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2019年09月29日

関ヶ原の戦いで明暗を分けた大名たち

関ヶ原の結果が現代の国政にも影響 !?

関ヶ原の戦いに勝利したことにより徳川家の覇権が確立し、その後270年近く江戸時代が続くことになるので、関ヶ原の戦いは日本史において間違いなく大きなターニングポイントであったといえます。

大きなターニングポイントという点では徳川家だけでなく、全国の大名たちも関ヶ原後にハッキリと明暗が分かれることになりました。

戦後の論功行賞(手柄の有無や大小を決め、それに応じて賞罰を与える)によって大幅に石高を加増された者、逆に減封(領地削減)されたり改易(領地没収・お家取り潰し)された者、あるいは転封(領地移転)された者など様々です。

この時に転封され幕末まで続いた大名家は、明治以降もその地域では名家として地元の人々に長く敬愛されたので、その子孫が政界に進出したケースもあります。

その中で一番有名なのが、肥後細川家の第18代当主・細川護熙(もりひろ)氏です。
細川護熙.jpg

護熙氏は参議院議員→熊本県知事→衆議院議員を経て、平成五年(1993年)に内閣総理大臣に就任しています。

ご先祖様が果たせなかった天下獲りの夢を現代に実現したわけですね。(笑)

その他、現職の秋田県知事・佐竹敬久(のりひさ)氏も、関ヶ原後に秋田へ転封された佐竹家の第21代当主です。


そこで今回は、関ヶ原の結果、主な大名たちがその後どうなったのかについて語りたいと思います。

加増された主な大名

小早川秀秋 筑前(福岡県)福岡36万石 ⇒ 備前(岡山県) 岡山51万石 ⇒ 跡取りがいないため改易

彼の裏切りによって東軍の勝利が決定的となったのは言うまでもないことですが、秀秋は西軍の宇喜多秀家の領地・岡山に移り大幅に加増されました。
しかし、関ヶ原からわずか2年後に秀秋は病死、跡取りがいなかったため小早川家は断絶してしまいます。
秀秋は21歳の若さで亡くなったため、関ヶ原で秀秋の裏切りによって死んだ大谷吉継の祟りではないかと噂されました


福島正則 尾張(愛知県)清州20万石 ⇒ 安芸(広島県)広島49万石 ⇒ 居城を無断修復したため改易

上杉討伐時の小山会議(9月15日付ブログ参照)において、真っ先に家康に味方するのを宣言したことにより他の大名たちもほとんどが正則に同調したこと、関ヶ原でも戦いの最前線で大活躍したことが評価され大幅に加増されましたが、移転先の居城・広島城の石垣を幕府の許可なく無断で修復した罪を問われ改易となりました。
この改易処分は、秀吉に子供のようにかわいがられた豊臣恩顧の正則の存在が目障りだった幕府の仕組んだ陰謀といわれています。


黒田長政 豊前(福岡・大分県)中津18万石 ⇒ 筑前(福岡県)福岡52万石

長政も関ヶ原での槍働きに加え、彼が戦前に行なった様々な裏工作(9月19日付ブログ参照)が功を奏したので、東軍勝利の影の立役者として大幅に加増されました。
長政は福岡城を築城し、初代福岡藩主となっています。


細川忠興 丹後(京都府)宮津18万石 ⇒ 豊前(福岡・大分県)小倉40万石肥後(熊本県)54万石

忠興も正則と同じように家康に味方することをいち早く表明し、関ヶ原でも長政とともに活躍(9月17日付ブログ参照)したことから大幅に加増されました。
忠興は初代小倉藩主となりますが、跡を継いだ忠利の代に熊本へ加増・転封され、幕末に至ります

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減封された主な大名

毛利輝元 安芸(広島県)広島120万石 ⇒ 長門(山口県)萩37万石

関ヶ原の戦い当日、大坂城にいた輝元は西軍の名目的な総大将であったので、本来なら当然改易処分となるはずでしたが、毛利一門の吉川広家が戦前に毛利家の存続と所領安堵を条件に家康と不戦の密約を交わしていたので、何とか改易だけは免れ大幅な減封処分に止まりました。


