2020年05月01日
源平合戦にまつわる義経の伝説的エピソード
枚挙に暇がない義経伝説
このブログでは源義経について過去に何回か語りましたが、義経は文治五年(1189年)閏4月30日、藤原泰衡に攻められて衣川で自害しています。
つまり、昨日が命日ということになります。
その後、義経の首が鎌倉に運ばれたのがちょうど梅雨〜夏にかかる時期だったため、腐食が激しく顔の判別が難しかったことから、義経は衣川で死なず生き延びたという「義経北行伝説」を以前に紹介しました。(11月11日付ブログ参照)
この北行伝説でもわかるように、日本人には“判官びいき”の感情があるため、悲劇のヒーロー義経には様々な伝説が語り継がれています。
「義経北行伝説」は(もし義経が衣川で死んでなかったら?)という仮定で創作された要素が多分にあるのですが、生きている間にも数々の伝説が存在します。
義経の家来だった弁慶(11月13日付ブログ参照)でも紹介しましたが、五条大橋における弁慶との出会い、安宅関での勧進帳などもそうですね。
義経は“戦の天才”として有名ですが、天才と呼ばれる所以は合戦の最中にも伝説を残していることもその理由の一つといえるでしょう。
というわけで、今回は源平合戦における義経伝説について語りたいと思います。
「逆櫓」の論争 (屋島の戦い)
文治元年(1185年)2月、義経は平氏追討のため、讃岐(香川県)の屋島に向かうことになりました。
しかし、おりからの暴風雨により船での出航は困難を極め、軍議が開かれることになりました。
この軍議の席で、鎌倉の頼朝の命令によって義経軍に派遣された梶原景時と義経の間で起きたのが「逆櫓」(さかろ)を巡る論争です。
景時は荒天時での海上戦を想定し「船に逆櫓を付けてみてはどうか?」と義経に提案します。
その理由について尋ねられると景時は「騎馬なら進むも戻るも手綱一つで自由に動かせるが、船の場合そうはいかない。しかし、船の前後に逆櫓を取り付ければ方向転換がしやすくなる」と説明しました。
これを聞いた義経は
「最初から逃げることを考えてどうする?戦というのは引くことを考えるべきではない」
と反対しました。
すると景時は「優れた大将は進むべきところは進み、引くべきところは引くもの。ただがむしゃらに進むことだけを考えるのでは猪武者にも劣る」と、義経を諫めます。
しかし、義経は
「猪など動物のことは知らぬが、戦はひたすら攻めて勝ってこそ、真に敵をねじ伏せられるというものだ!」
と、今にも太刀を抜かんばかりに凄み、一歩も引かなかったのです。
義経は景時の提案を無視して強行軍で船を進め、通常なら3日かかるところをわずか6時間ほどで四国に上陸することに成功しました。
一方、この論争で面子を潰された景時は、義経の無謀な行動を頼朝に告げ口し、これ以後頼朝は義経に対して不信感を抱くようになったといわれています。
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「弓流し」 (屋島の戦い)
文治元年(1185年)2月に行なわれた屋島の戦いにおけるハイライトは、やはり那須与一による“扇の的”の逸話ですね。(7月23日付ブログ参照)
屋島の戦いでは、扇の的の他にも義経にまつわるエピソードがあります。
義経は騎馬で海に入って戦っている最中、誤って弓を落としてしまいます。
すると義経は周りにいた家臣たちが止めるのも聞かず、敵に討たれそうになりながら馬上で前屈みになり必死に腕を伸ばして弓を拾ったのです。
その後本陣に戻ると、家臣たちに「なぜ弓くらいのことで、命の危険を顧みず無謀な真似をしたのですか?」と問い詰められました。
これに対し義経は
「弓が惜しかったのではない。あれが叔父・源為朝(4月3日付ブログ参照)の剛弓ならば、わざと落としてでも敵に拾わせて誇るだろう。だが、自分の弱い弓が敵の手に渡って『これが敵の大将の弓か』とあざ笑われるくらいなら、命に代えても取り戻す」
と答えたのです。
家臣たちは(大将たるものはかくあるべき)と、義経の心意気に感動したといいます。
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「八艘飛び」 (壇ノ浦の戦い)
文治元年(1185年)3月、源平合戦のクライマックスとなったのが壇ノ浦の戦いです。(3月23日付ブログ参照)
戦場となったのは本州と九州の間を流れる関門海峡で、潮流の激しい中での船上の戦いでした。
戦いの前半は平氏方が優勢でしたが、午後になり潮目が変わると形勢は逆転、平氏方は次第に追い詰められていきます。
夕方になり平氏方の敗北が決定的になると、平家随一の猛将・平教経(のりつね)は「かくなる上は敵の大将と組み討ちして死に花を咲かせようぞ!」と覚悟を決め、義経の船に乗り移ってきたのです。
教経は義経を見つけると「我を生け捕りにしてみよ!そうなれば鎌倉へ下り頼朝に一言物申す!」と叫び勝負を挑みます。
義経は不慣れな船上での組み討ちは不利と考え、船の後方へ退きます。
しかし、なおも追ってくる教経を見た義経は思い切って船端を蹴り上げると驚異的な跳躍をみせ、二丈(約6b)先の自軍の船に飛び移ったのです。
これが世に言う義経の「八艘飛び」(はっそうとび)です。
八艘飛びをみせる義経像
この神業とも思える義経の跳躍を見せられた教経はとうとう追撃を諦め、もはやこれまでと最後に源氏の武者二人を両脇に抱え込んだまま海に飛び込みました。
しかしながら、八艘もの船に次々飛び移ったというのはさすがに出来過ぎた話で、実際に義経が飛び移ったとされるのは一艘だけです。
さらに言えば、不安定な足場の船上で甲冑を付けたまま一気に6bもの跳躍が可能だったかを考察すると・・・・多少の誇張はあったかもしれませんね。
まとめ
- 「逆櫓」の論争とは、義経と梶原景時による戦いに臨む姿勢についての激しい口論
- 「弓流し」とは、自らの弓を敵に奪われることを恥じた義経のプライドを示した行動
- 「八艘飛び」とは、敵に追われた義経が船上でみせた驚異的なジャンプ
「八艘飛び」は相撲の戦法の一つにもなっており、昔でいえば舞の海などの小柄な力士が稀に使う技ですね。
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