康政は、秀吉が信長の遺児を蔑ろにして織田家を乗っ取った極悪人として、上の文言を書いた高札を秀吉の陣中各所に何本も立てました。

これを見た秀吉は激怒し、「榊原康政を討ち取った者には10万石を与える」と、康政の首に賞金を懸けて康政討伐を厳命したのです。

しかし、康政狩りに逸る秀吉軍を康政は少勢で見事に討ち破りました。

その後、秀吉は家康と和解し、康政が家康の使者として秀吉と会見した際、秀吉は「あの時はそなたの首を望んだが、今となってはそなたの家康殿に対する忠節は天晴れである」と康政を褒め称え、康政に従五位下式部大輔の位を叙任しました。

この話は康政の武勇もさることながら、秀吉の器の大きさを感じさせますね。

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「臆病者と肩を並べるのは御免こうむる」

井伊直政 永禄四年(1561年)〜 慶長七年(1602年)の言葉
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直政は四天王の中で唯一、徳川譜代の家臣ではなく三河出身でもありませんでしたが、家康に対する忠誠心は誰にも負けませんでした。

ある時、直政が家康の使者として秀吉の元に赴いた際、その場には石川数正も列席していました。

数正は家康がまだ幼い頃からの松平家譜代の家臣であり、徳川家の筆頭重臣ともいえる立場にありましたが、天正十三年(1585年)に突如、家康の元を離れ秀吉の家臣になってしまった人物です。

その徳川家を裏切った数正を見た直政は

「この数正は我が主人・家康を見限って殿下(秀吉)にお仕えした大臆病者。拙者、数正と肩を並べるのは御免こうむる!」

と、秀吉の前で言い放ちました。

その場に居合わせた一同は直政の語気に圧倒され、さすがの秀吉も直政の剛直さには苦笑するしかありませんでした。


直政の率いる部隊は、甲斐(山梨県)の武田家滅亡後に武勇を誇ったその遺臣を多く召し抱え、武具を赤一色に統一した“井伊の赤備え”として恐れられ、関ヶ原でも活躍しました。

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まとめ

「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八」
(本多忠勝の武勇を称えた言葉)

「秀吉は信長公の恩を忘れて織田家に敵対する義理なき者」 
(榊原康政)


「臆病者と肩を並べるのは御免こうむる」
(井伊直政)

“井伊の赤備え”は滋賀県彦根市のゆるキャラ・ひこにゃんでも有名になりましたね。(笑)

2019年10月16日

戦国の名言集・女性編

名家を生かすも殺すも妻次第 !?

日本は伝統的に「男尊女卑」の風潮が根強く残っているといわれています。

先進国の中でも会社組織における女性役員の割合が低かったり、政治の世界でも女性の閣僚は他国より少ないのが現状です。

我々一般人の目線でみると電車に女性専用車両があったり、ホテルに女性専用ルームがあったりと様々な場所で女性の立場が優遇されていて、男どもの方が隅に追いやられているような気がしますが(笑)、女性の社会的地位という公の場では日本はまだまだ後進国のようです。

それでも歴史的にみれば、現代の日本女性の立場は飛躍的に向上したといえます。

古代まで遡ると、邪馬台国の女王・卑弥呼の存在があったり、古代には女性の天皇が多かったりと女性が崇められていた時代もありますが、武士政権が誕生すると、“力の強い者が権力を握る” 時代となり、腕力の弱い女性が必然的に社会的弱者に追いやられてしまったと考えられます。

