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2019年11月11日

「義経北行伝説」を検証する

盛大に行われた祝賀パレード

昨日は「祝賀御列の儀」ということで、祝賀パレードが開催されましたね。

本来、即位の礼の10月22日に行なわれる予定だったのですが、台風19号の影響を考慮して昨日に延期されました。

穏やかな秋晴れの中、沿道に約12万人もの人々が集まり祝賀パレードは無事終えることができました。

令和改元から半年が過ぎ今回の祝賀パレードを見ていると、いよいよ令和の時代が本格的にスタートした実感が湧いてきますね!

思えば、昭和の時代には悲惨な戦争があり、平成の時代には二度の大きな震災(阪神淡路大震災、東日本大震災)がありました。

令和になって最初の秋は台風15号と19号による大きな被害に見舞われてしまいましたが、後世になって「令和は台風被害の多かった時代」などと言われないことを祈りたいですね。


さて、今回は源義経にまつわる伝説を検証します。

義経は大変人気のある人物のためか、幼少の頃から様々な伝説に彩られているのですが、その中でも今回は

(義経は死なず、北へと落ち延びた)という説を取り上げます。

義経生存説を記した文献や、義経が北へ向かった足取りを裏付ける史跡が実際にあるのですが、なぜそのような伝説が生まれたのか?

というわけで、今回は「義経北行伝説」について語りたいと思います。

江戸時代に義経生存説

そもそもこの伝説は、文治五年(1189年)義経が藤原泰衡に攻められて衣川で自害した後に端を発しています。

義経が自害したのが閏4月30日、義経の首は源頼朝のいる鎌倉へ運ばれ、首実検(死んだ人物が本人かどうか首を見て確認する)が行われたのが6月13日です。

6月13日は現在の暦に直すと7月後半にあたるので、ドライアイスなどない時代の梅雨から夏場に40日以上経過した首は相当腐敗が進行しているはずです。

つまり、運ばれた首が義経のものかどうか判別不能だったと思われるのです。

このことから、泰衡は義経を攻めたと見せかけて衣川から逃がし、鎌倉へは別人の首を送ったのではないかという説が浮上したのです。

この点に注目したのが江戸時代の徳川光圀(=水戸黄門、12月6日付ブログ参照)です。

彼は自ら編纂した『大日本史』の中で、「義経死すと偽りて遁れ去りしか」と記しています。

また、江戸幕府の儒学者・林羅山も著書『本朝通鑑』において「義経衣川の役で死せず。逃れて蝦夷島(北海道)に至り、その遺種存す」と、義経は衣川から逃れた後、北海道に渡り子孫まで残したと記しているのです。

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衣川を逃れて北へ向かった形跡

義経が北へ向かった証拠ともいえる形跡が岩手県や青森県、そして北海道には多数残されています。
義経北行伝説.jpg

これらの形跡を辿ってみると、義経は衣川から太平洋側に出て海沿いを北上したと考えられます。

義経一行が立ち寄ったとされる形跡の中からいくつかの場所を紹介します。

風呂家(岩手県遠野市)
 峠を越えた義経一行が立ち寄って風呂に浸かったので、以来この家の名字は「風呂」になったといいます。


三厩(みんまや 青森県三厩村)
 義経が津軽海峡を越え北海道に渡るために観音様に祈願した「厩石」と呼ばれる岩が残っており、義経はこの岩に三頭の馬を繋いだことから「三馬屋」となり、これが転じて三厩の地名になったといわれています。
また、義経が観音様に祈願した地には義経寺が立っています。


義経神社(北海道平取町)
 寛政十一年(1799年)北方調査のため蝦夷地に来た近藤重蔵が、この地を訪れたといわれる義経のご神体を安置し祀ったのが始まりとされています。

この義経神社をはじめ北海道日高地方には義経にまつわる地名が多いのですが、その理由として考えられるのは、北海道の先住民・アイヌの人々がこの地を訪れた義経を「オキクルミの再来」と崇めていたからのようです。

オキクルミとは、アイヌの人々が古来から英雄と崇める神のことです。



義経はジンギスカンになった !?

義経北行伝説は北海道に辿り着いただけではとどまらず、義経は北海道からさらに大陸に渡り、後に大モンゴル帝国を築いたジンギスカンになったというのです。

この説を最初に唱えたのは、江戸後期に長崎で鳴滝塾を開いたことで知られるシーボルトで、明治時代には後に文部大臣となる末松謙澄がケンブリッジ大学の卒業論文において源義経=成吉思汗(ジンギスカン)説を提唱したものを翻訳し『義経再興記』として刊行しました。

さらに大正期になると、アイヌ研究家・小矢部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』を発表して一躍注目されると同時に歴史学界では大論争に発展しました。

彼らが主張する源義経=ジンギスカン説の根拠となる理由をいくつか紹介します。

・義経とジンギスカンは年齢が近く、義経が亡くなったとされる時期(1189年)までのジンギスカンの前半生が不明であること

・源義経を音読みすると(ゲンギケイ)となり、ジンギスに発音が似ていること

・両者の使用する武器や戦法に共通点があること

・両者とも“笹りんどう”の紋章を使用していたこと

・ジンギスカンは九本の白旗を掲げていたが、白旗は源氏の旗であり、九本も源(九郎)義経の九にちなんでいると考えられること

正直、根拠と言えるほど有力な証拠ではないと思われるのですが、これらの論争が盛んだった時期に日本は中国への侵攻を進めていたので、モンゴルの祖先が日本人であるという義経=ジンギスカン説を盾に日本の中国侵略を正当化しようとする目論みも見え隠れするのです。



まとめ

  • 義経が衣川で死なず北へ逃れたとする説は江戸時代の文献に多く見られる

  • 東北北部や北海道には義経北行伝説を裏付ける形跡が多数残っている

  • 義経=ジンギスカン説は日本の中国侵略を正当化するために利用されたフシがある


義経を悲劇のヒーローとして惜しむ「判官びいき」がここまで発展したのは、それだけ義経には多くの人を惹きつける魅力があったことに他ならないのでしょうね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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