2019年09月19日
関ヶ原の裏で天下を狙った武将たち
関ヶ原の戦いは一つではなかった !?
前回、前々回と二回に分けて関ヶ原の戦いについて語りましたが、徳川家康(4月17日付ブログ参照)と石田三成(10月1日付ブログ参照)は合戦の前から全国の大名たちと様々な駆け引きを行ない、なんとしてでも自分の味方に引き入れて戦局を優位に進めたいと目論んでいました。
それは声を掛けられた側の大名たちも決して他人事ではなく、もし勝てば全国にその名を轟かす大名として大きく飛躍し、後に天下を狙うことさえ可能ですが、逆に負け組に付いてしまったら改易処分(お家取り潰し)はほぼ免れることはできないという、大名たちにとって究極の選択だったのです。
そんな中、関ヶ原の戦いそのものには参戦できなかったものの、東西どちらの陣営か旗色を明確にして日本各地で戦いが繰り広げられるという、いわば”地方版関ヶ原の戦い”が行われていたのです。
今回はその日本各地で行われた関ヶ原の戦いについて語りたいと思います。
長谷堂城の戦い(東北の関ヶ原)
最上義光(東軍) × 上杉景勝(西軍)
上杉討伐のため会津に向かっていた家康(9月15日付ブログ参照)ですが、三成挙兵の報告を受けた家康は会津を目前にした下野(栃木県)の小山で急遽、西へ引き返すことを決めました。
一方、家康の襲来に備えて会津国境付近の防備を固め、浪人を雇うなどして兵力を増強していた上杉家は肩透かしを食らった格好でしたが、上杉景勝の参謀・直江兼続は、(今追撃して家康の背後を突けば必ず大勝できる)と確信し、景勝に家康追撃を願い出ますが、景勝は首を縦に振りませんでした。
景勝は「我が上杉家の軍法に敵の背後を突く戦法はない」と答え、養父・上杉謙信以来の上杉家の軍法を説いたのです。
それでも、兼続は何とか景勝を説き伏せようと必死に食い下がったのですが、景勝は「われらは反転し、山形の最上義光を攻める」と決断を下しました。
最上義光とは同盟を結んでいましたが、家康が上杉討伐に向かう段階になって義光は上杉と手を切り家康と結んだからです。
兼続は大軍を率い最上氏の支城・長谷堂城を攻めますが、なかなか落とすことができないまま関ヶ原での西軍敗報を知ることとなり、やむなく会津へ撤退します。
この時、上杉軍が撤退する際の殿(しんがり=軍の最後方で追撃してくる敵を防ぐ役目)を務めたのが、漫画『花の慶次』でも有名な当代一の傾奇者(かぶきもの)・前田慶次です。
戦後、景勝と兼続の主従は家康に対し謝罪に赴きますが、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封処分となりました。
三成と並んで家康の前に大きく立ちはだかったはずの上杉家を改易処分にしなかったのは、もし上杉軍が家康を追撃していたら、兼続の読み通り家康も危なかったと自覚していたので、追撃してこなかった上杉に家康は内心感謝していたからではないでしょうか?
