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2020年01月29日

これぞ内助の功! 戦国武将を支えた妻たち

“縁の下の力持ち” だけではない妻の存在感

雪が降った昨日の寒さから一転して今日はびっくりするほど暖かかったですね。

普段の冬の服装では暑いくらいでした。

何しろ今日は4月上旬〜中旬くらいの気温だったとか。

九州では道路が冠水するほどの大雨が降るなど、夏ならともかく今の時期としてはちょっと考えられない異常気象ですね。

僕個人としては、寒さが苦手で冬が好きではないので、暖冬のままいつの間にか春になってくれたら理想的です。(笑)


さて、今日は戦国武将を陰で支えた女性たちを紹介します。

10月16日付のブログでも帰蝶(織田信長の妻)、松(前田利家の妻)、玉(細川忠興の妻)の名言について語りましたが、今回紹介するのは夫を歴史の表舞台に引き上げた女性たちです。

今でも良妻賢母な女性を妻に持つ夫が出世すると“内助の功”などと表現されますが、戦国時代は男尊女卑が酷く、政略結婚が横行するなど女性が「道具」のように扱われていた時代でした。

なので、女性の活躍や努力も軽視され、女性が表舞台に現れることはほとんどありませんでした。

そんな時代にあって、夫の出世に多大な貢献をしたと評価されている女性は並大抵ではないと思われます。

というわけで、今回は内助の功の代表とも言える戦国武将の妻について語りたいと思います。

自らの身を削って夫の面子を立てる

煕子(ひろこ 明智光秀の妻)


美濃(岐阜県)の豪族・妻木範煕の娘であった煕子は、光秀と婚約した後に疱瘡(天然痘)を患い、完治後もその痕が全身に残ってしまいました。

これが理由で破談になることを恐れた範煕は、煕子とそっくりな妹を煕子と偽り光秀の元に送りました。

しかし、光秀はこれを見破り、

「たとえ見た目が変わろうとも、私が妻として迎えるのは煕子だけです」

と宣言し、改めて煕子を迎えたといいます。

その後、光秀が仕えていた斎藤道三が息子の義龍に討たれてしまったため、光秀は浪人となり諸国を放浪した後、越前(福井県)の朝倉氏に仕えることになりました。

当時、朝倉家では家臣たちが月に一回持ち回りで会合を開き、回ってきた家では客人たちをもてなすのが恒例行事でした。

やがて光秀の順番が回ってきましたが、当時は日々の暮らしにも困窮するほど貧しく、とても客人をもてなす余裕などありませんでした。

困り果てた光秀が妻に相談すると、煕子は「わかりました。私にお任せ下さい」と快く引き受けました。

会合の当日、煕子は立派な御馳走や酒を用意してもてなし、客人たちはみな満足して帰りました。

客人たちが帰った後、光秀が今回の費用はどうしたのかと妻に尋ねると、煕子は頭にかぶっていた頭巾を取り、自らの髪を売って資金を調達したことを告白しました。

妻の献身に感激した光秀は「俺は必ず出世してこの恩に報いる。そして側室(正妻以外の妻)など一生持たない」と誓いました。

事実、光秀は戦国武将としては珍しく側室を持つことはなく、生涯煕子を大切にしたといいます。

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夫の“ここ一番!” を心得ていた妻

千代(ちよ 山内一豊の妻)


一豊が織田信長に仕えて間もない頃、安土の城下に馬商人が「東国一の名馬」という触れ込みで10両もする高額な馬を売りに来ました。

一豊にも一目でわかるほど素晴らしい名馬でした。

しかし、当時500石取りしかない貧しい武将だった一豊にとって10両はとんでもない大金であり、とても買うことはできませんでした。

残念に思いながら家に帰って妻にこのことを話すと、なんと千代は黙って10両を夫に差し出したのです。

驚く夫に千代は

「このお金は私が嫁ぐ時、“この金は夫の一大事の時に使いなさい” と両親から渡されたものです。今こそその時だと思うので、ぜひその名馬をお買い下さい」

と答えました。

さっそく一豊はそのお金で名馬を買いました。
千代.jpg
千代と名馬の像

そうして間もなく、信長は京都で盛大な馬揃え(閲兵式、軍事パレード)を開催し、一豊も例の名馬に乗って参加しました。

たくさんいた名馬の中でも一豊の馬は一際目立つ存在で、信長の目にも止まりました。

一豊の身の上を知った信長は

「貧しい身でありながら、これほどの名馬を求めるとは武士の誉、天晴れである」

と、一豊を褒め称え、その場で一豊に1000石を加増したのです。

これによりきっかけを掴んだ一豊は、やがて土佐(高知県)一国を支配するほどの大名にまで出世しました。

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“ダメ夫” を支えて名門を復活させた妻

(はつ 京極高次の妻)


初は「浅井三姉妹」の次女で、織田信長の姪にあたる女性です。

姉の茶々が豊臣秀吉の側室(後の淀殿)、妹のが二代将軍・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)の正室という大きな権力者の妻になったのに対し、初が嫁いだ京極高次は地味な存在でした。

高次の京極家は室町幕府の中でも「四職」に任命されていたほどの名門でしたが、戦国時代の下剋上の波に呑まれ既に落ちぶれていました。

それにも増して、この高次という男は「ダメ男」と言われても仕方ない人物だったのです。

高次は、本能寺の変では明智光秀に味方し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側、さらに関ヶ原では最初西軍についた揚句に東軍に寝返っているのです。

つまり、ことごとく負け組を選んでしまい、よくもまぁここまでと呆れるほど優柔不断で先見性のない男だったのです。

そんなダメ男を支えたのが妻の初でした。

いくら京極家がもともと名門だったといっても弱肉強食の戦国時代にそんなことは関係なく、室町時代に名門といわれた名家の多くは滅びています。

普通なら一度でも負け組についてしまった時点で即滅んでも不思議ではない時代です。

しかし、高次が何度も救われ、さらに名門復活といえるほどの出世ができたのは、初が天下人・秀吉の寵愛を受けていた姉の茶々に事あるごとに働きかけていたからといわれています。

高次が秀吉に目を掛けられていたのは、実姉が秀吉の側室(松の丸殿)になっていたこともありますが、やはり妻である初の存在は大きかったでしょう。

徳川の時代になっても、初の妹が二代将軍の正室だったことから、高次は幕府から破格の厚遇を受けました。



まとめ

  • 明智光秀の妻・煕子は自らの髪を売ったお金で客人をもてなし、光秀の面子を保った

  • 山内一豊は妻・千代が与えてくれたお金で名馬を買い、このことで出世の糸口を掴んだ

  • 京極高次は妻・初の支えで名門の京極家を復活させることができた


光秀の妻のエピソードは大河ドラマのネタバレになるかも?(笑)
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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