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2020年02月07日

信長も一目惚れした大器 蒲生氏郷

信長や秀吉が絶賛した男

今日2月7日は戦国武将・蒲生氏郷が亡くなった日です。(文禄四年 1595年)

蒲生氏郷は戦国ファンには人気のある武将として知られていますが、それ以外の方にはあまり馴染みがないかもしれません。

僕自身、受験で日本史を勉強していた頃には全く知らなかった人物です。

しかし、当時の偉人たちによる氏郷評がなかなかスゴイのです!

織田信長・・・「眼精常ならず(ただ者ではない目をしている)」

豊臣秀吉・・・「この男は俺に似ている。俺がやろうとしていることをそのままやってしまう。恐ろしい男だ」 

そして極めつけは、茶道の匠・千利休です。

「日本の武将の中で一、ニと言っていいほどの文武両道の名将」

激動の時代に頂点を極め、数多くの名将を見てきた名立たる偉人たちがこれほどまでに絶賛するのですから、氏郷は相当な器の人物だったと想像できます。

これらを聞くと、氏郷をあまり知らなかった方でも興味が湧いてきませんか?

というわけで、今回は蒲生氏郷の人物像について語りたいと思います。

信長の人質から驚異的な出世を果たす

蒲生氏郷(がもう うじさと) 弘治二年(1556年)〜 文禄四年(1595年)
蒲生氏郷.jpg

氏郷は、蒲生賢秀の三男として近江(滋賀県)に生まれます。幼名は鶴千代。

蒲生氏は奥州藤原氏9月3日付ブログ参照)を祖先とする名門といわれますが、戦国時代は近江の六角氏に仕えていました。

しかし、六角氏が織田信長に滅ぼされたため、父の賢秀は信長に仕えることになり、氏郷は信長の元へ人質に出されます。

初めて氏郷と対面した信長は

「蒲生が子息、眼精常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」

と、一目で氏郷を大器と感じ取り、娘の冬姫を氏郷に嫁がせたといいます。

やがて本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれた時、氏郷は安土城にいた信長の妻子を素早く自らの居城に移して保護しています。

本能寺の変後は豊臣秀吉の元で数々の武功を挙げ、伊勢(三重県)松ヶ島に12万石を与えられました。

この頃、氏郷は高山右近1月6日付ブログ参照)の勧めでキリスト教に入信、洗礼を受けキリシタン大名となっています。(洗礼名はレオン)

秀吉による天下統一の総仕上げとなった小田原征伐の後、氏郷は奥州の会津(福島県)に42万石もの大封を与えられました。

その後、陸奥(青森県 他)の九戸政実の反乱の時にも活躍した勲功によりさらに加増され、ついに氏郷は92万石の大大名にまで出世したのです。

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氏郷を恐れた秀吉に遠ざけられた !?

氏郷が奥州に転封された理由は、秀吉が氏郷の存在を恐れていたからといわれています。

小田原征伐の後、秀吉は今後の重要拠点と考えていた会津に誰を配置するか家臣と相談しました。

なぜなら、会津は仙台の伊達政宗、関東の徳川家康という、秀吉にとって油断ならぬ二人を監視するための要衝となる大事な場所だからです。

この時、家臣たちのほとんどは「細川忠興が適任だと思われます」と答えました。

これに対し、秀吉はため息をついて

「お前たちの愚かさはひどいものだ。そんなだから俺が容易に天下を取れたのだ。会津の要衝を任せられるのは蒲生氏郷の他にはいないだろう」

と、きっぱり答えたそうです。

一方、氏郷は会津への転封を命じられると居城に戻って涙を流したといいます。

この様子を見た家臣たちは、(12万石から一気に42万石へ大幅に加増されたので嬉し泣きだろう)と思い喜んでいました。

喜ぶ家臣たちを見て氏郷は

「たとえ少ない石高であっても都の近くにいれば天下を狙うこともできる。しかし、どんなに大封を受けても都から遠く離れた国へ行ってしまったら、もう天下への望みは潰えたも同然。それが残念で涙を流したのだ」

と、落胆してその理由を説明したのです。

氏郷が会津へ向かう時、秀吉が氏郷の家臣に「氏郷は会津へ行くことをどう思っているか?」と尋ねると、家臣は「とても悔しがっておりました」と答えました。

これを聞いた秀吉は

「やはりそうであったか。近くに置いておくには恐ろしい奴だからな」

と言ったといわれています。

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家臣を大切にした名将

ただならぬ切れ者として秀吉に恐れられた氏郷ですが、家臣をとても大切にすることでも有名でした。

蒲生家に新しく家臣として加わった者がいると、氏郷は

「戦場で銀の鯰尾の兜をかぶった者を見かけたら、その者に劣らぬ働きをするよう心掛けよ」

と声を掛けました。

ある時、新参者が戦場で奮闘する銀の鯰尾の兜の武者を見つけると、なんとそれは氏郷本人でした。

つまり、総大将であるにも関わらず、戦場では氏郷自らが率先して戦うことで家臣に手本を示したのです。


また、氏郷は家臣たちをよく居城に招き酒宴を催してもてなしましたが、この時に氏郷自らが風呂を沸かして家臣たちを入れてやったといいます。

一国一城の主ともなるとなかなかできない行為なので、家臣たちが感激したのは言うまでもないでしょう。


他にも氏郷がいかに家臣を大切にしていたかを窺える話として、会津に転封になった時、氏郷は自分の直轄地より家臣に与える領地を先に決めたといわれています。

しかしその結果、家臣たちに割り当てた領地が多くなり過ぎて氏郷の直轄地があまりに少なくなってしまったので、さすがに遠慮した家臣たちと相談してもう一度領地の割り当てを決め直したそうです。

いかにも家臣思いの氏郷らしいエピソードですね。

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まとめ

  • 蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉、千利休などの名立たる人物たちが絶賛するほどの大器だった

  • 氏郷はあまりの切れ者ゆえに秀吉に警戒され、会津に転封されてしまった

  • 常に自分のことよりも家臣を優先するほど氏郷は家臣を大切にしていた


ちなみに、氏郷が築城した会津若松城が別名「鶴ヶ城」と呼ばれる理由は、氏郷の幼名(鶴千代)と蒲生家の舞鶴の家紋に因んだものといわれています。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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