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第二次上田合戦(信州の関ヶ原)
徳川秀忠(東軍) × 真田昌幸(西軍)
上田城跡
※ちなみに第一次上田合戦は、天正十三年(1585年)沼田の地を巡り昌幸が家康に対し反旗を翻したことに激怒した家康が、8千の兵を差し向け上田城を攻めたが結局落とせず撤退した。
家康の上杉討伐に従軍していた真田父子は、小山での軍議(9月15日付ブログ参照)後、長男の信幸は東軍に、父の昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍にそれぞれつくことを決め、親兄弟で袂を分かつことになりました。
信幸が東軍についたのは妻が家康の重臣・本多忠勝の娘であったため、信繁が西軍についたのは妻が三成の盟友・大谷吉継の娘であったためであり、そして昌幸が西軍を選んだのは自らの野心のためといわれています。
西軍につくことを選んだ昌幸と信繁は家康の元を離れ、昌幸の領地である信州上田に向かいますが、その途中で長男信幸の居城・沼田城に立ち寄ります。
昌幸は今や敵に回った長男の居城を得意の謀略であわよくば乗っ取ろうと画策しますが、信幸の留守を守っていた妻・小松姫は義父である昌幸を警戒し、昌幸がどう言いくるめようと決して城門を開けず、二人を城の中へ入れませんでした。
仕方なく諦めた昌幸ですが「さすがは猛将・本多忠勝の娘、夫の留守を守る妻の姿勢として天晴れであり、武士の妻の鏡である」と、長男の嫁を褒め称えたといいます。
こうして上田に戻った昌幸と信繁の前に現れたのが、家康の三男・徳川秀忠(1月24日付ブログ参照)でした。
秀忠は一旦江戸に戻った家康と軍勢を二手に分け、自らは3万8千の軍勢を率いて中山道を進み、関ヶ原で家康と合流する予定だったので、その途中で西軍についた昌幸の上田城を落とし、関ヶ原で待つ家康への手土産にしようと目論んでいたのです。
しかし、百戦錬磨の昌幸は地の利を活かして秀忠率いる徳川の大軍を翻弄し、上田城は容易に落ちません。
この間、秀忠に従軍していた長男の信幸は支城の戸石城を落とす戦功を上げますが、とうとう徳川軍は上田城を落とせないまま関ヶ原に向かわざるを得なくなり、しかも上田攻めに費やした時間ロスにより秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わず、戦後父の家康に大目玉を食らうことになりました。
戦後、信幸は自身の恩賞と引き換えに父と弟の助命を家康に嘆願し、この結果昌幸と信繁は紀伊(和歌山県)の九度山へ配流となり、信幸は沼田に加え父の上田も引き継ぐことになりました。
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石垣原の戦い(九州の関ヶ原)
黒田如水(東軍?) × 大友義統(西軍)
九州では東西両軍ともに主力が関ヶ原に出向いていたので、どこも手薄な状況でした。
豊後(大分県)の大名だった大友義統(宗麟の嫡男)は、朝鮮出兵の際に不手際があり改易されていましたが、この機会に故地奪還を目指して挙兵します。
これを知った豊前中津の黒田如水(=官兵衛の出家後の法名、3月20日付ブログ参照)ですが、既に家督を嫡男の長政に譲った隠居の身であり、黒田家の軍勢も長政とともに関ヶ原へ出向いていました。
そこで如水は、今までに蓄財した金や兵糧すべてを使って兵士を雇い入れ、急ごしらえの軍勢で石垣原において大友義統と激突、見事これを撃破しました。
その後、勢いに乗った如水はあっという間に北九州を席巻してしまいます。
如水の狙いは九州全土を制圧した後に東上し、関ヶ原で勝利した方と対決することでしたが、関ヶ原の戦いがわずか半日で決着してしまったことで如水の野望も潰えました。
しかも皮肉なことに、息子の長政が福島正則を東軍につくよう説得したり、小早川秀秋寝返りの裏工作もしたことで関ヶ原の戦いは早期に決着したのです。
東軍の勝利に大いなる貢献をした長政は家康から筑前福岡52万石を賜り、意気揚々と如水の元に帰りました。
長政が家康に喜ばれ何度も握手を求められたことを話すと、如水は「握手をしたのはどちらの手だ?」と尋ねました。
長政は奇妙なことを聞くと思いながら「右手です」と答えました。
すると如水は「その時、お前の左手は何をしていたのか?」と聞いたそうです。
つまり、如水は(なぜ空いていた左手で家康を刺し、自ら天下を狙わなかったのか?)と言いたかったのです。
如水にしてみれば、まさに「親の心 子知らず」といったところでしょうか。
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まとめ
- 徳川軍を追撃しなかった上杉景勝は反転して最上義光を攻めたが長谷堂城を落とせず撤退した
- 西軍についた真田昌幸は上田城で徳川の大軍相手に奮戦し、この結果徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった
- 黒田如水は関ヶ原の混戦に乗じて天下を狙ったが、息子長政の活躍が逆に仇となり野望は潰えた
上田城は徳川の大軍に二度も攻められたのに落ちなかったため”不落城”の異名があり、現在の上田城跡内にある真田神社では「不落城お守り」が受験生に人気です。
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