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2019年07月31日
ディープインパクト死す・・・!
平成の最強馬
昨日、ディープインパクトが死去したというニュースに衝撃を受けました。
競馬を全くやらない人でも、この馬の名前くらいは知っているという方は多いでしょう。
通算成績14戦12勝2着1回失格1回(凱旋門賞3位入線後)、重賞10勝(うちGT7勝)。
この数字だけでも凄いのですが、実際の走りを見ると、14戦全ての手綱を取った武豊騎手が「走っているというより、飛んでいるよう」と表現したように、まさに異次元というか、馬名のとおり”大きな衝撃”を与える強さを見せてくれました。
この馬の父はサンデーサイレンスというアメリカ産馬です。
この父も「日本の競馬界を根底から変えた」と言われるほどの偉大な種牡馬で、数多くの名馬を輩出しましたが、その中でもサンデーサイレンスの最高傑作がディープインパクトと言われていました。
僕はこの馬が無敗で3冠を決めた菊花賞、最後の直線で実況アナウンサーが「世界のホースマンよ見てくれ、これが日本近代競馬の結晶だ!」と絶叫したのが今でも忘れられません。
稀代の名馬・ディープインパクトのご冥福をお祈りします。
昔は31日がなかった!?
さて、今日は7月31日、月末です。忙しい人も多いと思いますが、実は江戸時代まで31日はなかったのをご存じですか?
そこで今日は日本の暦について語りたいと思います。
日本に初めて暦が導入されたのは、飛鳥時代の推古十二年(604年)、政治的には聖徳太子(10月28日付ブログ参照)が活躍した時期と言われています。
これは俗に旧暦と呼ばれるもので、正式名は太陰太陽暦(たいいんたいようれき)と言います。
この太陰とは月のことで、1ヶ月を月の満ち欠けの周期に合わせたものです。
月が地球を回る周期は約29.5日なので、29日の月と30日の月を作って調整し、29日の月を小の月、30日の月を大の月と呼んでいました。
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旧暦の問題点
@大の月と小の月が年によって違う
現在の暦のように(何月は何日まで)と決まっていないので、(今月は)大の月なのか小の月なのか、月末がわかりづらいのです。
A閏月(うるうづき)を作らねばならない
月の周期に合わせて1ヶ月を29.5日で計算すると、
29.5×12(ヶ月)=354日(1年)
となり、現在の1年365日より11日も少なくなり、3年で33日、つまり約1ヶ月のズレが生じてしまいます。
そこで、約三年に一度閏月(同じ月をもう一度繰り返す)を作ることで修正しました。
B閏月の問題
閏月により長い年月の修正はできましたが、
・閏月のある年は一年が384日(354+30)にもなり、13ヶ月もある
・閏月になる月も年によって違う
など、複雑で混乱を招きやすかったのです。
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新暦の採用
明治維新を迎えると、日本も諸外国に合わせて新暦、すなわち地球が太陽の周りを回る周期を基にした太陽暦(グレゴリオ暦)を採用しました。
太陽暦を採用すると同時に、一日を24時間、日曜日を休日とすることも定めました。
江戸時代までは、子丑寅・・・の十二支を二時間づつに振り分けて時間を管理してました。(時代劇でたまに出てきますね)
この太陽暦への切り替えは、明治五年(1872年)12月3日(旧暦)を明治六年(1873年)1月1日(新暦)に改定したことから現代に続いています。
しかし、当時の庶民たちは12月に入ったばかりの時に、政府からいきなり「年が明けました」と言われて、とても戸惑ったでしょうね。
まとめ
- 日本に暦が導入されたのは飛鳥時代
- 旧暦(太陰太陽暦)は月の満ち欠けの周期で1ヶ月を定めた
- 日本が新暦(太陽暦)を採用したのは明治5年(1872年)
ちなみに、2月29日(閏年)生まれの人は戸籍上の誕生日も2月29日と記載されますが、法律上、閏年でない年は3月1日午前0時をもって加齢されるそうです。
2019年07月29日
A8フェスティバルに行ってきました
予想を上回る盛況ぶりに驚く!
