2020年04月29日
“英雄”か?“逆賊”か? 足利尊氏
評価が分かれる征夷大将軍
今日からゴールデンウィークに入りますね。
国や自治体が最も警戒していたのが、このゴールデンウィーク。
それを国民も感じ取ってか、ニュースを見ると行楽地やそこに向かう交通機関などは例年の8〜9割近く減少しているようです。
今日のように天気が良くて気持ちのいい陽気だと、どうしても出掛けたくなるのが人間の心理ですが、そんな時僕は遊びに行きたい欲求と感染した時のリスクを天秤にかけて考えます。
罹患して入院した方の経験によると、
「コロナウイルスはインフルエンザとは比べものにならないくらい辛く、本当に死を意識する」
らしいのです。
僕も昔インフルエンザを患ったことがありますが、その時は4〜5日間ほとんど食事さえ摂れないほどの高熱で寝込んでしまい、かなり辛かったことを今でもハッキリ覚えています。
そのインフルエンザと比べものにならないくらい辛いとは・・・・想像しただけでゾッとします。
コロナウイルスは感染力が強く、日本でもこれだけ蔓延してしまっている以上、自分が感染したらどうなってしまうのかまで考えて、今は一人ひとりが警戒心を怠らず自制すべきですね。
さて、明日4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。(延文三年 1358年)
これは、足利尊氏を描いたものとして長く定着していたのですが・・・・実はこの人物、足利尊氏ではないようなのです。
この絵に描かれている人物は尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)とする説が有力です。
尊氏は室町幕府の初代将軍として新しい武家社会を作った人物です。
尊氏は、専横を極めていた北条氏を倒し、建武の新政に不満を持った全国の武士たちの期待に応えて室町幕府を開いた英雄であるにも関わらず、なぜかあまり人気がありません。
人気がないどころか、皇国史観(天皇制を絶対視する歴史観)が強かった戦前には“逆賊”のレッテルを張られてしまうほどの悪人扱いだったのです。
なぜなら、鎌倉幕府の御家人であったのに幕府を裏切って鎌倉幕府を滅亡に追い込んだこと、尊氏を引き立ててくれた恩人の後醍醐天皇をも裏切って天皇が始めた建武の新政を崩壊させたことなどがその理由と思われます。
果たして、尊氏は「英雄」と「逆賊」どちらだったのでしょうか?
というわけで、今回は足利尊氏について語りたいと思います。
清和源氏の名門
足利尊氏 嘉元三年(1305年)〜 延文三年(1358年)
(※1336年〜1392年の間は南北朝時代のため年号が二つ存在しますが、今回は北朝の年号を使用)
尊氏は清和源氏の流れをくむ下野(栃木県)の名門・足利貞氏の次男として生まれます。
15歳で元服した時、鎌倉幕府の執権・北条高時の偏諱を受けて高氏と名乗りました。
父貞氏の死後、兄も既に早世していたため足利家の家督を継ぎました。
元弘三年(1333年)高氏は幕府の命令により、西国で討幕運動を行なっていた後醍醐天皇の兵を討伐するため、大軍を率いて京都に向かいます。
しかし、上洛した高氏は突如幕府に反旗を翻し、幕府の西の拠点であった六波羅探題を攻め滅ぼしてしまったのです。
鎌倉幕府の北条氏はもともと源頼朝の家臣であり、源氏の足利氏より家柄は下なのに、その北条氏が将軍を形骸化して幕府の実権を握り、腐敗した政治を続けていたことに高氏は以前から大きな不満を持っていたためと考えられます。
東では上野(群馬県)の新田義貞が鎌倉に攻め込んで幕府を倒し、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。
幕府が滅ぶと後醍醐天皇は京都へ帰り、年が明けた建武元年(1334年)念願であった天皇親政を開始しました。(建武の新政)
討幕の立役者となった高氏に後醍醐天皇は自らの諱である「尊治」の一字を与え、高氏は尊氏に改名しました。
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武士たちの期待に応えて武家政権を樹立
建武の新政は始まったものの、天皇親政はどうしても皇族や公家ばかりが厚遇されることが多く、すぐに多くの武士たちから不満を招くことになりました。
