2020年02月28日
天下一の茶匠 千利休
新型コロナウイルス感染拡大の波紋
ここにきて新型コロナウイルス感染拡大の影響がいよいよ深刻化してきましたね。
各種イベントの自粛要請に続き、来週から全国の学校を一斉休校にすることを政府が正式に要請しました。
僕も先週までは「そんなオーバーに騒がなくても、激混みの屋内施設にさえ行かなければ大丈夫だろ」くらいに楽観視していたのですが、ウイルスの感染力が予想以上に強く、感染の拡散も急速に進んでいる現状をみて、さすがに他人事とは思えなくなりました。
中国経済もかなりのマヒ状態にあることから、中国からの製品や部品の輸入を必要とする多くの日本企業の打撃も深刻です。
この状態が続けば、食糧品を含む生活必需品の生産流通まで滞ってしまい、日本経済全体にも大打撃を与えかねません。
僕は昨夜のニュースを見ていて、このままでは9年前の東日本大震災直後に近い状態になるのではないかとゾッとしました。
感染の拡大防止には国の強制力も必要ですが、一番大切なのは我々一人ひとりが「どうすれば感染を防ぐことができるか?」を常に自覚しながら行動することではないでしょうか。
さて、今日2月28日は安土桃山時代に活躍した茶人・千利休が亡くなった日です。(天正十九年 1591年)
千利休は言わずと知れた茶道の第一人者であり、侘び茶を大成させ、今井宗久・津田宗及とともに茶の湯の天下三宗匠と称せられる人物です。
利休の茶道を求めて蒲生氏郷(2月7日付ブログ参照)、細川忠興、古田織部なども利休の弟子となり、彼らは「利休七哲(七高弟)」と呼ばれました。
織田信長、豊臣秀吉をはじめ多くの人々を魅了した、利休の“茶の精神”とはいかなるものだったのでしょうか?
というわけで、今回は千利休について語りたいと思います。
利休が学んだ茶道の原点
千利休 大永二年(1522年)〜 天正十九年(1591年)
利休は和泉(大阪府)堺の商人の家に生まれます。幼名は与四郎。
与四郎の家は「納屋衆」といい、納屋とは倉庫のことで、主に魚を納める魚問屋を生業としていました。
17歳で同じく堺に住む茶人・武野紹鷗に師事して茶の湯を学び始めます。
利休が茶の湯を確立する以前、室町時代の茶道には東山流と奈良流の二つの流派がありました。
東山流は書院造りの茶室で豪華な茶道具を使用して茶を点(た)てる、奈良流は茶の湯を人の生き方ととらえ、地味で脱俗性の強い茶を点てるという考え方でした。
奈良流は茶の湯の開祖といわれる村田珠光に始まり、珠光は茶道に「わび・さび」の文化を取り入れた「侘び茶」を創出した人物です。
この珠光の精神を受け継ぎ、侘び茶をさらに簡素化させたのが紹鷗でした。
紹鷗に学んだことで与四郎の茶道センスが開花し、名を宗易(そうえき)と改めます。
宗易は幾多の茶会を開き、茶人としての名声を広げていきました。
やがて今井宗久の紹介で織田信長と出会い、信長に茶道の腕を認められ信長の茶頭となります。
茶頭とは、大名が客人を接待する時に茶を点てて奉仕する重要な役目です。
信長は自分の仲間に組み込みたい人物を茶会に招いて所持する名物茶器を披露することで、自らの権勢を誇示しました。
信長は戦功を上げた家臣に恩賞として名物茶器を与えましたが、茶道具を褒賞としたのは信長が初めてだったので、信長はその後に起こった“茶の湯ブーム”の火付け役と言ってもいいでしょう。
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運命を変えた天下人との出会い
信長が本能寺で倒れると、宗易は信長の跡を継いだ豊臣秀吉に仕えました。
秀吉も信長同様、茶の湯を利用して自らの権威を高めようと考えていたので、宗易の存在が必要不可欠だったのです。
天正十三年(1585年)秀吉は正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶の湯を献上する禁裏御茶湯(きんりおんちゃのゆ)を宮中で開催、この時に宗易は正親町天皇から「利休」の称号を贈られました。
天正十五年(1587年)秀吉は京都の北野天満宮において、公家から町人、百姓まで貧富や身分の別なく多くの人が参加できる大規模で開放的な茶会を開催(北野大茶会)し、この茶会を取り仕切った利休の名は全国に広まりました。
その後も秀吉はますます茶の湯に熱心になり、年中行事は勿論、長期にわたる合戦の途中にも茶会を開き、それを利休に取り仕切らせたので、利休の活躍は茶の湯の枠を超え政治の領域にまで拡大しました。
利休は茶会や茶道具の仲介で培った人脈を活かし、諸大名と秀吉の取次ぎ役も請け負うようになります。
秀吉がいかに利休を信頼していたかがわかる話として
「内々の儀は利休に、公事の儀は秀長(秀吉の弟)に申されよ」
と、上洛した豊後(大分県)の大友宗麟に語っていたことからもよく窺えます。
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“侘び茶” のポリシーとは?
利休は自らが完成させた侘び茶について
「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたててのむばかりなることと知るべし」
と語っています。
つまり、余計なものをすべて排除した、いわば”究極の茶道”が「侘び茶」であると考えていました。
利休がデザインした茶室として有名な妙喜庵待庵はわずか2畳しかない簡素な茶室ですが、侘び茶の精神を具現化した究極の茶室といわれています。
ある時、利休の住む屋敷の庭にたくさんのアサガオの花が咲いたことがありました。
当時のアサガオはまだ珍しい花だったので、秀吉はアサガオ見たさに利休の屋敷で茶会を開くことを命じます。
当日、秀吉が利休の屋敷を訪れると、庭にアサガオの花は一つもなく、茶室の花瓶に一輪だけアサガオが生けられていました。
利休は庭のアサガオをすべて刈り取りることで、一輪のアサガオの美しさを演出したのです。
こういった利休独特の演出も、余計なものを排除する「侘び茶」精神の表れといえるでしょう。
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まとめ
- 堺の商人の家に生まれた千利休は武野紹鷗に茶の湯を学び、やがて織田信長の茶頭となる
- 信長の死後に仕えた豊臣秀吉に利休は大きな信頼を得ることとなり、茶道だけでなく政治の面でも秀吉の片腕として活躍した
- 利休が完成させた「侘び茶」とは、余計なものをすべて排除した究極の茶道
次回は大きな謎とされている利休の死の真相について語りますのでご期待下さい!
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