一昨日の土曜日にパシフィコ横浜で開催された『A8フェスティバル』に行って来ました。
僕はブログ初心者ですので、いろいろなものを吸収して勉強したい!という意気込みで行ったのですが、13:00の開始時間に到着したら既に長蛇の列ができていていきなり圧倒されました。
それでもイベント会場には20分くらいで入れたのですが、何しろ僕にとっては初めてづくしでどう動いたらいいのか全くわからないので、周りの方々に追随する形で会場内を見学しました。
感想としては、まずセミナーが事前予約制で、僕は予約をしていなかったため参加できなかったのが残念でした。
それと、初めて参加する初心者は、当日どのように行動したら良いのかを事前により詳しく教えて頂けていたら、もっと有意義な時間を過ごすことができたんじゃないかとも思いました。
それでも、出展していた広告主さん達がそれぞれ頑張っているのを見て、僕も良い刺激になりました。
このブログのテーマからしても、正直、僕は売り込みや宣伝を上手にやることはできないかもしれません。
しかし、このブログに載せている広告は、僕なりに厳選したものなので、見て頂いている皆さんが選んで下されば僕の励みになり、今後より良いブログを長く続けていくことができるかなと、図々しくも思っておりますので、よろしくお願いします。
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横浜の地名由来、知ってますか?
実は、横浜に行くのはかなり久しぶりだったので、みなとみらい地区の変貌ぶりには本当に驚きました。
(→田舎者?)
そこで今回は横浜の歴史について語りたいと思います。
まず、横浜という地名ですが、このあたりは海岸の砂州が横に細長く伸びた地形だったのが由来と言われています。
あるいは、もっと単純に浜の横につくられた村だからという説もあります。
室町時代には既にこの地に「横浜村」がありました。
ちなみに、横浜という地名は青森県の下北半島にもありますね。
横浜が歴史の表舞台に登場するのは、安政五年(1858年)の日米修好通商条約の締結から始まります。
翌年、この条約により開港される予定だった神奈川は東海道五十三次の宿場町として既に栄えていたので開港による混乱を避けるため、当時まだひなびた小漁村であった隣りの横浜村を開港場としたのです。
横浜開港にあたり、外国商人のための外国人居留地を建設しました。
ここには運上所(後の税関)を設け、周囲を川で囲み、関門を作りました。
この関門の内側を関内と呼んだので今でも地名がありますね。(横浜スタジアムのあたり)
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生麦事件が新時代を拓いた!?
そして、幕末に横浜で起きた事件として有名なのが生麦事件です。
文久二年(1862年)、江戸から薩摩(鹿児島県)へ帰る途中だった薩摩藩主・島津久光の大名行列が生麦村(横浜市鶴見区)にさしかかった時、馬に乗ったイギリス人数名がこの行列を横切ったため、「無礼者!」と激高した薩摩藩士がイギリス人に刀で切り掛かり、一人が死亡、二人が負傷を負った事件。
江戸時代、大名行列に対して庶民は道端で土下座し、行列が過ぎ去るまで決して頭を上げてはいけないルールだったので、これを馬に乗って横切るなど無礼千万というワケだったのです。
そんな日本のルールなど知る由もないイギリスは、薩摩藩に対し事件の謝罪と賠償を求めたが、薩摩藩が全く応じなかったため、報復措置として翌年イギリスは軍艦で鹿児島を砲撃し、薩英戦争に発展しました。
しかし、イギリスの強大な武力の前に脅威を感じた薩摩藩は攘夷(外国を排除すること)思想を捨て、イギリスと手を結びます。
薩摩藩が方向転換したことにより、それまで敵対していた長州藩(山口県)との薩長同盟(1866年)が実現、両藩は討幕を果たし、新時代を切り拓きました。
