2019年11月15日
幕末に現れた風雲児・坂本龍馬
激動の時代を駆け抜けた男
今日11月15日は坂本龍馬が亡くなった日です。(慶応三年 1867年)
天保六年(1835年)〜 慶応三年(1867年)
奇しくも誕生日が命日となってしまった幕末の英雄は、織田信長と並んで歴史上最も人気のある人物といってもいいでしょう。
僕は初めて幕末史を学んだ時にトラウマを抱いてしまい(10月14日付ブログ参照)、以来幕末史を敬遠気味で、正直、坂本龍馬にもあまり興味が持てませんでした。
逆に、戦国史に興味を持ったのをきっかけに日本史が好きになったので、今でも興味の中心は戦国時代に向いてしまいます。
人間の第一印象って怖いですね。(笑)
とはいえ、龍馬の遺した足跡を辿っていくと、彼はまるで自分の短い生涯を知っていたかの如く急ぎ足で次から次へといろいろな事にチャレンジしていて、その凄まじいほどの行動力には驚きを隠せません。
織田信長にも共通することですが、それまでの既成概念をぶっ壊し、次々に新しいものを切り拓いていく新時代のリーダーには誰しもが憧れを抱くものですね。
というわけで、今回は坂本龍馬について語りたいと思います。
男勝りの姉・乙女の教育
土佐藩(高知県)の下級武士・坂本八平の次男に生まれた龍馬は、母が生まれる直前、龍が天に昇る夢を見たので龍馬と名付けたといいます。
坂本家は豪商の分家だったのでとても裕福な家庭でしたが、龍馬は気弱で軟弱な少年だったので、後に“仁王様”の異名で呼ばれるほどの男勝りの姉・乙女に武芸や学問を教わり、それからたくましい男に成長していきました。
19歳の時に剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流の千葉周作の道場に入門します。
その後、土佐に戻った龍馬は武市瑞山の土佐勤王党に参加しますが、翌年には土佐藩を脱藩し再び江戸に出ました。
この時に龍馬が江戸で出会ったのが勝海舟です。
海舟は幕臣でありながら開国論者で、現在の世界情勢を知ることの重要性を説いた聡明な海舟に感服した龍馬は海舟の弟子になります。
後に龍馬は海舟のことを「日本第一の人物」と称賛するほど尊敬していました。
海軍の必要性を訴えていた海舟は、幕府から神戸に海軍操練所設立の許可を得て、龍馬をここの塾頭に任命しました。
慶応元年(1865年)5月、龍馬はこの操練所の塾生を集め、船会社と貿易商社を兼ねた亀山社中を長崎で設立します。
亀山社中の出資元は薩摩藩(鹿児島県)ですが、龍馬は亀山社中設立にあたり薩摩に足繁く通い、この時に西郷隆盛(9月24日付ブログ参照)とも親交を深めたといいます。
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薩長同盟の成立に尽力
幕末に西南の雄藩として台頭してきた薩摩藩と長州藩(山口県)は、互いに討幕の志は一致していたものの「八月十八日の政変」以来、敵対関係にありました。(10月14日付ブログ参照)
時代を変えるためにも両藩が手を結ぶことは不可欠と考えていた龍馬は、過去の遺恨からなかなか向き合おうとしない西郷隆盛(薩摩藩の代表)と木戸孝允(長州藩の代表)を粘り強く説得し、慶応二年(1866年)1月ついに薩長同盟を成立させます。
亀山社中における海運と通商の専門知識に加え、薩長同盟の成立により薩長との繫がりを深めた龍馬に注目した土佐藩は後藤象二郎の仲介で龍馬の脱藩を赦免し、龍馬は土佐藩に復帰します。
龍馬は土佐藩の外郭団体的な組織となった亀山社中を海援隊と改称しました。(龍馬を尊敬する武田鉄矢さんがこれを自分たちのバンド名にしたのは有名ですね。)
徳川慶喜が実行した大政奉還は、龍馬が象二郎に授けた「船中八策」の草案が基になっています。(10月14日付ブログ参照)
しかし、海援隊隊員で船中八策の内容を書き留めた長岡謙吉によると、実際には船中ではなく龍馬が船で京に入ってから作成されたものなのです。
さらに、船中八策は当時「建議十一箇条」と呼ばれており、内容は8つではなく11の条文に分かれていたといいます。
それなのに「船中八策」と呼ばれる理由は、龍馬が象二郎にこの内容を話したのはやはり船内であり、幕府がその内容を記録した公式の書物も「新政府綱領八策」となっているからだと思われます。
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日本初の新婚旅行 !?
俗に「英雄色を好む」といいますが、龍馬も女性関係は盛んだったようで、恋人や愛人と思われる女性が何人もいました。
中でも後に龍馬の妻となるお龍(楢崎 龍)とは有名な逸話があります。
薩長同盟が成立した翌日、龍馬が京都の寺田屋に泊まっていたところを幕府の刺客に襲われます。
この時、入浴中だったお龍は刺客が寺田屋に接近してくるのをいち早く察知し、風呂場から裸のまま龍馬の部屋に飛び込んで危機を知らせました。
直後に襲ってきた刺客に龍馬は拳銃で応戦し、左腕を負傷しながらも何とか命拾いしました。
しかし、龍馬の左腕の傷は深かったと思われ、そのために写真撮影などでは左腕を隠していることが多いのではないかとも言われています。
自分の身を挺して危機を救ってくれたお龍に感激した龍馬はお龍と結婚します。
その後、西郷隆盛の勧めにより、龍馬は左腕の治療も兼ねて結婚したばかりのお龍と九州の霧島温泉に湯治の旅に出掛けました。
これが、後に日本初の新婚旅行といわれるものです。
まとめ
- 少年時代の龍馬は姉の乙女に教育され、大人になってからは勝海舟の影響を大きく受けた
- 薩長同盟の成立に尽力した龍馬は船中八策を起草し、大政奉還の実現にも大きく貢献した
- 龍馬が結婚したばかりのお龍と出掛けた温泉旅行が日本初の新婚旅行と言われている
次回は幕末最大の謎とされる龍馬暗殺について語りますのでお見逃しなく!
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