上杉景勝 会津120万石 ⇒ 米沢30万石

関ヶ原の戦いのきっかけを作り、家康に討伐軍を起こさせた上杉家ですが、小山から反転した家康軍を追撃しなかったことや、戦後すぐに家康の元へ謝罪に赴いたこと9月19日付ブログ参照)などが評価され、大幅な減封処分に止まりました。


佐竹義宣 常陸(茨城県)水戸54万石 ⇒ 秋田20万石

石田三成とも親交があった義宣は、東西いずれにつくか散々迷った挙句、三成に味方しようとして家中の者に猛反対されてしまいます。
仕方なく最終的には家康側につくことを決めたものの、義宣の優柔不断な態度に家康は秋田への転封を命じました


※東北地方は陸奥(太平洋側)と出羽(日本海側)の二分割で広いため、地名のみ表示

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改易された主な大名

石田三成 近江(滋賀県)佐和山19万石 ⇒ 改易

※三成については次回のブログで詳しく語る予定です。


宇喜多秀家 備前(岡山県)岡山57万石 ⇒ 改易

秀家は五大老の一人として関ヶ原では西軍の主力として奮闘しますが、敗戦後は逃れて一時島津家に匿われます。
その後、潔く家康の元に出頭し、八丈島に流罪となり50年近い流刑生活を送った末、この地で生涯を閉じました。(享年84歳)


長宗我部盛親 土佐(高知県)浦戸22万石 ⇒ 改易

長宗我部元親の四男で家督を継いだ盛親は、関ヶ原では当初家康に味方するつもりでしたが、その旨を家康に伝える使者が足止めされたため、やむなく西軍につくことになりました。
関ヶ原の戦場においても煮え切らない態度で、結局戦わずして撤退したことにより改易処分となります。
浪人となった盛親は大坂の役で豊臣家に馳せ参じ、大坂城五人衆(真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登)の一人として奮戦しますが、敗戦後に捕えられ処刑されました。(5月8日付ブログ参照


真田昌幸 信濃(長野県)上田3万8千石 ⇒ 改易

親子で東西に分かれた昌幸は、次男の信繁(幸村)と上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍を苦戦させた結果、秀忠軍が関ヶ原の決戦に間に合わないという事態を招きました。
戦後、昌幸と信繁は紀伊(和歌山県)の九度山へ追放されますが、昌幸の所領であった上田は東軍についた長男の信幸が相続することになりました。(9月19日付ブログ参照

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まとめ

  • 小早川秀秋、福島正則、黒田長政、細川忠興は大幅に加増されたが、小早川家と福島家は後に改易となった

  • 毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宣は大幅な減封となったが、改易は免れた

  • 石田三成、宇喜多秀家、長宗我部盛親、真田昌幸は改易処分となったが、昌幸の領地は東軍についた長男の信幸が受け継いだ


関ヶ原で敵中突破を敢行し戦場を逃れた島津義弘9月17日付ブログ参照)が、家康の家臣にとりなしを頼んだとはいえ、改易どころか減封すらされなかったのは驚きですね。

2019年09月26日

戦後最恐の台風・伊勢湾台風の脅威

甚大な被害をもたらした台風は9月後半に集中している

台風15号により大きな被害を受けた千葉県では、一昨日ようやく県内すべての停電が復旧したと発表されましたが、実際にはまだ停電が解消されていない場所もあるようです。

僕の印象としては、この現代に、東京の隣にあり決して不便な田舎とはいえない千葉県内で、二週間以上も大規模な停電が続くとはとても考えられない出来事です。

勿論、台風15号がそれだけ想定外の強力な台風だったのでしょうが、政府と東電は今回の長期に及んだ停電を重く受け止め、国の防災対策をもう一度見直すべきではないかと思います。


