2020年05月08日
決戦! 大坂夏の陣
「昌幸の子」から「日本一の兵」へ
今日5月8日は大坂夏の陣が終わり、豊臣家が滅亡した日です。(慶長二十年 1615年)※改元前
大坂夏の陣は、半年前に行なわれた冬の陣と合わせて「大坂の役(又は陣)」と言いますが、真田幸村はその両方で活躍しました。
前回のブログでは幸村の前半生について語りましたが、もし彼がこの大坂の役で活躍しなかったら、「真田幸村」の名が歴史に刻まれることはなかったかもしれません。
なぜなら、この大坂の役の前まで幸村は「真田昌幸の子」としてしか世間的には評価されていなかったからです。
この大坂城を舞台にした二度の戦いで、幸村は比類なき勇将として一気にその名を全国に轟かせることになりました。
幸村は九度山に流されて以来、14年間も貧しい暮らしに耐え忍んできました。
年齢も四十代後半にさしかかり、(自分はこの山奥の村で、このまま寂しく朽ち果ててゆくのだろうか?)と苦悩する幸村に手を差し延べたのが豊臣家でした。
だから、幸村が大坂入城を決意したのは、金のためでも、立身出世のためでもなく、宿敵・徳川家康(4月17日付ブログ参照)を相手に武士として最後の“死に花”を咲かせるためだったと思われるのです。
というわけで、今回は大坂の役における真田幸村の活躍について語りたいと思います。
落日の大坂城へ
慶長十九年(1614年)10月、大坂城に入った幸村は毛利勝永・長宗我部盛親・後藤又兵衛・明石全登(たけのり)と並んで「大坂城五人衆」と呼ばれました。
その他にも関ヶ原の戦いの後に浪人となった者たちを中心に各地から続々と結集し、大坂城の総兵力はおよそ10万にものぼりました。
大坂城における軍議の席で、幸村はまず大坂・京などの畿内を制圧して徳川方と西国大名の連絡経路を遮断した上で近江(滋賀県)の瀬田まで出陣し、西上してくる徳川方を迎撃するという作戦を提言します。
浪人たちのほとんどは幸村の作戦に賛成しましたが、実戦経験に乏しい豊臣家の近臣たちは総勢20万ともいわれる徳川方の大軍に恐れをなし、あくまで籠城を主張したので、結局この軍議では籠城することに決まりました。
確かに籠城策にも一理あります。
なぜなら、大坂城は築城した秀吉が
「百万の大軍をもってしても落とすことはできないであろう」
と豪語したほどの難攻不落の巨城だったからです。
それでも幸村は、大坂城の南側の部分だけが唯一弱点になるのではないかと考えていました。
そこで幸村はこの場所の守りを申し出て、ここに出丸(本城から張り出した形の小城)を築くことにしたのです。
これが、後に名高い「真田丸」です。
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激闘! 真田丸
同年11月、大坂冬の陣が始まると、幸村は5千の兵と共に真田丸に立て籠もりました。
徳川方も真田丸を落とせば大坂城を攻略できると考え、最大兵力の前田利常軍約2万で真田丸を攻撃します。
しかし、幸村はこの大軍相手にも動じることなく冷静でした。
敵を十分に引きつけ、敵兵が真田丸の城壁に張り付いたところを城内から鉄砲で一斉射撃したのです。
これは、父昌幸が上田城で徳川軍を二度撃退した真田家得意の戦法です。
この時の戦いで前田軍は大打撃を被り、おびただしい数の死傷者を出して敗退しました。
真田丸における見事な勝利により、幸村の武名は敵味方双方に知れ渡ったのです。
幸村の鮮烈な戦いぶりに脅威を感じた家康は、幸村の叔父・真田信尹(のぶただ)を使って幸村の寝返り工作を試みることにしました。
最初、「信濃(長野県)に10万石を与える」という条件で幸村を勧誘しましたが、幸村はあっさり断ります。
しかし家康も諦めず、もう一度幸村のもとに使者を送り「それでは信濃一国ではどうか?」と食い下がりました。
すると、幸村は
「10万石では寝返らぬが、信濃一国なら寝返るとでもお思いか? この幸村、一度秀頼公にお味方すると約束した以上、信濃一国どころか日本の半分をくれてやると言われようとも決して寝返りなどせぬ」
と、きっぱり言い放ったのです。
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狙うは家康の首一つ!
このままでは大坂城の攻略は難しいと考えた家康は一旦和議を結び、謀略によって大坂城の堀をすべて埋め尽くした上で改めて戦いを挑んできました。
慶長二十年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まると、既に真田丸を破却された幸村は裸同然の大坂城から打って出て、まず伊達政宗の軍勢を撃破することに成功します。
しかし、大坂方では諸将が相次いで討死する状況にあり、起死回生を図りたい幸村は一か八か家康の首を狙う特攻作戦を敢行するのです。
同7日、「真田の赤備え」といわれる全軍赤一色の幸村の軍勢は、茶臼山の家康本陣に向かって火の玉の如く突進しました。
前衛の松平忠直隊を蹴散らすと、ついに家康の本隊に迫ります。
幸村軍の猛攻ぶりは凄まじく、家康の正旗が踏み倒されるほどでした。
家康の正旗が踏み倒されたのは、武田信玄に敗れた三方ヶ原以来のことです。(12月20日付ブログ参照)
これにはさすがの家康も死を覚悟し、二度も自害を口走ったといわれますが、それでも側近たちに守られながらなんとか逃げ延びました。
一方、幸村軍も多くの兵が討ち死にし、幸村自身も負傷してほとんど動けなくなっていました。
幸村はわずかに残った兵と共に安井神社で休息中、松平家鉄砲組の西尾仁左衛門に討ち取られました。
真田家の家紋「六文銭」
戦後、幸村の奮闘ぶりは大評判となり、徳川方の武将でさえこぞって幸村を称賛しています。
その中でも特に薩摩(鹿児島県)の島津家は
「真田 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」
と、幸村の活躍を絶賛しました。
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まとめ
- 大坂城に入った真田幸村は籠城戦に備え、城の南部に真田丸を築いた
- 幸村の活躍に脅威を感じた徳川家康は寝返り工作を試みたが、幸村は決して裏切らなかった
- 大坂夏の陣で幸村は家康をあと一歩のところまで追い詰めたが、ついに届かなかった
源義経と同じく幸村の英雄伝説の中には「真田十勇士」などの創作もありますが、幸村が最後まで義理を通し、誇り高く戦い抜いた勇将であることは紛れもない事実です。
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