ちなみに、この「生麦」という珍しい地名は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠(1月24日付ブログ参照)の行列がこの地を通る時、道がぬかるんでいて通行できなかったため、村人達が街道脇のまだ若い麦(=生麦)を刈って道に敷いたことで無事通ることができた。これに感謝した秀忠がこの地に生麦という地名を与えたことが由来です。
まとめ
- 「横浜」の由来は海岸の砂州が横に細長く伸びた地形から
- 「関内」の由来は外国人居留地にあった関門の内側から
- 「生麦事件」は幕末の横浜で起きたイギリス人殺傷事件で、これをきっかけに薩英戦争に発展し、やがて新時代を切り拓く一因となった
- 「生麦」の地名は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が命名した
余談ですが、横浜で有名な童謡『赤い靴』の歌詞で
♪赤い靴 履いてた 女の子〜 異人さんに連れられて行っちゃった〜
とありますが、僕は中学生まで異人さんをヒイ爺さんと勘違いしてました。(恥)
2019年07月26日
無念!佐々木朗希投手
甲子園まであと一歩・・・
昨日、高校野球岩手県大会決勝で、佐々木朗希投手擁する大船渡高校は花巻東高校に2-12のスコアで敗れました。
しかし、この試合では注目の佐々木投手が一球も投げなかったことで賛否両論が渦巻いています。
高校野球ファンの僕も「えっ、佐々木投げなかったの!?」と驚きましたが、大船渡高校の国保監督は前日の時点で「明日は登板させない」と佐々木君に言い渡していたらしいです。
これはとても難しく、勇気のいる決断だったと思う。
佐々木君の体のことを熟知している監督は、まだ成長途上である彼をここで酷使したら壊れてしまうことを危惧していました。
たとえ監督が「絶対に無理をするな」と念を押して登板させても、彼はチームメートのために(この試合に勝てれば肩が壊れてもいい!)という意気込みで限界まで勝負していたと思います。
監督にはそれがわかっていたから一球も投げさせなかったのでしょう。
もっとも、相手の花巻東も現役メジャーリーガーの菊池雄星や大谷翔平を輩出している全国レベルの強豪校なので、佐々木君が登板したからといって勝てたかどうかはわかりません。
でも、そういう強い相手だからこそ佐々木君も勝負したかったでしょう。
佐々木朗希投手は地元・大船渡出身で、8年前の東日本大震災の際に被災し、9歳で父親を亡くしました。
野球では中学時代に早くも注目が集まり、全国の強豪校からスカウトがありましたが、「震災の時に苦労を共にした仲間たちと野球がしたい」という本人の希望で大船渡高校に進学したそうです。
昨日の悔しさをバネに、佐々木君には次のステップで活躍することを願っています。
東北地方に多い佐々木姓
さて、佐々木朗希投手を話題にしたので、東北地方の佐々木姓について語りたいと思います。(かなり強引?)
実は、東北地方には佐々木姓が非常に多く、特に岩手県では2番目に多い苗字なのです。
岩手県の苗字ベスト5
- 佐藤
- 佐々木
- 高橋
- 千葉
- 菊池
岩手県以外でも青森や秋田で3位、宮城で4位の多さです。
有名人でも大魔神・佐々木主浩さん(宮城県出身)や、女優の佐々木希さん(秋田県出身)がいますね。
スカパー!
佐々木姓のルーツ
この佐々木姓は、平安時代、宇多天皇の流れをくむ宇多源氏が近江国(滋賀県)に住み近江源氏となり、居を構えた地名・佐々木を姓としたことから広まったとされます。
この近江源氏で有名なのが、鎌倉〜南北朝時代に活躍したばさら大名・佐々木道誉(どうよ)です。
ばさら大名とは、派手な衣装を着て人目をひき、伝統的権威を無視して傍若無人に振る舞う大名のことです。
まあ、今で例えるなら、ハマコーさんか小泉純一郎さん(衣装はハデじゃないけど)か、あるいはもっと単純にヤンキーってことで、どうよ?(笑)
この道誉の末裔には、戦国時代、足利義昭を奉じて上洛する織田信長に敵対した六角義賢(=佐々木承禎じょうてい)がいます。
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なぜ、東北地方に佐々木姓が多いのか?