さて、今日9月26日は日本の気象観測史上、最も大きな被害をもたらした台風・伊勢湾台風が襲来した日です。(昭和三十四年 1959年)
台風.jpg

台風についていろいろ調べてみると、過去に甚大な被害をもたらし観測史上に名を残した台風のほとんどが、この9月後半に集中しているのです。

そこで今回は、60年前に襲来した伊勢湾台風を中心に観測史上に名を残した台風について語りたいと思います。

スーパータイフーン・伊勢湾台風

昭和三十四年(1959年)9月26日 潮岬(和歌山県)に上陸した伊勢湾台風は、紀伊半島から東海地方を縦断し、被害は死者・行方不明者合わせて5,098名、全壊家屋36,135棟、床上浸水157,585棟などで、三重県と愛知県の伊勢湾沿岸の2県に被害が集中したことから伊勢湾台風と名付けられました。

この伊勢湾台風での犠牲者の数は、平成七年(1995年)の阪神淡路大震災が発生するまで戦後の自然災害としては最多のものでした。

世界気象機関の定めた「熱帯低気圧の分類」によると、風速17.2b以上の熱帯低気圧を「台風」と呼び、強い台風は風速29〜37bの(カテゴリー1)から風速62b以上の(カテゴリー5)の5段階に分けられますが、伊勢湾台風は瞬間最大風速75bでカテゴリー5の中でも強力なスーパータイフーンに分類されました。


伊勢湾台風については名古屋に残る逸話があります。

戦時中の空襲で焼失していた名古屋城は伊勢湾台風が襲来する直前に再建されたのですが、この時に城が再び焼失しないことを願い、シャチは水を呼ぶ力があるという言い伝えから、火除けのために改めて城の屋根に金のしゃちほこが取り付けられたのです。

ところが、皮肉にもしゃちほこが再建された直後に伊勢湾台風に襲われ、深刻な水害に見舞われた名古屋では、”やはり、しゃちほこが台風(=水害)を呼んだのではないか?”と噂されたそうです。

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伊勢湾台風の前年同日にも強大な台風が襲来 !?

実は、伊勢湾台風が襲来した前年の同じ日にも観測史上に残る台風が襲来しているのです。

それが、狩野川台風です。(昭和三十三年 1958年)

狩野川台風は厳密にいうと翌日の9月27日に神奈川県に上陸したと記録されていますが、実際に大きな被害をもたらした地域は上陸前日の静岡県の伊豆半島に集中しており、特に狩野川流域の被害が甚大だったため「狩野川台風」と名付けられたことから、26日に襲来といっても差し支えないと考えます。

この狩野川台風も伊勢湾台風と同じ瞬間最大風速75bでカテゴリー5スーパータイフーンです。

この台風による被害は死者・行方不明者合わせて1,296名ですが、特筆すべきは床上床下浸水が521,715棟にも上ったことでありこの狩野川流域だけで死者・行方不明者が全体の約3分の2を占めていることから、いかに狩野川流域の水害が凄まじかったかを物語っています。

スカパー!
”昭和の三大台風” とは?

先に書いた通り、これら以外にも9月後半には観測史上に残る大きな台風が日本に襲来しています。

室戸台風
昭和九年(1934年)9月21日 室戸岬(高知県)に上陸、京阪神地方を中心に死者・行方不明者3,036名、床上床下浸水401,157棟の大きな被害をもたらしましたが、この台風が後世に語り継がれる所以はその中心気圧の低さです。

台風は中心気圧が低いほど勢力が強いことは皆さんご存知ですね。

この室戸台風は上陸時の中心気圧がなんと911.6ヘクトパスカルで、日本に上陸時の台風としては最も中心気圧が低い台風なのです。(島しょ部を除く)

上陸時の中心気圧としては先の伊勢湾台風でも929ヘクトパスカルですから、室戸台風がいかに凄い台風だったかがわかります。

ちなみに、台風の正式な統計記録が開始されたのは昭和二十六年(1951年)以降となっており、室戸台風の記録は未だ破られていないのですが、現在は参考記録になっています。


枕崎台風
昭和二十年(1945年)9月17日 枕崎(鹿児島県)に上陸、中国地方を中心に死者・行方不明者3,756名を出しましたが、終戦直後の焼野原が多かったため家屋の倒壊や床上床下浸水などは不明です。

枕崎台風では、特に広島県での被害が大きく、死者・行方不明者は2千人を超え、原爆投下に見舞われた直後の広島に追い打ちをかける結果となってしまいました。

この枕崎台風も上陸時の中心気圧は916.1ヘクトパスカルで、日本では室戸台風に次ぐ強力な台風でした。(こちらも参考記録)