しかも、その“力の時代”がこの国では700年も続いたこと(10月14日付ブログ参照)が、日本に男尊女卑の風潮を深く根付かせた原因といえます。

とは言うものの、武士の世にあっても男だけでは歴史は作れず、表舞台には現れない女性による“内助の功”があったからこそお家の繁栄があるわけです。

というわけで、今回は戦国武将を支えた妻の名言について語りたいと思います。

「この刀はいつか父上に向けられるかもしれません」

帰蝶(濃姫)〔織田信長の妻、斎藤道三4月20日付ブログ参照)の娘〕の言葉


美濃(岐阜県)の斎藤道三は尾張(愛知県)の織田信秀と争ってましたが、ある時信秀が道三に和睦を申し入れてきました。

和睦の証しとして、信秀の嫡男・信長に道三の娘・帰蝶を嫁がせることを提案し、道三もこれを受け入れます。

かねてから信長は「大うつけ」(大バカ者)だという評判を耳にしていた道三は、帰蝶輿入れの際、

「もし信長が噂通りのうつけなら、この刀で信長の寝首を欠いてこい」と小刀を渡すと、

帰蝶は

「この刀はいつか父上に向けられるかもしれません」

と答えました。

それを聞いた道三は「それでこそ我が娘じゃ!」と喜びました。

あわよくば信長を殺して尾張を乗っ取ってやろうと考えていた道三に、帰蝶は(うつけを侮ってはいけません)と警告したのかもしれませんね。

濃姫の名は、「美濃から来た姫」という意味で信長が名付けたともいわれますが、実は濃姫については信長に嫁いだ後のことがほとんどわかっていません。

父道三の死後に美濃に帰されたとも、本能寺で信長と運命を共にしたとも、あるいは大坂の陣の少し前くらいまで生きていたともいわれ、その消息は不明のままです。

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「金銀に槍を使わせたらいかがですか?」

(芳春院)〔前田利家の妻〕の言葉


若い頃、貧しい暮らしをしていた前田利家は普段から蓄財ばかりに励み、積極的に家臣を雇い入れようとはしませんでした。

そんな時、越中(富山県)の佐々成政が前田領の末森城を攻めてきたので、利家は急ぎ援軍に駆け付けようとしましたが、思うように兵が集まりません。

利家が途方に暮れていると、妻の松は金蔵から取り出した金銀の入った袋を夫に突きつけ、

「このような時のために、普段からもっと家臣を雇い入れるよう言っておいたではありませんか!」

「いっそのこと、金銀に槍を使わせたらいかがですか?」


と、皮肉交じりに夫を叱りつけたそうです。

“槍の又佐”の異名を持つ利家にはこの上ない皮肉だったかもしれませんね。(笑)

利家の死後、松は出家して芳春院と名乗ります。

利家の死を契機に徳川家康は前田家潰しを図り、前田家に謀反の嫌疑をかけてきましたが、芳春院は自ら人質になることを申し出て江戸に赴き、亡き夫が礎を築いた“加賀百万石”を守りました。

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「鬼の妻には蛇が似合いでしょう」

(ガラシア)〔細川忠興の妻、明智光秀の娘〕の言葉

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絶世の美女といわれた玉を熱愛していた細川忠興は異常に嫉妬深く、玉が他の男の目に触れることさえ嫌い、屋敷から一歩も出そうとしませんでした。

そんなある日、忠興が玉と食事中に屋根職人が足を滑らせて庭に落ち、何気なく玉を見ました。

すると、激怒した忠興はなんと屋根職人を刀で切り殺してしまいました

しかし、こんなショッキングな場面に遭遇しても玉は眉一つ動かさず食事を続けています。

この様子を見た忠興は「目の前で人が殺されたというのに平然と食事を続けられるとは・・・お前はまるで蛇のような女だ」と言いました。

すると、玉は

「こんな酷いことができるあなたは鬼です 鬼の妻には蛇が似合いでしょう」

と言い返したそうです。

この場面を想像すると、玉はかなり胆の据わった女性だったのでしょうね。

その後、キリスト教に深く傾倒していった玉は洗礼を受け、洗礼名・ガラシアを名乗りました。

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まとめ

「この刀はいつか父上に向けられるかもしれません」
(織田信長の妻・帰蝶)


「金銀に槍を使わせたらいかがですか?」
(前田利家の妻・松)


「鬼の妻には蛇が似合いでしょう」
(細川忠興の妻・玉)


これらの言葉は後世の創作かもしれませんが、違和感をあまり感じないところに言葉の説得力がありますね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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