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2019年11月29日

信玄を支えた名将たち

武田家にまつわる人物エピソード

10月23日付のブログでは織田家にまつわる人物エピソードを語りましたが、第二弾の今回は武田家です。

言わずと知れた“甲斐の虎”・武田信玄4月10日付ブログ参照)は戦国最強の武将ともいわれる名将です。

しかし、武田信玄が後世に語り継がれるほどの名将といわれたのは、信玄一人だけが傑出していたからではなく、彼を支えた有能な部下が多かったこともその理由といえます。

“武田二十四将”と呼ばれた甲州軍団の中核をなす家臣の面々は、戦国ファンなら誰しもが認める名将ぞろいです。
武田二十四将.jpg

永遠のライバル・上杉謙信との違いは、この家臣に恵まれたかどうかの差だったともいえるのです。

信玄ほど家臣に恵まれたとはいえない謙信ですが、もし謙信に武田二十四将に匹敵するくらいの有能な家臣が揃っていたら、あるいは信玄を圧倒していたかもしれません。

でも、信玄が有能な家臣を多く召し抱えられたのは、信玄には絶大な人望があり人心掌握術にも長けていたからこそです。

謙信は戦の天才ではありましたが、この点では信玄に一歩及びませんでした。

というわけで、今回は信玄を支えた名将たちについて語りたいと思います。

若き信玄に苦言を呈した傅役

板垣信方 生年不詳〜天文十七年(1548年)
板垣信形.jpg

信方は信玄の父・信虎にも仕えた武田家の筆頭重臣でした。

信方は信玄の傅役(もりやく=教育係)でしたが、国主の信虎は度重なる戦と重税などの失政により、領民や家臣の信頼を失っていました。

そこで、信方は信玄に父を国外へ追放することを進言しました。

さすがの信玄も父の追放には躊躇しましたが、信方の国を守るための決死の覚悟を感じ取り、父を同盟国である駿河(静岡県)の今川家へ追放し、父に代わって甲斐の国主の座に就きました。


こうして国主となった信玄ですが、まだ若かった信玄は昼夜を問わず遊び呆け、漢詩などにも没頭して国主としての執務を疎かにする怠惰な日々を送っていました。

これを見かねた信方はひそかに漢詩を猛勉強して、信玄の前で即興の詩を詠んでみせました。

(信方は漢詩など知らないだろう)と内心馬鹿にしていた信玄は驚きましたが、信方は

「主君のなさることを家臣が理解しないのは具合が悪いと感じましたので」

と語ったので、信玄は何とも気まずくなってしまいます。

この機に信方は、国主としての心構えや領国経営の何たるかを信玄に熱く語りました。

これを聞いた信玄は今までの生活態度を大いに反省し、今後は領国経営に専念することを涙ながらに誓ったといいます。


信方は、信玄が北信濃(長野県北部)の村上義清と争った上田原の戦いで惜しくも討死しました。

【それがだいじWi-Fi】
武田家の武名を惜しんだ忠臣

馬場信房 永正十一年(1514年)〜 天正三年(1575年)

もとは教来石(きょうらいし)景政という名でしたが、断絶していた甲斐の名門・馬場氏を信玄の命で継ぎ、馬場信房(信春とも)と名乗りました。

信虎・信玄・勝頼の武田家三代に仕えた信房は、信虎追放時も信方と共に信玄擁立に尽力しました。

信房は40年を超える戦のキャリアを持ち、生涯70回を越える戦闘に参加しましたが、かすり傷一つ負わなかったほどの戦さ巧者ぶりから“不死身の鬼美濃”の異名で恐れられる猛将でした。(※美濃は信房の官職名「美濃守」から)