室戸台風・枕崎台風・伊勢湾台風の三つを総称して昭和の三大台風といいます。



まとめ

  • 阪神淡路大震災が起きるまで戦後最大の自然災害をもたらしたのは伊勢湾台風

  • 伊勢湾台風の前年ほぼ同日に襲来したのが狩野川台風

  • 日本上陸時に最も勢力が強かった台風は室戸台風で、室戸台風・枕崎台風・伊勢湾台風の三つを昭和の三大台風という


1990年代に人気となった百歳の双子姉妹・きんさんとぎんさん(名古屋在住)は、明治・大正・昭和・平成と四つの時代を生きた方々ですが、「今までに一番怖い思いをした出来事は何ですか?」と聞かれ、「伊勢湾台風が一番怖かった」と語っていたのが印象的でした。(戦争より怖かったんですね・・・・)

2019年09月24日

「敬天愛人」を貫いた生涯・西郷隆盛

明治維新 悲劇のヒーロー

今日9月24日は西郷隆盛が亡くなった日です。(明治十年 1877年)
西郷隆盛.jpg
文政十年(1827年)〜明治十年(1877年) ※生年は旧暦

西郷隆盛は幕末〜明治にかけて活躍した人物で、地元の鹿児島では英雄として絶大な人気を誇っています。

昨年の大河ドラマ『西郷どん』(主演・鈴木亮平)は記憶に新しいところですが、それ以前にも『翔ぶが如く』(1990年 主演・西田敏行)で既に大河ドラマ化されており、その他にも日本テレビのスペシャルドラマ『田原坂』(1987年 主演・里見浩太朗)でも高視聴率を得るなど、坂本龍馬と並んでこの時代の二大ヒーローといえる存在です。

日本史上、ヒーローとして人気がある人物ほど、その最期は悲劇で終わることが多く、源義経や真田幸村、坂本龍馬、そしてこの西郷隆盛などがその典型と言えますが、これは日本人特有の判官びいき体質によるものが大きく影響していると思われます。(→「判官びいき」の言葉の語源も、源義経の官職名「源九郎判官義経」に由来

つまり日本人は、人望もあり大活躍をしたはずなのに、不条理に弱い立場の置かれてしまった末、無念な最期を迎えた人物に同情を寄せるので、実像以上に英雄視する傾向があるといえるでしょう


さて、この西郷隆盛は先に書いたように大河ドラマの主人公になるくらいの人物なので、その人物像の詳細まではここで語り尽せません。

なので今回は、隆盛が活躍した歴史上のターニングポイントに絞って語りたいと思います。

討幕の立役者

隆盛が歴史の表舞台で最初に活躍したのは慶応二年(1866年)の薩長同盟です。

薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)は、文久三年(1863年)の八月十八日の政変(尊王攘夷を推進していた長州藩を、薩摩藩と会津藩が組んで京都から追放した事件)以来対立していましたが、両藩ともに「討幕」という共通の目的を持っていたので、土佐藩(高知県)の坂本龍馬11月15日付ブログ参照)が仲介する形で同盟を結ぶことになりました。

この時の薩摩藩の代表が隆盛で、長州藩の代表が桂小五郎(後の木戸孝允)でした。

薩長同盟が結ばれたことにより、討幕を果たした両藩は明治元年(1868年)1月、新政府軍として京都の鳥羽伏見の戦いで最後の将軍・徳川慶喜率いる旧幕府軍を破り、敗れた慶喜は船で江戸へ退却します。

新政府軍の総大将であった隆盛は京都から東海道を下り、慶喜が逃げ込んだ江戸城に総攻撃を仕掛ける予定でした。

しかし、これ以上の争いを望まない慶喜は上野の寛永寺に自ら謹慎し、旧幕臣の勝海舟と隆盛の話し合いによる江戸城無血開城が成立しました。

もし、この話し合いが合意せず新政府軍と旧幕府軍が再び戦うことになれば、江戸の町は戦火で火の海に包まれ大惨事になっていたといわれるので、この無血開城は”江戸市民100万人の命を救った英断”と後日語られることになります。

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隆盛は本当に武力で朝鮮を開国させようとしたのか?