一方、尊氏は以前から自分を敵対視していた後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし又はもりなが)親王と対立、やがて親王を鎌倉に幽閉してしまいます。
そんな中、思いもよらない事件が起こりました。
建武二年(1335年)7月、北条高時の遺児・時行が信濃(長野県)で挙兵し、鎌倉に攻め込んできたのです。(中先代の乱)
この時、鎌倉で防戦に失敗した尊氏の弟・直義(ただよし)は鎌倉脱出の際、護良親王を殺害してしまいます。
これは鎌倉に入った時行が護良親王を擁立して尊氏討伐の兵を挙げることを直義が恐れたためです。
この知らせを聞いた尊氏は、天皇の許可を得ないまま時行追討に向かい、見事鎌倉の奪還に成功しました。
しかし、その後尊氏は天皇の帰還命令に従わず鎌倉に留まり、ついに天皇に反旗を翻したのです。
これは尊氏自身の野望というより、建武の新政に不満を持つ多くの武士たちの期待に応えるための行動だったと考えられます。
挙兵した尊氏は天皇が差し向けた新田義貞軍を箱根で破り上洛するも、奥州からの北畠顕家の軍勢に苦戦し、一時九州へ敗走してしまいます。
九州で軍勢を立て直した尊氏は捲土重来し東上、建武三年(1336年)5月、湊川の戦いで楠木正成を破り再び上洛を果たしました。
尊氏の上洛により後醍醐天皇は大和(奈良県)の吉野に逃れ、代わりに尊氏は光明天皇を擁立しました。
暦応元年(1338年)尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きます。
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後醍醐天皇に対し崇敬の念を貫いた尊氏
一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も皇位の正統性を主張して譲らず、朝廷は吉野の南朝と京都の北朝に分裂、以後約60年に及ぶ南北朝時代に突入しました。
南朝と北朝が争いを繰り広げる中、幕府内では尊氏と弟の直義の対立が表面化します。
やがて両者の対立は激化し、ついに尊氏は直義を毒殺することで決着をつけたのです。(観応の擾乱)
尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻したことにより、“逆賊”の汚名を被ることになるのですが、本当に尊氏は“逆賊”と呼ばれるべき人物だったのでしょうか?
中先代の乱を鎮圧した後、後醍醐天皇が帰還命令に応じない尊氏に追討軍を派遣したのを知った尊氏は
「天皇に対して弓を引くことはできない」
と、自らの髷を切って出家しようとしていたのです。
実は、帰還しなかったのも、反旗を翻したのも、弟の直義による懸命の説得があったからです。
直義は「今、京都に帰還すれば、みすみす敵の懐に飛び込んでいくようなものだ」と、尊氏の帰還を阻止し、さらに建武の新政に不満を抱いている武士たちの気持ちを代弁して、尊氏に武士の代表として立ち上がるよう促したのです。
武門の棟梁としての立場は別として、尊氏の後醍醐天皇に対する崇敬の念は生涯変わりませんでした。
その証拠に、後醍醐天皇の死後、尊氏は天皇の冥福を祈るため京都に天龍寺を創建し、自らが亡くなるまで天皇の法要を怠らなかったといわれています。
尊氏=“逆賊”のイメージは、戦時中、天皇への忠誠心を国民に植え付けるため、天皇に反旗を翻した尊氏を必要以上に悪人に仕立て上げてしまった結果なのです。
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まとめ
- 清和源氏の名門・足利尊氏は後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府討幕に貢献した
- 尊氏は建武の新政に不満を抱く武士たちの期待に応えて反旗を翻し、将軍となり室町幕府を開いた
- 反旗を翻したものの、尊氏は後醍醐天皇に対して崇敬の念を生涯忘れなかった
骨肉の争いとなった観応の擾乱については、別の機会で改めて語りたいと思います。
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