2019年11月18日
龍馬暗殺の真相を追う!
暗殺された時の状況
慶応三年(1867年)11月15日夜、龍馬は京都の四条河原町にある近江屋の2階で盟友の中岡慎太郎と議論を交わしていた。
午後8時頃、近江屋に「十津川郷士」と名乗る者たちが訪ねてきて龍馬たちに面会を求めた。
龍馬に仕えていた山田藤吉が取次ぎ、その者たちを2階に案内した。
2階に上がったところでその中の一人が突然背後から藤吉を斬り倒した。
藤吉が倒れ込んで大きな物音がしたので龍馬は「ほたえな!」(土佐弁で「騒ぐな」という意味)と一喝した。
すると、龍馬たちがいる部屋の襖が開き、二人の刺客が「こなくそ!」と叫びながら飛び込んできた。
刺客の一人がいきなり龍馬の前頭部を斬りつけ、龍馬が刀を取ろうとした時に二太刀目を浴びせた。
その間にもう一人の刺客は慎太郎を何度も斬りつけていた。
致命傷を負った龍馬は慎太郎のことを気遣いながらも
「脳をやられたからもうだめだ」
という言葉を最後に絶命、享年33歳。
以上が龍馬が暗殺された時の状況です。
龍馬はほぼ即死で藤吉は翌日、慎太郎は二日後に亡くなっています。
この時の状況は慎太郎の証言から伝わっているのですが、犯人が誰だったのかはわかっていません。
当初、犯行現場に落ちていた遺留品から、犯人は新撰組と思われましたが、暗殺者が明らかに犯人のものと思われる物的証拠を現場に落とすようなヘマをするでしょうか?
それに、新撰組局長の近藤勇も龍馬暗殺への関与を全面的に否定しています。
それでは一体、龍馬を殺したのは誰なのでしょうか?
今回は龍馬暗殺の犯人像について語りたいと思います。
1.紀州藩黒幕説
龍馬暗殺から遡ること7ヶ月前、瀬戸内海の鞆の浦沖で龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」が衝突し、いろは丸が沈没するという事件が起こりました。
紀州藩は見舞金として千両を支払い示談にしようとしましたが、龍馬はそれを拒否し、当時の国際法である「万国公法」を論拠にかなり強引な交渉を行なった末、結局紀州藩から7万両もの賠償金をせしめたのです。
7万両といえば、現在のお金に換算すると100億円以上になると思われます。
龍馬が交渉の際どんな詭弁を弄したのかわかりませんが、さすがにこの金額は“ぼったくり”と言わざるを得ません。
相手の紀州藩も幕府の権力に翳りが見え始めた幕末とはいえ、御三家の名門です。
その名家が下級武士の龍馬に法外な賠償金を支払わされることになったのですから、名家の面子も丸潰れにされたというわけです。
その恨みから、紀州藩が新撰組を使って龍馬を暗殺させたのではないかという説が浮上しました。
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2.京都見廻り組説
現在最も有力視されているのがこの説です。
明治になってから、京都見廻り組だった今井信郎が「自分は幕府からの命令で龍馬暗殺に加わった」と自供したのです。
京都見廻り組とは、新撰組と同じく幕末に京都の治安維持のために置かれた幕府直轄の組織です。
今井の供述によると、龍馬暗殺に加担したのは見廻り組組頭の佐々木只三郎以下7人で、3人が2階に上がって斬り込み、今井ら残りの4人は見張り役だったといいます。
しかし、今井の自供内容は中岡慎太郎が死ぬ前に証言した話と異なり、慎太郎は刺客は二人だと証言しましたが今井は三人だと言っています。
また、慎太郎は「十津川郷士」と名乗る者と証言しましたが、今井は「松代藩」と名乗ったと証言しています。
これだけ両者の証言が食い違ってしまうとやはり信憑性という点で怪しく感じられます。
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3.その他の説
@薩摩藩説
龍馬暗殺の一ヶ月ほど前に大政奉還が行なわれたことにより、薩摩藩は武力討幕の名目を失ってしまいました。(10月14日付ブログ参照)
そして、龍馬暗殺の約一ヶ月後には王政復古の大号令がなされています。
つまり、龍馬の起草した大政奉還により武力討幕を阻止された薩摩藩は、王政復古の大号令で徳川家の権力を奪い取ることさえも龍馬に阻止されるのではないかと危惧し、その前に龍馬暗殺に踏み切ったというわけです。
また、龍馬暗殺を自供した今井は禁固刑を受けた後、特赦で釈放されていますが、この特赦に手を貸したのが薩摩藩の西郷隆盛と言われています。
隆盛がまるで龍馬暗殺犯を助けたかのような行動に疑惑がもたれています。
A土佐藩説
龍馬は以前にも寺田屋で襲われたように(前回ブログ参照)敵が多かったので刺客から逃れるため、居場所を転々と変えていました。
にも関わらず、早々に潜伏先の近江屋が刺客に知られたのは、身内であるはずの土佐藩の人間が情報を流したのではないかというのです。
また、現場の遺留品も新撰組のものではなく、土佐藩が京都で馴染みにしていた店のものともいわれています。
B中岡慎太郎暗殺の巻き添え説
大政奉還を実現させたように、穏便に政権交代を図ろうとする立場だった龍馬とは対照的に、慎太郎はあくまで武力討幕を目指すという立場でした。
この事実から、幕府直轄である見廻り組の真のターゲットは龍馬ではなく慎太郎の方であり、たまたまその場に居合わせた龍馬は口封じのために殺されたのではないかというのです。
先に死んだのは龍馬ですが、慎太郎は刺客に何度もメッタ斬りされていることから、彼の命を奪うことが犯行の目的だったとも思われます。
中岡慎太郎 天保九年(1838年)〜 慶応三年(1867年)
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龍馬暗殺のまとめ
- 龍馬に法外な賠償金を支払わされた紀州藩による黒幕説
- 犯行に加わったとされる今井信郎の自白による京都見廻り組による犯行説
- その他にも薩摩藩や土佐藩の黒幕説や中岡慎太郎暗殺の巻き添え説などがある
さて、皆さんはどの説に一番説得力を感じますか?
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