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2019年11月20日

一休さんは高僧か、それとも破戒僧か?

アニメとかけ離れた実態

明日11月21日は室町時代の禅僧・一休宗純が亡くなった日です。(文明十三年 1481年)
一休宗純.jpg
応永元年(1394年)〜 文明十三年(1481年)

一休宗純と言えば、アニメの『一休さん』(1975〜1982年)で一躍有名になったというイメージがありますが・・・・今の若い人達には古過ぎてちょっとわからないですね。(笑)

僕も毎週見てましたがとにかく人気のあるアニメで、その頃の子供で一休さんを知らない子はまずいないくらいでした。

安国寺で修行する聡明な小坊主・一休が、大人たちの無理難題を得意のとんちで切り返すという、子供にとっては痛快な楽しさがありました。

例えば、「このはしを渡るべからず」と高札の立てられた橋では、その橋の真ん中を堂々と歩き、注意されると「はし(端)を渡るなと書いてあったので真ん中を歩きました」と言ったり、一休の評判を聞きつけた将軍様に「この屏風に描かれている虎が夜な夜な屏風から出てきて悪さをするから退治してくれ」と無茶を言われても、「それでは今から退治しますので、虎を屏風から出して下さい」と切り返したりする話が有名ですね。

僕は子供の頃、一休さんが実在の人物をモチーフにしていることすら知らなかったのですが、いろいろ調べてみると、一休宗純はアニメの一休さんとは似ても似つかないとんでもない変人だったようです。

では、実在の一休さんとはどんな人物だったのでしょう?

というわけで、今回は一休宗純について語りたいと思います。

実は天皇のご落胤 !?

一休宗純は天皇の皇子だったのではないかという説があります。

宗純の母は藤原氏の名家出身で、宮中で後小松天皇の寵愛を受け身籠りますが、やがて宮中を追われる立場となってから生まれたのが宗純だといわれています。

6歳の時に京都の安国寺に入門し、以後修行に励む日々を送ります。(ここまではアニメと同じですね)

17歳の時、謙翁宗為(けんおう そうい)の弟子となり戒名を宗純と改めますが、その4年後に宗為が亡くなってしまい、尊敬する師を失った宗純はショックから自殺未遂を起こしてしまいます。

以後、荒れた生活を送るようになってしまった宗純ですが、やがて大徳寺の華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり、宗純の苦悩に満ちた生き方を心配した宗曇は「煩悩と悟りの間に一休みする気持ちの余裕を忘れてはならぬ」という教えから宗純に一休の号を授けました。

一休が27歳になった時、転機が訪れます。

ある夜、カラスの鳴き声を聞いたのをきっかけに突然悟りが開けたといい、以後は詩、狂歌、書画を好みつつ風狂な生活を送りました。

風狂とはなかなか難しい言葉なのですが、一休の場合、仏教の戒律などに囚われず自らの本能の赴くままに行動する、ということでしょうか。

老境に入ってから天皇の勅命により大徳寺の住職に任命された一休は、寺の再興に尽力しますが大徳寺には住まず、相変わらずの放浪僧のような生活を送っていました。

文明十三年(1481年)、熱病(マラリアか?)により死去しますが、臨終に際し枕元に集まった弟子たちを前に「死にとうない」と、最期まで着飾らず素直な気持ちを吐露しました。享年88歳。

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僧とは思えぬ数々の奇行

一休が“破戒僧”といわれる所以は、僧侶という神聖な立場ではとてもあり得ない奇怪な行動を平然とやっていたからです。

その一部を紹介します。

・仏教の戒律で禁じられている肉食・飲酒・女犯を堂々とやっていた
 →一休は悟りを開いた頃からこれら仏教における“禁じ手”を人目もはばからず行なっていて、老齢になってからも盲目の愛人・森侍者(しんじしゃ)と暮らしていました。


・卑猥な詩を詠み公開していた
 →愛人との生活ぶりも詩集に残しており、「美人の淫水を吸う」や「美人の陰に水仙花の香り有り」といった内容の詩を詠んでいます。


・正月にドクロを付けた杖を突きながら「ご用心、ご用心」と唱え街を練り歩いた
 →坊さんが正月に人体の一部であるドクロを杖に刺して歩いているのですから、それを見た人々はさぞ度胆を抜かれたでしょうね。


当然、これら一連の奇行は世間の人々から冷ややかな目で見られましたが、一休にはこのような行動を見せる理由がありました。

当時の仏教界は乱れていて、僧侶が隠れて肉食・飲酒・女犯をするのは暗黙の了解となっていましたが、彼らも表向きは汚れのない神聖な僧侶のように振舞っていました

一休はそのように実態を隠した偽善を良しとせず、自らが敢えて人間臭い醜態を晒すことによって、嘘偽りに満ち溢れていた仏教界を痛烈に批判したのではないかといわれています。

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一休の遺した名言

一休は自分を着飾ったりせず、常に本音で行動する人間だったので、彼らしい名言を数々遺しています。

・「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり めでたくもなし」
 →門松=正月は明るくめでたい雰囲気に包まれていますが、その反面、また一つ年を重ねて死への旅路にも近づいているともいえます。
どんな物事にも良い面と悪い面があり、それをどちらに受け取るかはその人の考え方次第ということですね。


・「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの」
 →一休がそれぞれの分野で一番素晴らしいと考えているものの例えです。
とんねるずのタカさんがリアル野球盤で打席に立つ時、「花は桜木、男は石橋!」と言っているのを思い出しますね。(笑)


・「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃというが愚かじゃ」
 →極楽浄土だ、現世だ、地獄だ、苦しいだ、楽しいだ、あーだこーだといちいち騒ぎ立てるのは愚かなことだという意味でしょうが、良いことも悪いことも全て達観して悟りを開いた一休らしい言葉ですね。



まとめ

  • 一休宗純はアニメの一休さんからは想像もできない破戒僧だった

  • 一休の数々の奇行は仏教界に対する痛烈な批判でもあった

  • 自分に正直に生き、思いのままに行動した一休は彼らしい名言をたくさん遺している


アントニオ猪木が引退試合の際に語った「この道を行けばどうなるものか・・・」という言葉は、どうやら一休の名言ではなく、清沢哲夫という方の「道」という詩らしいです。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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