明治維新後、政府の重鎮となった隆盛は、日本の開国以後、国交断絶を通告してきた朝鮮に対し、武力をもって開国させようとする征韓論を唱えますが、内政優先を主張する大久保利通岩倉具視に反対されて対立、敗れた隆盛らは下野(げや=議員辞職)しました。(明治六年の政変

しかし、この征韓論には誤解があるのです。

明治政府の説得にも応じず頑なに拒否の姿勢を崩さない朝鮮に対し、朝鮮出兵を主張したのは板垣退助ら他の政府高官であり、隆盛はあくまで話し合いによる平和的解決を望んでいたのです。

そのために、隆盛自らが全権大使となって朝鮮へ行くことを強く主張しました。

隆盛は江戸城無血開城の時と同じように、自らが朝鮮に赴き誠意を尽して話し合えば必ず平和的な解決ができると信念を持っていました。

ところが、反対派により隆盛の主張は却下され、隆盛は征韓論を主張した板垣らとともに下野してしまったので、反対派の大久保らが自分たちの立場を正当化するため、まるで隆盛が征韓論の首謀者であるかのように扱ったのです。



国内最後の内戦・西南戦争

下野した隆盛は地元の鹿児島に帰り、私学校を作って若者の育成に力を注いでいましたが、明治政府の政策である秩禄処分(武士に支給されていた給料などの廃止)や廃刀令(軍人・警官以外の帯刀禁止)などにより士族たちの政府への不満が高まった結果、明治七年(1874年)の佐賀の乱を皮切りに、明治九年(1876年)には敬神党(神風連)の乱秋月の乱萩の乱と立て続けに不平士族の反乱が起こります。

これら士族の反乱を前にしても隆盛はあくまで静観の姿勢を貫いていましたが、私学校の生徒たちが政府陸軍省の弾薬を略奪する事件を起こしてしまい、さらには政府による隆盛暗殺計画を聞くに及び、ついに隆盛は挙兵を決意、明治十年(1877年)2月西南戦争が勃発しました。

隆盛率いる薩摩軍はまず熊本城を襲撃、3月には西南戦争最大の激戦・田原坂の戦いで政府軍と一ヶ月に及ぶ死闘を繰り広げましたが、その後徐々に後退していき、9月24日鹿児島の城山に追い詰められた隆盛は

「もう、ここらでよか」

の言葉を最後に自決し、七ヶ月に及んだ西南戦争はここに終結しました。

この西南戦争は日本国内最後の内戦であり、これ以後士族の武力反乱はなくなり、言論による自由民権運動へ移行していきます。



まとめ

  • 薩摩藩の下級武士だった隆盛は薩長同盟や江戸城無血開城に尽力した

  • 隆盛は征韓論を主張しておらず、あくまで朝鮮との話し合いによる平和的解決を望んでいた

  • 隆盛が起こした西南戦争は国内最後の内戦であり、以後は言論による自由民権運動へと移行した


隆盛の座右の銘「敬天愛人」は文字通り(天を敬い人を愛する)という意味ですが、現代でも高い志をもつ経営者の方に親しまれている言葉ですね。

2019年09月22日

徳川家康に由来する東京の地名

東京の地名は江戸時代以降に付けられたものが圧倒的に多い

徳川家康4月17日付ブログ参照)は関ヶ原の戦いに勝利した後、慶長八年(1603年)に征夷大将軍となり江戸に幕府を開きますが、そもそも家康が江戸に移転してきたのは、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし全国統一を果たした後、秀吉の命令により北条氏に代わって東海から関東へ転封となった天正十八年(1590年)です。

以来、家康は寂れた漁村だった江戸の町づくりに励み、日本橋を起点とする五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を整備したことで地方から多くの人が江戸に集まり、江戸城(現在の皇居)を中心とした江戸の町は発展が加速していきます。

この結果、江戸時代中期(18世紀初め頃)には江戸の人口はなんと100万人を超え、世界一の大都市にまで発展しました。(※当時の都市人口密度による比較)