信玄が今川・北条との三国同盟を破棄し駿河に攻め入った際、当主の今川氏真の住む館を攻め火を放ちました。

この時、今川家の財宝が焼失するのを惜しんだ信玄が「財宝を運び出せ!」と命令しました。

これを知った信房は

「敵の財宝を奪い取るなど、貪欲な武将として後世の物笑いになる」

と、部下が運び出した財宝を再び火中に放り込んだのです

後でこのことを知った信玄は、財宝よりも武田家の武名を惜しんだ信房にいたく感動し、欲に目が眩んだ自分を深く恥じたといいます。


信玄の死後、長篠の戦いで信房は一旦兵を引いて好機を待つことを勝頼に進言しますが聞き入れられませんでした。

信房は織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受ける武田軍の殿を務め、勝頼が逃げ延びるのを見届けた後、敵陣に突撃して華々しく討死しました。

この時の信房の戦いぶりは、織田信長の一代記『信長公記』に「馬場美濃守の働き、比類なし」と記されるほど見事な最期でした。

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恐れられた“赤備え” 強さの秘訣

山県昌景 享禄二年(1529年)〜 天正三年(1575年)

もとは飯富(おぶ)源四郎という名でしたが、信玄の嫡男・義信が謀反を企てた時に連座して死んだ源四郎の兄のことを配慮した信玄が、断絶していた甲斐の名門・山県氏を源四郎に継がせ、山県昌景と名乗りました。

昌景は自らの部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから「赤備え」として諸将から恐れられ、相手はこの赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がり逃げ出したといわれます。

昌景が最もその武名を轟かせたのは、三方ヶ原の戦い12月20日付ブログ参照)です。

武田軍の先鋒を務めた昌景は徳川家康の本陣まで切り込み、討死寸前のところまで追い込まれた家康は「山県とは恐ろしき武将ぞ!」と心底震え上がったといいます。

後に家康は武田家が滅んで甲斐を領有すると、昌景の赤備え隊だった旧臣を井伊直政にそっくり仕官させ、「赤備え」を復活させました。

家康にとって三方ヶ原での昌景の強さがよほど記憶に残っていたのでしょう。


ある時、昌景は「山県隊はなぜそんなに強いのか?」と訊ねられると

「常日頃の訓練も重要だが、一番大切なのは戦に臨む心構えであり、いつも初陣のように合戦に臨む覚悟で慎重に策を練り、たとえ勝てると思ってもそれを確信できない限りは戦わないことである」

と、昌景流の“戦の極意”を語ったそうです。


信房同様、昌景も長篠の戦いで討死しますが、昌景は全身に銃弾を浴びても馬から落ちず、軍配を口にくわえたまま絶命したといわれています。

まさに猛将・山県昌景にふさわしい壮絶な最期でした。

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まとめ

  • 信玄の傅役・板垣信方は不真面目だった若き信玄に国主としての心構えを説き、改心させた

  • 馬場信房は敵の財宝よりも武田家の武名を惜しみ、財宝を火中に投げ入れた

  • 山県昌景は強さの秘訣として「戦には常に初陣のつもりで臨み、勝算がない限り戦ってはならない」と語った


こうして見ると、やはり「名臣あっての信玄」と言えそうですね。

2019年11月27日

これ読めますか? 京都の地名

難読地名の多い京都

秋の紅葉シーズンもそろそろ終わりですね。

僕も秋にはよく紅葉狩りに行くのですが、ちょうどいい見頃に訪れるのは意外に難しいんですよね。

仕事の都合などもあり、いつでも出掛けられるわけではないので、出掛けられる時に良さそうな場所を探して行くのですが、まだ少し早かったり、もう見頃は過ぎていたりと、なかなかベストな時期に当たることがありません。

今の時代はSNSなどで最新の情報を得られるのでしょうが、それでも自分の行きたい場所や行ける範囲内の場所でちょうどいい紅葉を見るのは難しいものです。


紅葉シーズンといえば印象的なのが、JR東海のCMです。

京都の由緒ある寺院と紅葉のコラボレーションがとても見事でインパクトがありますね。
紅葉の京都.jpg

あのCMを見ると秋の京都に訪れたくなる方も多いと思いますが、その京都の地図や観光案内などを眺めていてふと気になるのは、読み方の難しい地名が多いということです。

“千年の都”といわれる歴史と伝統のある京都ですから、地名にも他の地域にはない深い意味が込められていそうですが、それにしても初見ではまず読めないと思われる地名が多いのです。

