2019年11月13日
天下無双の荒法師・武蔵坊弁慶
数々の伝説を残した義経の家来
前回は「義経北行伝説」について語りましたが、その義経を語る上で切っても切り離せないのがやはり弁慶の存在ですね。
武蔵坊弁慶は京で義経と出会って以来、常に義経の傍にあって平氏追討や奥州への逃避行、果ては北行伝説にも登場する義経の忠臣です。
しかし、弁慶には
実は架空の人物だったのではないか?
という疑惑があるのです。
というのも、弁慶が残した逸話のほとんどは『義経記』(ぎけいき)で描かれたものであり、鎌倉幕府の編纂した歴史書『吾妻鏡』には義経の重臣の一人として記されていますが、『平家物語』にはただの一武将として登場するだけなのです。
『義経記』とは義経主従の活躍を中心に描かれた軍記物語ですが、これが書かれたのは義経の死後150年以上経ってからであり、その内容の信憑性にも疑問が持たれています。
また、弁慶にまつわる逸話に登場する史跡も、当時は存在しなかったと思われるものが多いのです。
弁慶の物語はどこまでが真実なのでしょうか?
というわけで、今回は弁慶が残した逸話について語りたいと思います。
牛若丸と出会ったのは五条大橋ではない !?
弁慶はその出生時から逸話を残しています。
母の胎内に18ケ月もいて生まれた時には3歳児ほどの大きさがあり、髪は肩まで伸び、歯も既に生え揃っていたといいます。
幼少期に比叡山に修行に出されますが、あまりに乱暴者だったため比叡山を追放されてしまいました。
その後、諸国を放浪の末、京の都に出た弁慶は千本の刀を集めるという悲願を立て、夜な夜な通行人を襲い太刀を奪いました。
そして、弁慶は999本の刀を強奪し、残り一本となったところに五条大橋で出会ったのが牛若丸(後の義経)です。
弁慶は「お主の太刀を寄越せばここを通してやる」と脅しますが、牛若丸は「欲しければ奪ってみよ」と全く動じません。
襲い掛かる弁慶の攻撃を牛若丸はひらりと宙を舞ってかわし、あっという間に弁慶をねじ伏せてしまいました。
完敗を認めた弁慶は、以後牛若丸の忠実な家来になったのです。
これが物語としても有名な牛若丸と弁慶の出会いの場面ですが、実際に二人が出会った場所は五条大橋ではなく五条天神というのが通説になっています。
五条大橋は当時なかったと言われており、またあったとする説でも、とても小さく粗末な橋でほとんど利用されることもなかったので、ここで二人が対決したとはとても考えられないといいます。
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「安宅の関」は実在しなかった !
弁慶の物語を語る上で欠かせないのが『勧進帳』の話ですね。
歌舞伎の演目としても有名な『勧進帳』とは・・・
源頼朝の追討から逃れるため、奥州へ逃避行する義経一行が加賀(石川県)の安宅の関に差し掛かった時、関守・富樫左衛門の尋問を受けることになりました。
義経はいわば“指名手配中”の身なので、もし身分がばれたら捕えられ鎌倉に護送されてしまいます。
そのため、弁慶は山伏の一行と偽り関所を通過しようと考えます。
しかし、関所を通過するためにはその理由を説明する必要がありました。
そこで、弁慶は富樫左衛門の前で白紙の勧進帳(僧侶などが諸国を遍歴する目的や理由を詳細に記した巻物)を読み上げ、関所を通過しようと試みます。
弁慶の説明に納得した富樫左衛門は通行を許可しますが、一行の中の一人を見咎め「お主はもしや義経ではあるまいか?」と疑いをかけます。
すると弁慶は「お前が義経などに似ているためにあらぬ疑いをかけられてしまったではないか!」と激怒し、持っていた杖で義経を何度も打ち据えました。
この様子を見た富樫左衛門は、義経一行だと確信しながらもこの主従関係の絆に感動し、改めて通行を許可しました。
こうして無事関所を通過した後、弁慶は涙ながらに先ほどの行為を詫びますが、義経は「お主の機転のおかげで難を逃れることができたのだ」と弁慶を褒め称え、二人の絆はますます深くなりました。
・・・という、とても感動的な逸話なのですが、実は「安宅の関」は実在しなかったのです。
現在この地にある「安宅関跡」は、江戸時代に歌舞伎で上演された『勧進帳』の物語を元に再現されたもので、当時はこの地に関所など存在しませんでした。
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弁慶にちなんだ言葉
古くから怪力無双で知られる弁慶には、その豪快な人物像に由来する言葉がたくさんあります。
その中からいくつかを紹介します。
・内弁慶
家の中では威張っているが、外では意気地がなく大人しい人のこと。
→人見知りする子供などによく使われる言葉ですが、大人になってから言われるとツラいですね。(笑)
・弁慶の泣き所
弁慶ほどの豪傑でも打たれると痛がって泣く向こう脛のこと。
→ここから転じて、強者が持つ唯一の弱点を指します。
・弁慶の七つ道具
弁慶が所持していた薙刀、鉄の熊手、大槌、大鋸、刺又、突棒、袖搦の7つの武器のこと。
→転じて、その道のプロフェッショナルが所持するアイテム一式を指しますが、あなたの仕事における7つ道具は何ですか?
・弁慶の立ち往生
義経が最後に衣川で攻められた時、弁慶が義経の館の前に立ち、敵から無数の矢を全身に受けますが弁慶は決して倒れず、薙刀を杖にして立ったまま絶命したという逸話から生まれた言葉です。
→僕は『宇宙戦艦ヤマト 2』で、空間騎兵隊隊長・斉藤始の死にざまを見た時にこの言葉を思い出しました。(わかる人にはわかるかな?)
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まとめ
- 牛若丸と弁慶が出会った場所は五条大橋ではなく五条天神だった
- 『勧進帳』の話は感動的な物語だが、安宅の関は実在しなかった
- 伝説的な豪傑であったが故に弁慶に因んだ言葉は多い
弁慶の実在についての結論としては、義経の家来に弁慶という人物は実在したが、義経の人物像をより際立たせるために義経とは対照的な豪傑としての弁慶像を後世に作り上げたのではないか、と考えます。
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