家康が江戸幕府を開く以前、日本の中心は京都であり、その京都から遠く離れた関東の江戸などは太田道灌が築城した江戸城(8月5日付ブログ参照)があったくらいで、他には本当に何もないド田舎だったことを考えれば、家康が江戸、つまり現在の東京都心部を形成したと言っても過言ではないのです。

こうした流れから、現在の東京都心部の地名は江戸時代以降に名付けられたものが非常に多いのですが、今回はその中で家康と関わりのある人物に由来する地名について語りたいと思います。

有楽町(千代田区)

東京駅の一つ手前の駅で、「有楽町マリオン」でも知られる有楽町は、家康が織田有楽斎(おだ うらくさい)に与えた土地で、有楽斎が屋敷を構え住んでいたことから、この一帯を「有楽原」と呼んでいたことに由来します。
織田有楽斎.jpg

織田有楽斎は織田信長の弟で、実名を長益(ながます)といい、出家後に有楽斎と名乗りました。

有楽斎は千利休の弟子であり、利休七哲(千利休の弟子の中で選ばれた七人)の一人に名を連ね、武将としてよりも茶人として有名な人物です。

ちなみに、有楽町近くの数寄屋橋は、江戸城の外堀に架けられた橋があった場所で、茶人だった有楽斎の茶室「数寄屋」に由来します。

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半蔵門(千代田区)

東京メトロの路線名(半蔵門線)にもなり駅もある半蔵門は、家康に仕えた伊賀忍者の頭領・服部半蔵が警備を任された江戸城の門に由来します。

服部半蔵といえば、アニメ『忍者ハットリくん』でその名を知った方も多いと思いますが(笑)、半蔵が最も活躍したのは、天正十年(1582年)本能寺の変が起きた時です。

この時、少人数で堺(大阪府)にいた家康は、信長を倒した明智光秀の軍勢が自分たちに迫ってくるのを知り絶体絶命のピンチに陥ります。

光秀の包囲網をかいくぐって地元の三河(愛知県)に帰るには、伊賀(三重県)の山中を抜けるルートしか残されていませんでしたが、このルートは山賊などの落ち武者狩りが多く少人数で歩くのはとても危険でした。

そこで、家康に同行していた半蔵は、手下の忍者をできるだけ多く集めて伊賀の山中を先導し、無事に家康を三河に送り届けることに成功したのです。

この「伊賀越え」の働きによって半蔵は家康の大いなる信頼を得ることになりました。

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八重洲(中央区)

東京駅の東側の出口を「八重洲口」といい、東京駅の東側一帯を指すビジネス街ですが、この八重洲は家康に仕えた外交顧問、ヤン・ヨーステンがこの地に屋敷を構えたことに由来します。

ヤン・ヨーステンは慶長五年(1600年)、イギリス人のウイリアム・アダムズ(三浦按針)とともにリーフデ号で豊後(大分県)に漂着し、その後家康に登用されたオランダ人航海士です。

彼の日本名が「耶楊子」(やようす)で、これが転じて「八重洲」になりました。

つまり、ヤン・ヨーステン → 耶楊子 → 八重洲 ということですね。

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青山(港区)

青山学院大学があり、お洒落な街のイメージがある青山は、家康の関東移転の際、家臣の青山忠成に与えられた広大な屋敷に由来します。

忠成は文禄元年(1592年)関東総奉行に任命されますが、時代劇にもよく出てくる江戸の「北町奉行所」と「南町奉行所」は、忠成の屋敷を中心に現在の青山通り(国道246号線)を隔て奉行所を北と南に分けたものです。

そして、その奉行所区画がほぼそのまま現在の「北青山」と「南青山」の地名になっています。

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東京の地名の由来まとめ

  • 有楽町 → 信長の弟・織田有楽斎から

  • 半蔵門 → 家康の家臣・服部半蔵から

  • 八重洲 → 家康の外交顧問・ヤン・ヨーステンから

  • 青山 → 家康の家臣・青山忠成から


皆さんはこれらの地名由来、いくつご存知でしたか?

