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2019年11月08日

戦国の名言集・徳川家

忠誠心の高い三河武士

天下人・徳川家康4月17日付ブログ参照)を支えた家臣は皆優秀な武将ばかりですが、中でも特に武勇に優れた4人を徳川四天王といいます。

徳川四天王とは、酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4人です。

この4人が四天王と称賛されるのは武勇だけでなく、主君・家康に対する忠誠心が非常に高かったこともその理由の一つと言えます。

ただ、この4人に限らず家康の家臣団の中枢をなす三河武士は、主君に対する忠誠心が特に高いことでよく知られています。

三河(愛知県)武士の忠誠心が高い理由として、家康は6歳〜18歳まで今川家の人質となっていましたが、その間松平家(後の徳川家)では家康の父・広忠が死んで主人のいない状態が長く続いたのですが、それでも若殿の家康が帰って来るのを待っていた家臣のみが松平家に残ったので、自然と忠誠心の高い家臣が選別されたと考えらえます。

また、このような家臣たちの忠誠心に感謝した家康自身が、常日頃から「我が家臣は宝」と誇っていたことも家臣たちに更なる忠誠心を植え付けたといえるでしょう。

今回は四天王の中の3人にまつわる名言について語りたいと思います。

「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八」

本多忠勝 天文十七年(1548年)〜 慶長十五年(1610年)を称えた言葉
本多忠勝.jpg

これは、敵将が(家康が持つにはもったいない)という意味を込めて皮肉った言葉です。

唐の頭(からのかしら)とは、ヤク(中国産の牛の仲間)の尾毛を束ねて飾った兜のことで、本多平八とは本多(平八郎)忠勝のことです。

忠勝は徳川家随一の猛将と恐れられ、生涯で57回の合戦に臨みかすり傷一つ受けたことがないといわれています。

元亀三年(1572年)三河に侵攻してきた武田信玄軍を徳川軍が迎え撃った一言坂の戦いで、殿(しんがり・軍の最後方で戦い本隊を逃がす役目)を務めた忠勝は、坂下という戦いに不利な地形に陣取りながら奮戦し、家康率いる本隊を無事撤退させることに成功しました。

この時の忠勝の奮闘ぶりに感嘆した武田の武将がこの付近に立てた高札に書かれてあったのが上の言葉です。


忠勝は猛将に相応しい蜻蛉切(とんぼぎり)という名槍を持っていたことでも有名です。

この槍は、刃に止まったトンボが真っ二つに切れてしまったほどの鋭さからその名が付けられました。

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「秀吉は信長公の恩を忘れて織田家に敵対する義理なき者」

榊原康政 天文十七年(1548年)〜 慶長十一年(1606年)の言葉
榊原康政.jpg

本能寺の変後、信長の後継者となった豊臣秀吉に対し、信長の次男・信雄は家康を味方につけ秀吉と対戦します。(小牧・長久手の戦い)

この時康政は、秀吉が信長の遺児を蔑ろにして織田家を乗っ取った極悪人として、上の文言を書いた高札を秀吉の陣中各所に何本も立てました。

これを見た秀吉は激怒し、「榊原康政を討ち取った者には10万石を与える」と、康政の首に賞金を懸けて康政討伐を厳命したのです。

しかし、康政狩りに逸る秀吉軍を康政は少勢で見事に討ち破りました。

その後、秀吉は家康と和解し、康政が家康の使者として秀吉と会見した際、秀吉は「あの時はそなたの首を望んだが、今となってはそなたの家康殿に対する忠節は天晴れである」と康政を褒め称え、康政に従五位下式部大輔の位を叙任しました。

この話は康政の武勇もさることながら、秀吉の器の大きさを感じさせますね。

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「臆病者と肩を並べるのは御免こうむる」

井伊直政 永禄四年(1561年)〜 慶長七年(1602年)の言葉
井伊直政.jpg

直政は四天王の中で唯一、徳川譜代の家臣ではなく三河出身でもありませんでしたが、家康に対する忠誠心は誰にも負けませんでした。

ある時、直政が家康の使者として秀吉の元に赴いた際、その場には石川数正も列席していました。

数正は家康がまだ幼い頃からの松平家譜代の家臣であり、徳川家の筆頭重臣ともいえる立場にありましたが、天正十三年(1585年)に突如、家康の元を離れ秀吉の家臣になってしまった人物です。

その徳川家を裏切った数正を見た直政は

「この数正は我が主人・家康を見限って殿下(秀吉)にお仕えした大臆病者。拙者、数正と肩を並べるのは御免こうむる!」

と、秀吉の前で言い放ちました。

その場に居合わせた一同は直政の語気に圧倒され、さすがの秀吉も直政の剛直さには苦笑するしかありませんでした。


直政の率いる部隊は、甲斐(山梨県)の武田家滅亡後に武勇を誇ったその遺臣を多く召し抱え、武具を赤一色に統一した“井伊の赤備え”として恐れられ、関ヶ原でも活躍しました。

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まとめ

「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八」
(本多忠勝の武勇を称えた言葉)

「秀吉は信長公の恩を忘れて織田家に敵対する義理なき者」 
(榊原康政)


「臆病者と肩を並べるのは御免こうむる」
(井伊直政)

“井伊の赤備え”は滋賀県彦根市のゆるキャラ・ひこにゃんでも有名になりましたね。(笑)
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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