今回はその中から代表的なものをいくつかピックアップしてその由来について語りたいと思います。

間人(たいざ)

・京丹後市丹後町

日本海側の丹後半島にある小さな港町である間人は、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)10月28日付ブログ参照)に由来します。

6世紀後半頃、朝廷では日本に伝来したばかりの仏教を巡って蘇我氏と物部氏が激しく争っていました。(崇仏論争)

間人皇女はこの争乱を避けるためにこの地を訪れ、ここを去る時にお礼として自らの名を与えようとしました。

しかし、「そのままの呼び名を地名にするなど恐れ多い」ということで、間人皇女が逃れて居座った(退座した)という意味で、間人を“たいざ”という読み方にして地名にしたといわれています。

また、間人皇女に関わるもう一つの由来もあります。

聖徳太子の弟・麻呂子親王が人々を苦しめていた鬼を退治するため、この地を訪れました。

麻呂子親王は鬼を竹野川の河口まで追い詰め、天から大きな岩を落として鬼を封じ込めました。

鬼を退治した麻呂子親王は、この地で母の間人皇女と会い「対座」したので間人(たいざ)という地名になったともいわれています。

なお、麻呂子親王が鬼を封じ込めたといわれる「立岩」は現在も竹野川河口付近の海岸にあり、立岩の前には間人皇女と聖徳太子の銅像もあります。


間人と聞いて、グルメな方ならピンとくるのが間人ガニですね。

間人ガニとは、間人港で水揚げされた松葉ガニのブランド名のことです。

ちなみに、松葉ガニとは本来ズワイガニのことなのですが、そのズワイガニの中でも島根県沖から丹後半島にかけて生息するものを「松葉ガニ」と呼んでいます

間人ガニは漁獲量が少なく味も良いことから“幻のカニ”といわれています。

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一口(いもあらい)

・久世郡久御山町

この地は承久の乱5月13日付ブログ参照)や元弘の変など鎌倉時代に古戦場となった場所です。

かつてこの地に存在した巨椋池(おぐらいけ)のほとりには小さな村がありましたが、この村は三方を池に囲まれていたため、村の出入口は一箇所しかありませんでした

それが「一口」の起源になったいいます。

では、なぜ一口を(いもあらい)と呼んだのでしょうか?

この巨椋池はかつて疱瘡(天然痘)を治療するために使われた池だったといわれています。

疱瘡は俗語で“いも”と呼んでいたので、疱瘡(いも)を池で治す(洗う)場所という意味で、一口の地名を(いもあらい)と呼ぶようになったといわれています。

なお、この巨椋池は昭和初期に行なわれた大規模な干拓事業により農地になってしまったので、現在はありません。


ちなみに、東京都千代田区に「一口坂」(ひとくちざか)という地名がありますが、ここもかつては(いもあらいざか)と呼ばれていたのです。

戦国時代の武将・太田道灌(8月5日付ブログ参照)が娘の疱瘡の治癒を祈願するため、京都の一口稲荷を分社し、この坂の上に一口稲荷を建立したことから「一口坂」(いもあらいざか)という地名になりました。

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先斗町(ぽんとちょう)

・京都市中京区

鴨川をどり」で有名な先斗町は京都の中でも華やかな歓楽街として今も賑わっています。

この地はもともと鴨川の州だったのですが、江戸時代に鴨川と高瀬川の護岸工事によって埋め立てられ町ができました。

その細長い地形から、ポルトガル語の「先端」を意味するponta(ポンタ)が語源であるといわれています。

この地名が付けられた安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、ポルトガルやイスパニア(現スペイン)との南蛮貿易が行われていました。

南蛮貿易がさかんだった地域では、ポルトガル語にちなんだ品物(タバコ、カルタ、コンペイトウなど)や言葉が取り入れられることが多く、先斗町の地名もその一つだと考えられます。


