2020年05月04日
北九州を席捲したキリシタン大名 大友宗麟
“九州三強”の一角
明後日5月6日は北九州の戦国大名・大友宗麟が亡くなった日です。(天正十五年 1587年)
宗麟といえば、教科書にも登場する「キリシタン大名」として有名ですね。
宗麟は天文十八年(1549年)に来日して日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザヴィエルを自らの領地に招き、キリスト教の布教を許可しました。
そして、天正十年(1582年)には大村純忠、有馬晴信らと共に天正遣欧使節として伊東マンショなどの少年たちをローマ教皇のもとに派遣するなど、キリスト教の普及に貢献しました。
このように学校で教わる歴史において、宗麟はキリシタン大名としての側面がクローズアップされています。
しかし、宗麟は本来戦国大名であり、肥前(佐賀・長崎県)の龍造寺隆信、薩摩(鹿児島県)の島津義久と共に“九州三強”の一角を担った強豪として名を馳せた人物です。
九州だけでなく中国地方にも毛利元就という強敵がいましたが、宗麟は彼らを相手に一歩も引かず、むしろ版図を拡大してきたのです。
また、「キリシタン大名」というと、高山右近(1月6日付ブログ参照)のようにクリーンなイメージに思われがちですが・・・・宗麟の場合はそうともいえない部分もあり、その生涯も波乱に満ちていました。
というわけで、今回は大友宗麟について語りたいと思います。
壮絶を極めた家督相続
大友宗麟 享禄三年(1530年)〜 天正十五年(1587年)
宗麟は鎌倉時代から続く北九州の名門・大友氏の嫡男として豊後(大分県)府内に生まれます。幼名は塩法師丸。
塩法師丸は、元服時に将軍足利義晴から一字拝領を受けて義鎮(よししげ)と名乗りました。
義鎮は嫡男ではありましたが、すんなりと家督を相続したわけではなく、血生臭い“お家騒動”が起こったのです。
義鎮は若い頃から気性が荒く粗暴な行動が多かったため、父の義鑑(よしあき)は義鎮を嫌い、義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策しました。
しかし、重臣たちに反対されたので、義鑑は反対派の重臣を殺そうとしますが、それを察知した重臣たちに逆に襲われ、塩市丸とその母が殺されて義鑑も瀕死の重傷を負う事件に発展したのです。(二階崩れの変)
瀕死の状態だった義鑑は死の直前にようやく義鎮に家督を譲ることを承認しました。
家督を相続した義鎮は九州に進出してきた中国の毛利元就と激しい戦闘を繰り広げながら、戦国大名として精力的に版図拡大に努めます。
その結果、義鎮は本拠地の豊後に加え、豊前(福岡・大分県)、筑前と筑後(共に福岡県)、肥前(佐賀・長崎県)、肥後(熊本県)と、九州の三分の二にあたる6ヶ国の守護となったのです。
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“女好き”が招いた内紛
永禄五年(1562年)義鎮は出家して宗麟と名を改めます。
しかし出家とは名ばかりで、この頃の宗麟はかなりの“女好き”として知られていました。
何しろ、自分好みの女性を欲するあまり、わざわざ京や大坂まで家臣を遣わして「美女探し」をしていたというほどです。
そんな宗麟の女好きが高じて、ある事件が起きてしまいます。
宗麟の家臣であった一万田親実の妻は“絶世の美女”として評判でした。
これを知った宗麟は、この美女を何としても手に入れたいと考えます。
そこで宗麟は親実に無実の罪を被せて殺してしまい、親実の妻を自分の妾(めかけ=愛人)としてしまったのです。
この宗麟の仕打ちに殺された親実の弟・高橋鑑種は激怒、敵対する毛利氏と手を組んで宗麟に謀反を起こしました。
宗麟は鑑種の謀反を鎮圧するのに3年もの歳月を費やし、この事件は大友氏が衰退するきっかけになったともいわれています。
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“キリシタン王国” 建設を夢見るも挫折
天正六年(1578年)7月、宗麟はキリスト教の洗礼を受け、洗礼名ドン・フランシスコを名乗り、正式にキリスト教徒となります。
この頃、隣国日向(宮崎県)の伊東氏が薩摩の島津氏との戦いに敗れ、宗麟を頼って豊後に逃げ延びてきたため、同年11月宗麟は島津討伐を名目に日向へ出兵します。
しかし、洗礼を受けたばかりの宗麟はキリスト教に没頭するあまり、日向への行軍途上で神社仏閣を次々と破壊してしまいます。
さらに、宗麟自らは戦闘を指揮せず、日向にキリスト教の理想郷を建設しようとしていたのです。
そんな浮世離れした総大将を抱えていては、軍の士気も上がるはずはありません。
この結果、大友軍は圧倒的な大軍であったにも関わらず、少数の島津軍相手に壊滅的な大敗を喫してしまうのです。(耳川の戦い)
当然、宗麟はキリシタン王国の建設どころではなくなり、その後も島津の猛攻に晒され、本拠地の豊後さえも危うい状況に陥ってしまいます。
天正十四年(1586年)いよいよ追い詰められた宗麟は病身を抱えて上洛、関白・豊臣秀吉に謁見し島津討伐を依頼するのです。
豊臣軍の九州遠征により島津の侵攻は食い止められたものの、宗麟が安堵された所領は豊後一国のみでした。
自らの失策によりすっかり斜陽になってしまった大友家の未来を案じつつ、天正十五年(1587年)5月、宗麟は豊後の津久見で病死しました。
まとめ
- 豊後の戦国大名・大友宗麟はキリシタン大名として有名だが、壮絶なお家騒動の末に家督を相続した
- 宗麟はかなりの女好きだったため、家臣を殺してその妻を自分の妾にしたことにより家中で反感を買い謀反を招いた
- 宗麟は日向にキリシタン王国を建設しようと夢見たが、耳川の戦いで島津に大敗を喫し、以後大友家は急速に衰退していく
なお、大友家は宗麟から嫡男の義統(よしむね)に家督は引き継がれましたが、文禄二年(1593年)秀吉によって改易(お家取り潰し)させられています。
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