2019年09月19日

関ヶ原の裏で天下を狙った武将たち

関ヶ原の戦いは一つではなかった !?

前回、前々回と二回に分けて関ヶ原の戦いについて語りましたが、徳川家康4月17日付ブログ参照)と石田三成10月1日付ブログ参照)は合戦の前から全国の大名たちと様々な駆け引きを行ない、なんとしてでも自分の味方に引き入れて戦局を優位に進めたいと目論んでいました。

それは声を掛けられた側の大名たちも決して他人事ではなく、もし勝てば全国にその名を轟かす大名として大きく飛躍し、後に天下を狙うことさえ可能ですが、逆に負け組に付いてしまったら改易処分(お家取り潰し)はほぼ免れることはできないという、大名たちにとって究極の選択だったのです。

そんな中、関ヶ原の戦いそのものには参戦できなかったものの、東西どちらの陣営か旗色を明確にして日本各地で戦いが繰り広げられるという、いわば”地方版関ヶ原の戦い”が行われていたのです。

今回はその日本各地で行われた関ヶ原の戦いについて語りたいと思います。

長谷堂城の戦い(東北の関ヶ原)

最上義光(東軍) × 上杉景勝(西軍)

上杉討伐のため会津に向かっていた家康(9月15日付ブログ参照)ですが、三成挙兵の報告を受けた家康は会津を目前にした下野(栃木県)の小山で急遽、西へ引き返すことを決めました。

一方、家康の襲来に備えて会津国境付近の防備を固め、浪人を雇うなどして兵力を増強していた上杉家は肩透かしを食らった格好でしたが、上杉景勝の参謀・直江兼続は、(今追撃して家康の背後を突けば必ず大勝できる)と確信し、景勝に家康追撃を願い出ますが、景勝は首を縦に振りませんでした。

景勝は「我が上杉家の軍法に敵の背後を突く戦法はない」と答え、養父・上杉謙信以来の上杉家の軍法を説いたのです。

それでも、兼続は何とか景勝を説き伏せようと必死に食い下がったのですが、景勝は「われらは反転し、山形の最上義光を攻める」と決断を下しました。

最上義光とは同盟を結んでいましたが、家康が上杉討伐に向かう段階になって義光は上杉と手を切り家康と結んだからです。

兼続は大軍を率い最上氏の支城・長谷堂城を攻めますが、なかなか落とすことができないまま関ヶ原での西軍敗報を知ることとなり、やむなく会津へ撤退します。

この時、上杉軍が撤退する際の殿(しんがり=軍の最後方で追撃してくる敵を防ぐ役目)を務めたのが、漫画『花の慶次』でも有名な当代一の傾奇者(かぶきもの)・前田慶次です。


戦後、景勝と兼続の主従は家康に対し謝罪に赴きますが、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封処分となりました。

三成と並んで家康の前に大きく立ちはだかったはずの上杉家を改易処分にしなかったのは、もし上杉軍が家康を追撃していたら、兼続の読み通り家康も危なかったと自覚していたので、追撃してこなかった上杉に家康は内心感謝していたからではないでしょうか?

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第二次上田合戦(信州の関ヶ原)

徳川秀忠(東軍) × 真田昌幸(西軍)
上田城跡.jpg
上田城跡
※ちなみに第一次上田合戦は、天正十三年(1585年)沼田の地を巡り昌幸が家康に対し反旗を翻したことに激怒した家康が、8千の兵を差し向け上田城を攻めたが結局落とせず撤退した。


家康の上杉討伐に従軍していた真田父子は、小山での軍議(9月15日付ブログ参照)後、長男の信幸は東軍に、父の昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍にそれぞれつくことを決め、親兄弟で袂を分かつことになりました。

信幸が東軍についたのは妻が家康の重臣・本多忠勝の娘であったため、信繁が西軍についたのは妻が三成の盟友・大谷吉継の娘であったためであり、そして昌幸が西軍を選んだのは自らの野心のためといわれています。