先斗町の由来には他にもいくつか説があります。

鴨川と高瀬川に挟まれた堤のような地形であることから、堤=鼓で、鼓は叩くと「ポン!」と音が鳴ることからぽんとになったというシャレた由来もあります。

あるいはこの町が作られた時、先端である東側ばかりに家が建ち、西側にはほとんどなかったことから、先斗(さきばか)りの町という意味で先斗町という地名になったともいわれています。

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まとめ

  • 間人 → 聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が朝廷の争乱から逃れて居座った(退座した)ことから

  • 一口 → 疱瘡(いも)を治す(洗う)池があった場所から

  • 先斗町 → ポルトガル語の「先端」を意味するponta(ポンタ)の語源から


  • いもあらいというと、どうしても『エンタの神様』にトップで登場する芋洗坂係長を連想しがち。(笑)

    2019年11月25日

    天皇引退後も“ご隠居”とは呼ばせない !? 院政

    202年ぶりに復活した上皇

    今年4月に平成天皇(明仁様)が譲位して「上皇」となられましたね。

    日本で上皇が復活したのは、江戸時代後期の文化十四年(1817年)に退位した光格上皇以来202年ぶりのことです。

    これは、明治以降から現在に至るまで皇室典範には退位に関する規定がなく、天皇は終身在位となっていたからです。

    しかし、陛下もご高齢になられ、天皇として日々の激務を遂行されることが困難になられたので譲位を決意されました。

    なお、天皇退位に関する皇室典範特例法は平成天皇一代のみに適用される臨時法(時限立法)であり、恒久法ではないため、新たな特例法の制定もしくは皇室典範の改正がない限り、令和天皇(徳仁様)以降には適用されません


    さて、明日11月26日は平安時代後期に院政が始まった日です。(応徳三年 1086年)

    院政とは、天皇が譲位し上皇となった後も政治の実権を握り、上皇の住まいである院を中心に政務が行なわれることです。

    こうした形態を現代で例えるなら、社長が引退し会長となった後も会社の実権を握ったまま仕事を続けるといった形ですね。

    院政期の上皇は年齢的な衰えを理由に譲位するわけではありません。

    それが理由ならば、当然実権も譲り渡すはずですから。

    それでは、なぜ上皇となってからも政治の中心に居座り続けたのでしょうか?

    というわけで、今回は院政について語りたいと思います。

    摂関政治の衰退

    平安時代中期には藤原氏の一族が摂政あるいは関白の位に就き政務を取り仕切る摂関政治12月4日付ブログ参照)が行なわれ、藤原道長・頼通父子の時代に摂関政治は全盛期を迎えました。

    藤原氏は代々娘を天皇家に嫁がせ、生まれた男子を天皇に即位させることで自らが天皇の外祖父となって朝廷の実権を握っていたのですが、頼通の娘には(後に天皇となるはずの)男子が生まれませんでした。

    こうした状況から、治暦四年(1068年)藤原氏を外戚としない(藤原氏の娘が母ではない)後三条天皇が即位します。

    後三条天皇は藤原氏との姻戚関係が薄れたことから、摂関家(藤原氏)に気兼ねする必要がなくなり、天皇親政を行ないました。

    後三条天皇の跡を継いだ白河天皇も摂関家を抑えて天皇親政を行ないます。

    応徳三年(1086年)白河天皇は皇位を子の堀河天皇(当時8歳)に譲った後も上皇として住居である院の中に院庁を開き政治の実権を握りました

    これが院政の始まりです。

    白河上皇が院政を始めた理由としては、天皇が幼くして即位しても、補佐するのはそれまでのような摂政や関白ではなく、父である上皇が補佐するという慣例を作ることによって摂関政治を排除しようとする目論みがあったと考えられます。