これは、源頼朝(1月13日付ブログ参照)が文治五年(1189年)、東北一円を支配していた奥州藤原氏(9月3日付ブログ参照)を征討した際、従軍した佐々木氏が頼朝から奥州に領地を賜り、やがて東北各地に広がっていったものと思われます。
まとめ
- 「佐々木」姓は東北地方に多く、岩手県では2番目に多い苗字
- 歴史上有名なのは、ばさら大名・佐々木道誉
- 東北地方に佐々木が広まったのは、源頼朝による奥州征討後
やっぱり、高校野球から日本史に持っていくのは無理がありましたね・・・・。(反省)
2019年07月24日
カミナリ除けのおまじない
落雷の季節・・・
梅雨明け間近のこの時期になると多くなるのが雷雨。
天気予報では「発雷確率」を予想したり、ニュースなどでも突然の豪雨で川が氾濫したり、道路が冠水したりしている映像をよく見かけます。
近年は地球温暖化の影響で日本も亜熱帯化しつつあるようです。
そんなわけで、今回は日本のカミナリにまつわる人物について語りたいと思います。
菅原道真とは?
菅原道真をご存じの方は多いでしょう。
承和十二年(845)〜 延喜三年(903年)
”学問の神様”として全国の天満宮や天神社の祭神として有名ですね。
童謡「とおりゃんせ」の歌詞に
♪とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ (以下略)
とありますが、この天神様=菅原道真です。
しかし、道真は学問の神様として崇められる以前には雷神の化身として人々に恐れられる存在でした。
道真は学者の家系に生まれ、若い頃から頭脳明晰で官僚のエリートコースを歩み、着実に出世を重ね、学者の家柄としては異例とも言える右大臣にまで上り詰めた。
しかし、当時の朝廷は藤原氏が絶対的権力を握っていて、藤原氏による他氏排斥(ライバルを謀略で蹴落とす)が横行していた。
そして、藤原氏の次のターゲットにされてしまったのが道真だった。
時の左大臣・藤原時平は道真による謀反の罪をでっち上げ、道真は九州の大宰府に左遷されてしまい、失意のうちに左遷先の大宰府で死去してしまう。
家庭教師のがんば
”怨霊”と化す道真
道真の死後、都では落雷が多発し、多くの人が犠牲となり、その中には道真の左遷に関与した人物も何人か含まれていた。
さらに、道真左遷の首謀者である時平も39歳の若さで謎の病死を遂げてしまい、都の人々は(これは道真の怨霊による祟りに違いない)と恐れた。
そこで、道真の怨霊を鎮めるため、朝廷は京都の北野に北野神社(現在の北野天満宮)を祭り、道真を天神様と崇めたことでようやく都の災厄は治まったという。
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カミナリ除けのおまじないとは?
この当時、都の人々の間でまことしやかに囁かれたのは、(雷雲が近づいたらくわばら くわばらと唱えれば雷は落ちない)という噂でした。
これは、都における道真の旧領・桑原(現・中京区桑原町)に由来すると思われます。
つまり、(ここはあなた様(道真)の土地です。だから決して雷を落とさないで下さい)という意味が込められています。
また、もう一つ 雷神は桑の木が嫌いだから、桑の木には雷は落ちない という説もあります。
このことから、雷雨の中では桑の枝を頭に掲げて雷除けにするという習慣もありました。
まとめ
- 学問の神様・菅原道真は雷神の化身として恐れられていた
- 藤原氏の謀略により大宰府に左遷された道真は死後怨霊と化し、都に雷を落とした
- 都の人々は道真の旧領名「くわばら」を唱えることで落雷を避けようとした
今度、雷雨に遭遇した時は「くわばら くわばら」と唱えてみては?