西軍につくことを選んだ昌幸と信繁は家康の元を離れ、昌幸の領地である信州上田に向かいますが、その途中で長男信幸の居城・沼田城に立ち寄ります。

昌幸は今や敵に回った長男の居城を得意の謀略であわよくば乗っ取ろうと画策しますが、信幸の留守を守っていた妻・小松姫は義父である昌幸を警戒し、昌幸がどう言いくるめようと決して城門を開けず、二人を城の中へ入れませんでした

仕方なく諦めた昌幸ですが「さすがは猛将・本多忠勝の娘、夫の留守を守る妻の姿勢として天晴れであり、武士の妻の鏡である」と、長男の嫁を褒め称えたといいます。

こうして上田に戻った昌幸と信繁の前に現れたのが、家康の三男・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)でした。

秀忠は一旦江戸に戻った家康と軍勢を二手に分け、自らは3万8千の軍勢を率いて中山道を進み、関ヶ原で家康と合流する予定だったので、その途中で西軍についた昌幸の上田城を落とし、関ヶ原で待つ家康への手土産にしようと目論んでいたのです。

しかし、百戦錬磨の昌幸は地の利を活かして秀忠率いる徳川の大軍を翻弄し、上田城は容易に落ちません。

この間、秀忠に従軍していた長男の信幸は支城の戸石城を落とす戦功を上げますが、とうとう徳川軍は上田城を落とせないまま関ヶ原に向かわざるを得なくなり、しかも上田攻めに費やした時間ロスにより秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わず、戦後父の家康に大目玉を食らうことになりました。

戦後、信幸は自身の恩賞と引き換えに父と弟の助命を家康に嘆願し、この結果昌幸と信繁は紀伊(和歌山県)の九度山へ配流となり、信幸は沼田に加え父の上田も引き継ぐことになりました。

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石垣原の戦い(九州の関ヶ原)

黒田如水(東軍?) × 大友義統(西軍)

九州では東西両軍ともに主力が関ヶ原に出向いていたので、どこも手薄な状況でした。

豊後(大分県)の大名だった大友義統(宗麟の嫡男)は、朝鮮出兵の際に不手際があり改易されていましたが、この機会に故地奪還を目指して挙兵します。

これを知った豊前中津の黒田如水(=官兵衛の出家後の法名、3月20日付ブログ参照)ですが、既に家督を嫡男の長政に譲った隠居の身であり、黒田家の軍勢も長政とともに関ヶ原へ出向いていました。

そこで如水は、今までに蓄財した金や兵糧すべてを使って兵士を雇い入れ、急ごしらえの軍勢で石垣原において大友義統と激突、見事これを撃破しました。

その後、勢いに乗った如水はあっという間に北九州を席巻してしまいます。

如水の狙いは九州全土を制圧した後に東上し、関ヶ原で勝利した方と対決することでしたが、関ヶ原の戦いがわずか半日で決着してしまったことで如水の野望も潰えました。

しかも皮肉なことに、息子の長政が福島正則を東軍につくよう説得したり、小早川秀秋寝返りの裏工作もしたことで関ヶ原の戦いは早期に決着したのです。

東軍の勝利に大いなる貢献をした長政は家康から筑前福岡52万石を賜り、意気揚々と如水の元に帰りました。

長政が家康に喜ばれ何度も握手を求められたことを話すと、如水は「握手をしたのはどちらの手だ?」と尋ねました。

長政は奇妙なことを聞くと思いながら「右手です」と答えました。

すると如水は「その時、お前の左手は何をしていたのか?」と聞いたそうです。

つまり、如水は(なぜ空いていた左手で家康を刺し、自ら天下を狙わなかったのか?)と言いたかったのです。

如水にしてみれば、まさに「親の心 子知らず」といったところでしょうか。

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まとめ

  • 徳川軍を追撃しなかった上杉景勝は反転して最上義光を攻めたが長谷堂城を落とせず撤退した

  • 西軍についた真田昌幸は上田城で徳川の大軍相手に奮戦し、この結果徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった

  • 黒田如水は関ヶ原の混戦に乗じて天下を狙ったが、息子長政の活躍が逆に仇となり野望は潰えた


上田城は徳川の大軍に二度も攻められたのに落ちなかったため”不落城”の異名があり、現在の上田城跡内にある真田神社では「不落城お守り」が受験生に人気です。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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