    上皇の意志を伝える文書である院宣院庁下文は絶対的な権威がありました。

    院政において上皇は、主に摂関政治の下では不遇を受けていた中小の貴族たちを登用したので、反藤原氏的な立場の地方役人などから絶大な支持を得ました。

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    白河院政の全盛期

    白河上皇は、堀川・鳥羽・崇徳の三天皇の時代に実に43年に渡り院政を行ないました。

    院政は地方役人を優遇したため、荘園(私有地)や知行国(一国の支配権を皇族や公家に与え、そこでの税収も与える制度)から莫大な収入を得ることで権力を拡大しました。

    こうして摂関政治に代わって政権を握った院政ですが、院政を行なった歴代の上皇は仏教を厚く信仰し、造寺や造仏を積極的に行ないました。

    同時に奈良の興福寺(南都)や比叡山延暦寺(北嶺)などの大寺院も手厚く保護しました。

    院の保護により勢力を拡大した両寺院は自衛のため僧兵という武力集団を組織し、気に入らない仏教政策などがあると、たびたび僧兵を繰り出し朝廷に強訴してきたので、院にとっては何とも皮肉な結果となりました。

    当時、絶大な権力を誇っていた白河上皇でさえも、

    「山法師と双六の賽と賀茂川の水は意のままにならぬ」
    (延暦寺の僧兵とサイコロの目とたびたび洪水を起こす賀茂川だけは自分の思い通りにならない)

    と嘆いたほどです。(天下三不如意

    このため、僧兵などに対抗する院の自衛組織として北面の武士を設置しました。

    この北面の武士は、当時近畿地方で有力な武家であった平氏などから構成されていたので、北面の武士の活躍は後に武家が台頭するきっかけとなりました。

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    白河上皇の好色が保元の乱の原因 !?

    40年以上に渡り院政を行なった白河上皇は、その権力にものを言わせ女性関係もかなり盛んだったといわれています。

    あの平清盛2月3日付ブログ参照)も白河上皇の子だったという噂があります。

    朝廷内では白河上皇を中心に、もっと複雑でドロドロした人間関係が繰り広げられていたのです。

    白河上皇は藤原璋子という少女を7歳で養女に迎え入れ寵愛しましたが、やがて上皇は自分の孫にあたる鳥羽天皇に成長した璋子を嫁がせます。

    そして生まれたのが後の崇徳天皇なのですが、この崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、白河上皇と璋子との間に生まれた子だといわれているのです。

    つまり、鳥羽天皇にしてみれば、祖父と妻の間にできた子というわけです。

    さらに、白河上皇はこの子をわずか5歳で崇徳天皇として即位させ、鳥羽天皇を譲位させてしまったのです。

    いくら白河上皇が絶対的な権力を持っているとはいえ、ここまでされては鳥羽上皇が面白かろうはずがありません。

    それから間もなく白河上皇が崩御すると、ようやく院政の権力を握った鳥羽上皇はもう一人の妻・藤原得子との間にできた実子・近衛天皇を即位させ、崇徳天皇を譲位させます。

    その近衛天皇が17歳の若さで崩御してしまうと、今度は後白河天皇を即位させるなど、鳥羽上皇は徹底して崇徳上皇を冷遇したのです。

    ちょっと複雑になってきたので系図で見てみましょう(笑)
    院政系図.jpg
    父であるはずの鳥羽上皇に冷遇され続けた崇徳上皇は、鳥羽上皇の死後、それまで抑えつけられていた不満が爆発し、弟の後白河天皇と権力の座を激しく争った結果、公家や武士を巻き込んで保元の乱(保元元年 1156年)に発展したというわけです。



    まとめ

    • 白河上皇は摂関政治を排除するために院政を行なったと考えられる

    • 絶大な権力を誇った白河上皇でさえ延暦寺の僧兵らによる強訴には手を焼いた

    • 白河上皇の乱れた女性関係は保元の乱の遠因となった


    ちなみに、上皇が出家すると法皇という名称に変わります。

    2019年11月22日

    北条時頼の「廻国伝説」は本当か?

    水戸黄門より前に諸国を漫遊?

