2020年04月27日
幕府の陰謀だった !? 宇都宮吊り天井事件
家康の元で権勢を振るっていた本多正純
慶長二十年(1615年)大坂夏の陣(5月8日付ブログ参照)で豊臣家が滅ぼされたことにより、ようやく戦乱の世が終わりましたが、次に幕府は体制強化のため徳川家を脅かす可能性のある大名の取り潰しに力を注ぐようになります。
しかも、それは外様大名などに限らず、松平家など徳川一門の身内にも及ぶ厳しいものでした。
身内さえも容赦しないのであれば、幕府の中枢を担う者であっても例外ではありません。
このような流れの中で、そのターゲットにされたのが本多正純でした。
正純は父の正信と共に徳川家康(4月17日付ブログ参照)の側近として権勢を振るっていた人物です。
正純は大坂冬の陣の後、豊臣方を巧妙な話術で言いくるめ、大坂城の外堀に加えて内堀まで埋めて城を丸裸にすることに成功した実績があります。
その他にも豊臣恩顧の福島正則を改易(お家取り潰し)させたり、幕府内のライバルであった大久保忠隣を家康暗殺の嫌疑を被せて失脚させるなど、かなりの策謀家として有名でした。
この正純が失脚するきっかけとなったのが宇都宮吊り天井事件です。
しかし、幕府権力の強化に尽力してきた正純が、なぜ失脚させられてしまったのでしょうか?
というわけで、今回は宇都宮吊り天井事件について語りたいと思います。
事件の経緯
元和八年(1622年)4月、二代将軍・徳川秀忠(1月24日付ブログ参照)は亡き父家康の7回忌のため、日光東照宮へ参拝しました。
参拝の帰途、秀忠は日光街道の順路にある宇都宮城に宿泊する予定でした。
宇都宮城跡
そのため、宇都宮城城主の本多正純は将軍を迎えるにあたり事前に城の改修を行ない、秀忠のために特別な宿舎まで用意していました。
ところが、秀忠は突如予定を変更し、宇都宮城には寄らず急いで江戸に帰ってしまったのです。
正純は秀忠の行動を不審に思いましたが、その後も理由を聞かされることはありませんでした。
秀忠の日光参拝から4ヶ月後の同年8月、正純は南出羽(山形県)の最上氏の改易に際して居城の接収を命じられ山形城に赴いていました。
この山形において、正純は幕府から思いもよらぬ驚愕の命令を受けることになります。
なんと、正純自身も改易処分を命じられてしまったのです。
改易の理由は、宇都宮城石垣の無断修復や鉄砲の密造、そして秀忠の暗殺を画策した謀反の罪など11ヶ条にも及ぶ嫌疑がかけられていたことです。
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将軍を暗殺するための仕掛けを作っていた !?
正純にかけられた罪状の中で、最大の罪とされたのはもちろん将軍暗殺を画策したことですが、この暗殺のために仕掛けられたのが「吊り天井」だといわれています。
つまり、秀忠が宿泊する部屋にあらかじめ吊り天井を仕掛け、寝ている時にそれを落として秀忠を圧死させようとしたというのです。
秀忠は事前にこの情報を入手していたため、宇都宮城で宿泊する予定を変更して江戸に帰ったということになります。
一方、正純は宇都宮の所領は没収されたものの、長年にわたる幕府への忠勤に免じて、当初は北出羽(秋田県)の由利に移された上で5万5千石を与えられる予定でした。
しかし、正純はこの転封を拒否したのです。
正純にしてみれば、将軍暗殺など事実無根のでっちあげで全くの濡れ衣であり、もしこの転封を受け入れてしまったら罪を認めたことになると考えたのでしょう。
また、弁解の余地も与えず一方的にこんな不条理な処分を下した幕府に対する抗議の意味もあったと思われます。
ですが、幕府の決定を拒否した正純は秀忠の怒りを買ってしまい、ついに本多家は改易させられ、正純も北出羽の横手へ流罪にされてしまったのです。
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父の正信は予言していた!
正純の主張通り、実際には宇都宮城に吊り天井の仕掛けなどはなかったとされています。
ではなぜ、正純はありもしない嫌疑をかけられてしまったのでしょうか?
この事件の背景には少なからず幕府の陰謀が潜んでいたと思われます。
具体的に言うと、正純は他の家老に妬まれ、将軍の秀忠にも疎んじられていたと考えられるのです。
正純の父は家康の側近として辣腕を振るっていた本多正信です。
正信も策謀家としてあまり評判は良くなかったのですが、実は無欲な人であり、家康からの加増要請を何度も固辞していたのです。
なぜなら、正信は家康の側近として権力を握っている上に多大な石高まで得れば周囲から嫉妬され、やがて足を引っ張られるであろうことを理解していたからです。
息子の正純にも
「権力と石高の両方を手に入れれば、必ず災いが起こる」
と常々言い聞かせていました。
しかし、正純は父の言いつけを守らず、父の死後に下野(栃木県)小山3万3千石から宇都宮15万5千石もの大きな所領を受け取ってしまったのです。
この結果、老中の土井利勝など幕府内のライバルからより激しい嫉妬を生むことになります。
さらに、先代家康からの威光を笠に着た正純を疎ましく思っていた将軍秀忠の思惑が一致し、この両者が共謀して正純を陥れるために仕組んだ陰謀だったのではないかと考えられるのです。
まとめ
- 宇都宮吊り天井事件とは、幕閣の本多正純が将軍秀忠を吊り天井の仕掛けで暗殺しようとしたとされる事件
- 正純は身の潔白を主張したが認められず、北出羽の横手に流罪にされた
- 実際には宇都宮城に吊り天井の仕掛けが施された形跡はなく、幕府が正純を陥れるための陰謀だった思われる
この事件は単なる将軍暗殺未遂ではなく、「吊り天井」という大掛かりな仕掛けが施されていたことが後世に語り継がれる理由でしょうね。
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