2019年07月23日
エヴァンゲリオン × 日本史
はじめまして
プロフにも書きましたが、以前にツイッターをやっていました。
あれからずいぶんと時間が経ってしまいましたが(7〜8年?)、ようやくここまでこぎつけました。
しかし、このブログというものを書くのは初めてなので、正直、全く勝手がわかりません。
加えて、僕はアナログ人間なので、ブログを見栄え良く綺麗に作る技術もありません。
ですが、今後他の方のブログを参考にさせてもらったり、自分なりに試行錯誤しながら少しずつでも改良し、このブログを一人でも多くの方に見て頂くことができたらと思っています。
さて、このブログのコンセプトですが、日本史にあまり興味のない人にも読んで頂きたいという観点から
現代にも繫がる日本史
を基本テーマにしていきたいと思っていますが、そこだけにこだわっていてはアッという間にネタ切れになります。(笑)
なので、人物伝・事件簿・名言・記念日などにエピソードを織り交ぜ、日常生活の中でちょっとでも関連するものに出会ったら、つい話したくなることを語っていきたいと思います。
また、どのエピソードをどの順番で出したらいいか?
読んで下さっている方が何を求めているか?
など、まだ迷っていたりわからないことだらけの段階なので、皆さんからのアイデアやリクエストがあれば、ぜひ参考にさせて頂きたいと思っています。
ヤシマ作戦とは?
前置きが長くなりましたが、最初の投稿ということでお許し下さい。
さて、その記念すべき一発目にこともあろうにエヴァを持ってくるとは、我ながら大胆不敵というか・・・・ハッキリ言って完全に奇をてらっております。(笑)
それと同時に、(最初からこんなタイトルを付けてしまっては、この後竜頭蛇尾になる恐れが)と、ビビッてもおります。(汗)
この「ヤシマ作戦」とは、『新世紀エヴァンゲリオン』の第六話「決戦、第3新東京市」に登場する第5使徒ラミエル(=まあ、敵の怪獣みたいなものです)を迎撃するために、日本中の電力を一度に集約して、一撃で敵を仕留めるという作戦のことです。
この内容は後に作られたヱヴァンゲリヲン新劇場版:序でもメインになります。
この作戦は、ネルフ(=対使徒の作戦本部、ですかね)の作戦部長・葛城ミサトが提案したものです。
ヤシマ=八州=屋島
実は、このヤシマ作戦という名称には二つの日本史的意味合いが含まれているのです。
まず一つめに、(日本全土から電力を集約する)作戦であること。
この日本全土のことを古い呼名で「八州」といいます。
日本を八州と呼んだのは、日本列島が本州・九州・壱岐・対馬・隠岐・四国・淡路・佐渡の八つの島(=八州)から成り立っているという由来です。
もう一つは、(一撃で敵を仕留める)作戦であること。
これは源平合戦の一つである屋島の戦い(3月23日付ブログ参照)の中の「扇の的」というエピソードからきています。
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屋島の戦い
屋島の戦いとは、文治元年(1185年)2月19日讃岐国(香川県)屋島で行われた。
都落ちした平家を追って源義経軍と平家軍が海を挟んで対峙していたが、夕暮れ時になって平氏方から一艘の舟が現れた。
その舟には高貴な女性が乗っていて、女性は長い竿の先に挟んだ扇を舟の先端に立てた。
どうやら、「源氏方に我らを脅かすほどの兵(つわもの)はおるのか?もしおるというのなら、見事この扇を射抜いてみせよ、おほほほほ!」(笑)
と、挑発しているらしい。
これを見た義経は、弓の名手との呼び声が高かった那須与一(なすのよいち)を抜擢し、扇を射抜かせることにした。
しかし、もし一発で射抜けなかったら「源氏の兵は所詮その程度か?」と敵にあざ笑われ、味方の士気にも関わる。
”絶対に外すことはできない”
とてつもないプレッシャーが掛かる中、与一は見事一発で扇を射抜いてみせた!
これをきっかけに源氏方は一気に士気が上がり、平氏方は恐れ慄き、さらに西国へと敗走していった。
まとめ
- ヤシマ=八州(日本列島の古い呼称)→日本中から電力を集約した
- ヤシマ=屋島(屋島の戦い)→「扇の的」一撃で戦いの勝敗を決する
この二つの意味を兼ねて「ヤシマ作戦」と命名するとは、葛城ミサトもなかなかの日本史ツウと言えますね。
・・・・こらぁ、やっぱり竜頭蛇尾になりそうだなぁ。(泣)