    今日11月22日は鎌倉幕府5代執権・北条時頼が亡くなった日です。(弘長三年 1263年)
    北条時頼.jpg
    安貞元年(1227年)〜 弘長三年(1263年)

    北条時頼は鎌倉幕府の執権として活躍したものの、歴史ファン以外の方にはあまり馴染みのない人物だと思われます。

    しかし、時頼には幕府の最高権力者でありながら、その身分を隠し諸国を漫遊したという伝説があるのです。

    権力者が身分を隠し諸国漫遊というと、人気時代劇『水戸黄門』を連想しますね。

    時代劇『水戸黄門』は、水戸黄門こと徳川光圀12月6日付ブログ参照)が日本全国を旅しながら悪人を懲らしめるという定番の物語ですが、残念ながら実際の光圀は歴史書『大日本史』の編纂に人生の大部分を捧げていたので、全国を漫遊したという事実はありません

    この「水戸黄門漫遊記」は物語性が似ていることから、時頼の伝説が話のもとになったではないかともいわれています。

    ただ、時頼も執権として日々激務に追われ、また若くして亡くなっている(享年37歳)ので諸国を放浪する余裕などなかったと思われることから、時頼の伝説も疑問視されています。

    では、なぜ時頼の廻国伝説は生まれたのでしょうか?

    というわけで、今回は北条時頼について語りたいと思います。

    執権政治の独裁体制を確立

    承久の乱でも活躍した北条泰時の孫である時頼は、病弱の兄・経時に代わり若干二十歳で執権に就任しました。

    執権とは、政所(政治機関)の別当(長官)に侍所(軍事機関)の別当を兼任した役職で、鎌倉幕府の実質的トップの地位です。

    幕府の最高権力者となった時頼は、執権政治の権力強化に努めます。

    寛元四年(1246年)、時頼の執権就任に不満を持つ御家人たちが前将軍の藤原頼経を擁して時頼排除を図ろうとすると、時頼はこれを鎮圧、頼経を京都に送還し関与した多数の御家人たちを処分します。

    さらに翌年の宝治元年(1247年)には北条氏にとって最も脅威であった幕府の有力御家人・三浦泰村を討ち、三浦一族を滅ぼしました。(宝治合戦

    これにより幕府内の反北条勢力は一掃され、それまで幕府の有力御家人たちによる合議制だった政治体制が北条一族による独裁政治へと移行するきっかけとなりました。

    また、建長四年(1252年)には頼経の子で5代将軍であった藤原頼嗣(摂家将軍)を京都に追放し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を6代将軍に迎え親王将軍(皇族将軍)を擁立しました。

    こうして幕府の有力御家人を次々と排除し、将軍の地位まで思いのままにすることにより、時頼は執権政治を盤石なものにしました。

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    「鉢の木」の伝説

    時頼の伝説とは、室町時代の謡曲「鉢の木」の話に由来します。


    ある冬の夜、上野国(群馬県)佐野の貧しい家に一人の旅の僧が訪ね、一夜の宿を求めた。

    その家の主人は快く僧を迎え入れたが、貧しさゆえ立派なもてなしはできなかった。

    なので、せめて暖かく暖を取って欲しいとの思いから、大切に育てていた三つの秘蔵の盆栽を薪代わりに火にくべてしまった

    僧は主人の心遣いに感動したが、室内を見渡すとこれほど貧しいにも関わらず、馬を飼い古びた太刀と鎧を所持している

    僧がその理由を尋ねると、

    「拙者は佐野源左衛門常世と申しまして、佐野荘の領主をしておりましたが、一族の者に所領を奪われてしまいました。今でこそこのように落ちぶれておりますが、いざ鎌倉の一大事となれば一目散に馳せ参じ、幕府に忠勤を尽くす志を忘れておりません

    と答えた。

    僧が去った後、間もなくして鎌倉幕府から諸国へ動員令が出された。

    常世も装備を整え馬に跨りいち早く鎌倉に駆け付けた。

    そして、執権・北条時頼は集まった大勢の武士の中から常世を呼び、前に歩み出た常世は驚いた。

    なんと時頼は、あの夜の旅の僧だったのだ。

    時頼は常世の覚悟を試すつもりで動員令を出したのだが、常世が言っていた通りに駆け付けたことを喜び、奪われていた佐野荘を常世に返してあげた。

    さらに、鉢の木の礼として三つの新しい所領も与えたという。


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    なぜ時頼の廻国伝説は生まれたのか?

