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2020年05月11日

秀頼は大坂で死なず? 秀頼生存説に迫る!

豊臣家殲滅に執念を燃やす家康

前回のブログでは「大坂夏の陣」というタイトルながら、真田幸村を中心に語ったので豊臣家滅亡については触れませんでした。

徳川家康4月17日付ブログ参照)は関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)の勝利によって実質的には天下を取りましたが、五大老として「豊臣家の家臣」という立場を否定したわけではありません。

ですから家康は、関ヶ原についても表向きは(秀頼公をたぶらかす佞臣・石田三成を討つ)という大義名分で戦ったとしています。

とは言うものの、世間的には誰の目にも家康は既に天下人として映っていました。

しかし、家康自身はまだ決して安泰だとは思っていませんでした

なぜなら、秀吉の死後、家康自らが天下取りへの野望を顕わにしたのと同様に、自分の死後、豊臣恩顧の大名が秀頼を担ぎ上げて徳川政権に反旗を翻すかもしれないと考えていたからです。

家康はそれを阻止するため、自分が生きているうちに何としても豊臣家を滅ぼしておく必要があったのです。

というわけで、今回は大坂夏の陣における豊臣秀頼と、“その後”について語りたいと思います。

豊臣家の最期

慶長二十年(1615年)5月8日、前日に真田幸村も討死し、いよいよ追い詰められたのが大坂城の豊臣秀頼とその母・淀殿でした。
豊臣秀頼.jpg
 豊臣秀頼

二人は徳川軍の攻撃で炎上した大坂城本丸を離れ、本丸北側の山里曲輪に逃れていました。

その間、秀頼の側近・大野治長は、秀頼の妻で徳川秀忠の娘である千姫2月5日付ブログ参照)を逃がして秀忠のもとへ送ることで、秀頼と淀殿の助命に一縷の望みを懸けたのです。

しかし、あくまで豊臣家殲滅を目指す家康はこれを許さず、山里曲輪の攻撃を命じました。

最後の望みを絶たれた秀頼と淀殿はついに自害して果てたのです。

燃え盛る大坂城と共に、豊臣家はここに滅亡しました。

その後、大坂城を脱出した秀頼の遺児・国松丸も間もなく捕えられ、京の六条河原において処刑されました。

国松丸はこの時わずか8歳でした。

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鹿児島に落ち延びた秀頼 !?

このようにして大坂夏の陣は終わり豊臣家は滅亡したのですが、なんと自害したはずの秀頼には生存説があるのです。

生存説の根拠となったのが、秀頼が亡くなった時の状況です。

秀頼は山里曲輪で自害したのですが、その後徳川軍の攻撃で山里曲輪が炎上したため、中にあった焼死体のどれが秀頼のものか判別できなかったのです。

このことから、巷では“秀頼は落城のどさくさに紛れて脱出した”との噂がまことしやかに囁かれました。

長崎の平戸にある東インド会社の商館長だったリチャード・コックスも、当時の日記に「秀頼は生きているという噂がある」と記しています。

これらの噂を裏付けるかのように、この頃京や大坂では

「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたよ鹿児島へ」

という童謡が流行ったといわれています。

実際、鹿児島市内には秀頼の墓が存在し、秀頼にまつわる伝承なども数多く語り継がれているのです。

また、平戸藩主だった松浦静山(まつら せいざん)の著した『甲子夜話』によると、「大坂夏の陣の後、一人の浪人が鹿児島にやってきたが、いつも大酒を飲んでは暴れるので周囲の人々を困らせていた」という話あります。

実はこの人物こそ秀頼であるらしいと、地元ではもっぱらの噂になったといわれています。

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天草四郎は秀頼の子だった !?

秀頼生存説にはさらなる続きがあります。

寛永十四年(1637年)に起きたキリシタン最大の反乱・島原の乱10月25日付ブログ参照)で一揆方の総大将となった天草四郎が、実は秀頼の子だったというものです。

秀頼は鹿児島に逃れた後、地元の娘との間に子ができて、その子は「豊臣秀綱」と命名され、その後天草地方に渡ってキリシタンになったとされています。

しかも、天草四郎が秀頼の子だとする証拠もあるといいます。

それは、戦いの時に総大将が掲げる「馬印」です。

天草四郎は島原の乱の時、“千成瓢箪”(せんなりびょうたん)の馬印を掲げていたといわれています。

この千成瓢箪は秀頼の父である秀吉が使用していた馬印として有名であることから、天草四郎が豊臣家と深く関わりのある人物だと推測されるのです。

もし、天草四郎が秀頼の子だとすれば、島原の乱にも新たな見解が生まれることになります。

それは、島原の乱鎮圧に老中の松平信綱が派遣されたことです。

九州地方の農民反乱のために、幕府の中核である老中がわざわざ江戸から乗り出すのは異例のことです。

これはつまり、徳川幕府の威信に懸けて、豊臣家の末裔である天草四郎を確実に滅ぼさなければならなかったからではないでしょうか?

こう考えると、島原の乱は大坂の陣の続きだったと言えなくもないですね。

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まとめ

  • 徳川家康は自分の死後に豊臣家が反旗を翻すことを案じて、生きているうちに豊臣家を滅ぼした

  • 豊臣秀頼は死後にその遺体が判別できなかったため、生きて鹿児島に落ち延びたという説がある

  • 島原の乱の総大将・天草四郎は鹿児島に落ち延びた秀頼の子だという説もある


秀頼もそうですが、源義経にしても織田信長にしても、死後に遺体が発見されない、あるいは判別できないと、生存説が囁かれるものですね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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