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2020年03月02日

なぜ秀吉は利休を切腹させたのか?

多くを語らないまま切腹した利休

前回のブログでは利休が確立した「侘び茶」の精神と豊臣秀吉との信頼関係について語りました。

利休と秀吉は茶の湯を通じて信頼関係を築いたものの、あくまで簡素・閑寂を旨とする侘び茶を尊ぶ利休とは対照的に、茶道においても豪華絢爛な華やかさを好む秀吉の考え方には根本的に大きな隔たりがありました。

こうした考え方の違いが、やがて両者の間に確執を生むことになったのかもしれません。

天正十九年(1591年)2月、利休は秀吉の勘気に触れたとして突如堺へ追放処分となり、その後切腹を命じられます。

この時、利休の身を案じた五大老の一人・前田利家が「大政所(秀吉の母)か北政所(秀吉の正室)に助命をお願いすれば許される」と利休に話しました。

しかし、利休は

「茶匠として天下に名の通った私が、命が惜しいからといって女に頭を下げられようか?」

と言って利家の申し出を断ったのです。

当初、秀吉が利休に命じたのは「謹慎処分」だったのですが、いつまで経っても詫びる気のない利休に秀吉は業を煮やし、ついに京都に帰還させて切腹を命じたといいます。

秀吉があれほどの信頼関係にあった利休を切腹させた理由とは一体何でしょうか?

というわけで、今回は利休切腹の謎について語りたいと思います。

1.利休の娘を秀吉に差し出すことに応じなかったため

秀吉は女好きとして有名だったので、これは有力な説の一つとされています。

ある時、鷹狩りに出掛けた秀吉は、たまたま利休の娘・お吟を見かけ、その美しさを見初めて自分の側室になることを要請しました。

しかし、お吟はこの要請に困惑し、利休も「自分の娘を差し出したから秀吉に認められたとは思われたくない」と秀吉の申し出を頑なに拒否しました。

やがて、秀吉の度重なる圧力に耐えかねたお吟はとうとう自害してしまったのです。

秀吉は、お吟が自らの命を絶ってまで自分を拒んだこと、さらに利休も「拒む娘を秀吉の側室に差し出すくらいなら自分は死んでも構わない」と話したことに激しい怒りを覚えたといいます。

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2.茶道具を法外な高値で不正に取り引きしたため

利休が秀吉の茶頭という立場を利用して茶道具を不当な高値で売りつけたり、不正に鑑定していた罪を咎められたからとする説です。

秀吉に仕えてからの利休は天皇にも認められ、「天下一の茶匠」と呼ばれるほど茶道において高い権威を誇っていました。

その上、商人でもある利休が茶器の鑑定や売買などに与える影響は絶大だったと言われています。

つまり、どんな茶器であろうと利休が一言褒めれば、その価値はたちまち跳ね上がってしまうのです。

ここに目を付けた茶道具を扱う商人が、茶道具の売買において利休にワイロを渡して茶道具に高値を付けさせ、不正な取り引きをしたといいます。

そして利休はこうした行為を重ねることで莫大な利益を得たというのです。

しかし、何事にも質素を好み「侘び茶」の神髄を追及した利休が、欲に目が眩んで茶道を汚すような不正行為に及んだとはちょっと考えられません。

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3.利休が大徳寺の山門に自らの木像を設置したため

一般的に最も有力とされているのがこの説です。

天正十七年(1589年)、京都の大徳寺が寺の改修工事を行なった際、利休は私財を投じてこの改修に協力しました。

この時、雪駄履きで杖を突いている利休の木像を大徳寺の大きな山門に設置したのです。
利休木像.jpg

当然、ここを訪れる人は山門の下を通って境内に入ることになります。

大徳寺は朝廷の人々さえも訪れる格式の高い寺院だったので、山門に木像を設置するということは、ここを訪れる天皇や秀吉の頭を木像の足で踏みつけるに等しい不敬極まりない行為とされてしまったのです。

木像の設置を知った秀吉は、「利休が自らの威光を振りかざす思い上がった行為だ!」と激怒しました。

しかし、木像の設置は利休自らの意志でやったことではないのです。

大徳寺の山門を作る費用の多くを利休が負担してくれたので、これに感謝した大徳寺の僧侶が利休の木像を作り山門に奉納したというのが真相です。

秀吉は利休の木像を市中引き回しにした後、この木像に切腹後の利休の首を踏ませる形で京都の一条戻橋に晒したのです。

この残酷な晒し方にも秀吉の怒りの激しさが表れていますね。



まとめ 利休切腹の理由

  • 娘を秀吉の側室に差し出すことを利休が拒んだため

  • 利休が自らの立場を利用して茶道具の売買に不正を働いたため

  • 大徳寺の山門に利休の木像を設置して訪れた天皇や秀吉に侮辱を与えたため


その他にも秀吉側近の石田三成による陰謀説などが囁かれていますが、これはあくまで噂の域を出ず、確証はありません。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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