    時頼の廻国伝説は「鉢の木」の他にも南北朝時代に書かれた『太平記』や『増鏡』にその記述があります。

    しかし、こうした逸話を裏付ける証拠がないため、「あまりにも出来過ぎた話」として疑問視されているのです。

    では、なぜこのような伝説が生まれたのでしょうか?

    時頼は執権政治の権力を強めるために独裁を行なった反面、弱小の御家人たちを救済する政策も積極的に行なっています

    まず時頼は執権に就任してから、御家人の負担を軽減するため京都大番役(朝廷や京都の警備)の任期を6ヶ月から3ヶ月に短縮しました。

    また、武家以外の荘園領主(寺社や公家)に仕えている御家人が不当な処分を受けた時、幕府が荘園領主に抗議できるよう取り計らい、幕府が御家人の立場を守ることに努めます。

    さらに、当時は所領関係などの御家人の訴訟問題が非常に多かったことから、建長元年(1249年)引付衆を設置して裁判の公平化と迅速化を図りました

    このように時頼は立場の弱かった御家人を救済する政策を数多く行なったため、弱小御家人の多い地方では特に評判が良く、時頼に感謝する思いから廻国伝説が生まれたのではないかと考えられます。



    まとめ

    • 時頼は幕府の有力御家人を次々と排除し執権政治の独裁体制を確立した

    • 「鉢の木」とは、身分を隠した時頼に心尽くしのおもてなしをした地方武士を後に取り立てた話

    • 時頼は立場の弱い御家人を救済する政策を積極的に行なったため、弱小御家人の多い地方では廻国伝説が生まれたと考えられる


    確かに「鉢の木」の話は水戸黄門のシチュエーションと似てますよね?(笑)

    2019年11月20日

    一休さんは高僧か、それとも破戒僧か?

    アニメとかけ離れた実態

    明日11月21日は室町時代の禅僧・一休宗純が亡くなった日です。(文明十三年 1481年)
    一休宗純.jpg
    応永元年(1394年)〜 文明十三年(1481年)

    一休宗純と言えば、アニメの『一休さん』(1975〜1982年)で一躍有名になったというイメージがありますが・・・・今の若い人達には古過ぎてちょっとわからないですね。(笑)

    僕も毎週見てましたがとにかく人気のあるアニメで、その頃の子供で一休さんを知らない子はまずいないくらいでした。

    安国寺で修行する聡明な小坊主・一休が、大人たちの無理難題を得意のとんちで切り返すという、子供にとっては痛快な楽しさがありました。

    例えば、「このはしを渡るべからず」と高札の立てられた橋では、その橋の真ん中を堂々と歩き、注意されると「はし(端)を渡るなと書いてあったので真ん中を歩きました」と言ったり、一休の評判を聞きつけた将軍様に「この屏風に描かれている虎が夜な夜な屏風から出てきて悪さをするから退治してくれ」と無茶を言われても、「それでは今から退治しますので、虎を屏風から出して下さい」と切り返したりする話が有名ですね。

    僕は子供の頃、一休さんが実在の人物をモチーフにしていることすら知らなかったのですが、いろいろ調べてみると、一休宗純はアニメの一休さんとは似ても似つかないとんでもない変人だったようです。

    では、実在の一休さんとはどんな人物だったのでしょう?

    というわけで、今回は一休宗純について語りたいと思います。

    実は天皇のご落胤 !?

    一休宗純は天皇の皇子だったのではないかという説があります。

    宗純の母は藤原氏の名家出身で、宮中で後小松天皇の寵愛を受け身籠りますが、やがて宮中を追われる立場となってから生まれたのが宗純だといわれています。

    6歳の時に京都の安国寺に入門し、以後修行に励む日々を送ります。(ここまではアニメと同じですね)

    17歳の時、謙翁宗為(けんおう そうい)の弟子となり戒名を宗純と改めますが、その4年後に宗為が亡くなってしまい、尊敬する師を失った宗純はショックから自殺未遂を起こしてしまいます。

