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2020年03月06日

家康も舌を巻いた!? 命懸けのいい話

徳川家にまつわる人物エピソード

徳川家康4月17日付ブログ参照)は常日頃から「我が宝は家臣」と語るほど家臣を大事にしていました。

家臣たちの忠誠心の高さに感謝する家康の気持ちがそう言わしめたのでしょう。

三河武士を中心とする家康の家臣は主君に対する忠誠心が高い他にも、律義でまっすぐな性格の者が多いという特徴があります。

それは時として、忠誠心をも超えてしまうほど度が過ぎる場合があるのです。

つまり、主君に対する忠誠心を曲げてでも守ろうとする自分の生き方を貫くということです。

何よりも自分のポリシーを一番大事にするのでは、主君に対する忠誠心を疑われてしまうかもしれません。

しかし、そういう純粋でまっすぐな精神を愛した家康の器の大きさもまた、家臣たちを惹きつける相乗効果があったのではないでしょうか。

というわけで、今回は家康の家臣にまつわる“ちょっといい話”について語りたいと思います。

自分の手柄より敵との約束を守る

藤堂仁右衛門 天正五年(1577年)〜 慶長二十年(1615年)※改元前


仁右衛門は本名を高刑(たかのり)といい、藤堂高虎の甥で徳川家に仕える武将でした。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)の時、仁右衛門は叔父の高虎と共に東軍として戦いました。

仁右衛門は戦いの最中、主戦場から離れたところに一人の西軍武将を見つけました。

その武将は西軍の主力であった大谷吉継の家臣・湯浅五助だったので、好機とばかりに勝負を挑みました。

この時、五助は負傷しながらも自害したばかりの主君・吉継の首を埋めているところだったのです。

五助は

「らい病(ハンセン病)に侵された主君の首を敵に晒したくないので、もしこのことを黙っていてくれたら、喜んで私の首を差し上げよう」

と仁右衛門に懇願しました。

仁右衛門はこれを承知し、約束した上で五助と戦い首を取りました。

戦後、自害した吉継の遺体が見つからなかったので、家康は五助の首を取った仁右衛門に尋ねました。

すると仁右衛門は

「拙者、吉継殿の首のありかは存じておりますが、五助と約束を交わした故、たとえ殿であっても教えることはできません」

といい、決して口を割らなかったのです。

これを聞いて怒った家康は「吉継の首のありかを教えないのならば、お前の首を斬ることになるぞ!」と脅しましたが、仁右衛門は「どうぞ御成敗下さい」と全く動じません。

首のありかを教えれば大きな手柄になるにも関わらず、死んだ敵将との約束を頑なに守ろうとする仁右衛門に感心した家康は、秘蔵の槍を仁右衛門に与えたといいます。

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家臣を庇って大名の座を捨てた男

天野康景 天文六年(1537年)〜 慶長十八年(1613年)


康景は家康の幼少時代から仕えていた武将で、家康が今川家に人質に取られていた時にも行動を共にしました。

コ川幕府が開かれて間もない頃、康景は駿河(静岡県中部)の興国寺に一万石の所領を与えられた大名でした。

ある時、城普請の材料として蓄えていた竹が付近の農民たちに強奪される事件が起きました。

康景の家臣はこの最中、竹が強奪されるのを防ぐため、やむなく農民の一人を斬ってしまいます

この時、農民が斬り殺されてしまったことを問題視した家康は、側近の本多正純を通して康景に斬った下手人を引き渡すよう命じました。

しかし、康景は

「城の大切な材料を守ろうとした家臣に罪はない。罪があるとすれば、それを命じた私にある。なので家臣を引き渡すことはできない」

と拒否しました。

すると正純は「これは大殿(家康)の命令である。大殿の命令が絶対であることはそなたもよく存じておろう」と説得しました。

それでも康景は

「たとえ大殿の命令であっても家臣を引き渡すことはできない。大殿の命令が絶対であるというのなら、私が大殿の家来を辞するまでのこと」

と言い放ち、なんと所領を放棄して浪人になってしまったのです。

自ら大名の座を捨ててまで家臣を庇った康景を惜しんだ家康は康景の死後、康景の子を再び徳川家に取り立てるよう計らったといいます。

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コ川の武名を守った“命懸けの嘘”

大久保彦左衛門 永禄三年(1560年)〜 寛永16年(1639年)
大久保彦左衛門 (1).jpg

彦左衛門は本名を忠教(ただたか)といい、徳川家中においても“天下のご意見番”として主君・家康にもしばしば諫言した剛直な三河武士として知られています。

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣がいよいよ佳境に入った時、家康は豊臣方の真田幸村5月6日付ブログ参照)の決死の猛攻に遭い、やむなく本陣の一時退却を余儀なくされました。

この時、幸村軍によって家康本陣の旗が倒されてしまったのです。(5月8日付ブログ参照

合戦において、総大将の旗が敵に倒されることは武将にとって負けにも等しいかなり屈辱的なことでした。

その後、幸村軍の猛攻を何とか凌ぎ本陣に戻った家康ですが、旗が倒されたことを問題視し、本陣を守っていた者を責めました。

ところが、彦左衛門は

「御旗は一度として倒されておりません」

と言ったのです。

家康が「わしはこの目で見たのだ!」と言っても彦左衛門は譲らず、家康との押し問答が続きました。

ついに家康は「あくまで嘘を申すのなら、お前を斬る!」と凄みましたが、彦左衛門は「私の申し上げたことが信じられないというのなら、どうぞお斬り捨て下さい」と、最後まで折れませんでした。

彦左衛門は徳川家の名誉を守るため、命を懸けて最後まで嘘をつき通したのです。

家康は怒りながらもその気持ちを感じ取っていたので、嘘と知りつつ結局彦左衛門を処罰しませんでした。

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まとめ

  • 藤堂仁右衛門は自分の手柄よりも死んだ敵将との約束を守った

  • 天野康景は罪を犯した家臣を庇って大名の座を捨てた

  • 大久保彦左衛門は徳川の名誉を守るため、命懸けで主君家康に嘘をつき通した


ここまで徹底して自らの信念を貫き通す彼らには、不器用ながらも男の生き様を見せつけられた思いがしますね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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