    以後、荒れた生活を送るようになってしまった宗純ですが、やがて大徳寺の華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり、宗純の苦悩に満ちた生き方を心配した宗曇は「煩悩と悟りの間に一休みする気持ちの余裕を忘れてはならぬ」という教えから宗純に一休の号を授けました。

    一休が27歳になった時、転機が訪れます。

    ある夜、カラスの鳴き声を聞いたのをきっかけに突然悟りが開けたといい、以後は詩、狂歌、書画を好みつつ風狂な生活を送りました。

    風狂とはなかなか難しい言葉なのですが、一休の場合、仏教の戒律などに囚われず自らの本能の赴くままに行動する、ということでしょうか。

    老境に入ってから天皇の勅命により大徳寺の住職に任命された一休は、寺の再興に尽力しますが大徳寺には住まず、相変わらずの放浪僧のような生活を送っていました。

    文明十三年(1481年)、熱病(マラリアか?)により死去しますが、臨終に際し枕元に集まった弟子たちを前に「死にとうない」と、最期まで着飾らず素直な気持ちを吐露しました。享年88歳。

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    僧とは思えぬ数々の奇行

    一休が“破戒僧”といわれる所以は、僧侶という神聖な立場ではとてもあり得ない奇怪な行動を平然とやっていたからです。

    その一部を紹介します。

    ・仏教の戒律で禁じられている肉食・飲酒・女犯を堂々とやっていた
     →一休は悟りを開いた頃からこれら仏教における“禁じ手”を人目もはばからず行なっていて、老齢になってからも盲目の愛人・森侍者(しんじしゃ)と暮らしていました。


    ・卑猥な詩を詠み公開していた
     →愛人との生活ぶりも詩集に残しており、「美人の淫水を吸う」や「美人の陰に水仙花の香り有り」といった内容の詩を詠んでいます。


    ・正月にドクロを付けた杖を突きながら「ご用心、ご用心」と唱え街を練り歩いた
     →坊さんが正月に人体の一部であるドクロを杖に刺して歩いているのですから、それを見た人々はさぞ度胆を抜かれたでしょうね。


    当然、これら一連の奇行は世間の人々から冷ややかな目で見られましたが、一休にはこのような行動を見せる理由がありました。

    当時の仏教界は乱れていて、僧侶が隠れて肉食・飲酒・女犯をするのは暗黙の了解となっていましたが、彼らも表向きは汚れのない神聖な僧侶のように振舞っていました

    一休はそのように実態を隠した偽善を良しとせず、自らが敢えて人間臭い醜態を晒すことによって、嘘偽りに満ち溢れていた仏教界を痛烈に批判したのではないかといわれています。

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    一休の遺した名言

    一休は自分を着飾ったりせず、常に本音で行動する人間だったので、彼らしい名言を数々遺しています。

    ・「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり めでたくもなし」
     →門松=正月は明るくめでたい雰囲気に包まれていますが、その反面、また一つ年を重ねて死への旅路にも近づいているともいえます。
    どんな物事にも良い面と悪い面があり、それをどちらに受け取るかはその人の考え方次第ということですね。


    ・「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの」
     →一休がそれぞれの分野で一番素晴らしいと考えているものの例えです。
    とんねるずのタカさんがリアル野球盤で打席に立つ時、「花は桜木、男は石橋!」と言っているのを思い出しますね。(笑)


    ・「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃというが愚かじゃ」
     →極楽浄土だ、現世だ、地獄だ、苦しいだ、楽しいだ、あーだこーだといちいち騒ぎ立てるのは愚かなことだという意味でしょうが、良いことも悪いことも全て達観して悟りを開いた一休らしい言葉ですね。



    まとめ

    • 一休宗純はアニメの一休さんからは想像もできない破戒僧だった

    • 一休の数々の奇行は仏教界に対する痛烈な批判でもあった

    • 自分に正直に生き、思いのままに行動した一休は彼らしい名言をたくさん遺している


    アントニオ猪木が引退試合の際に語った「この道を行けばどうなるものか・・・」という言葉は、どうやら一休の名言ではなく、清沢哲夫という方の「道」という詩らしいです。
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    元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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