2019年11月22日
北条時頼の「廻国伝説」は本当か?
水戸黄門より前に諸国を漫遊?
今日11月22日は鎌倉幕府5代執権・北条時頼が亡くなった日です。(弘長三年 1263年)
安貞元年(1227年)〜 弘長三年(1263年)
北条時頼は鎌倉幕府の執権として活躍したものの、歴史ファン以外の方にはあまり馴染みのない人物だと思われます。
しかし、時頼には幕府の最高権力者でありながら、その身分を隠し諸国を漫遊したという伝説があるのです。
権力者が身分を隠し諸国漫遊というと、人気時代劇『水戸黄門』を連想しますね。
時代劇『水戸黄門』は、水戸黄門こと徳川光圀(12月6日付ブログ参照)が日本全国を旅しながら悪人を懲らしめるという定番の物語ですが、残念ながら実際の光圀は歴史書『大日本史』の編纂に人生の大部分を捧げていたので、全国を漫遊したという事実はありません。
この「水戸黄門漫遊記」は物語性が似ていることから、時頼の伝説が話のもとになったではないかともいわれています。
ただ、時頼も執権として日々激務に追われ、また若くして亡くなっている(享年37歳)ので諸国を放浪する余裕などなかったと思われることから、時頼の伝説も疑問視されています。
では、なぜ時頼の廻国伝説は生まれたのでしょうか?
というわけで、今回は北条時頼について語りたいと思います。
執権政治の独裁体制を確立
承久の乱でも活躍した北条泰時の孫である時頼は、病弱の兄・経時に代わり若干二十歳で執権に就任しました。
執権とは、政所(政治機関)の別当(長官)に侍所(軍事機関)の別当を兼任した役職で、鎌倉幕府の実質的トップの地位です。
幕府の最高権力者となった時頼は、執権政治の権力強化に努めます。
寛元四年(1246年)、時頼の執権就任に不満を持つ御家人たちが前将軍の藤原頼経を擁して時頼排除を図ろうとすると、時頼はこれを鎮圧、頼経を京都に送還し関与した多数の御家人たちを処分します。
さらに翌年の宝治元年(1247年)には北条氏にとって最も脅威であった幕府の有力御家人・三浦泰村を討ち、三浦一族を滅ぼしました。(宝治合戦)
これにより幕府内の反北条勢力は一掃され、それまで幕府の有力御家人たちによる合議制だった政治体制が北条一族による独裁政治へと移行するきっかけとなりました。
また、建長四年(1252年)には頼経の子で5代将軍であった藤原頼嗣(摂家将軍)を京都に追放し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を6代将軍に迎え親王将軍(皇族将軍)を擁立しました。
こうして幕府の有力御家人を次々と排除し、将軍の地位まで思いのままにすることにより、時頼は執権政治を盤石なものにしました。
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「鉢の木」の伝説
時頼の伝説とは、室町時代の謡曲「鉢の木」の話に由来します。
ある冬の夜、上野国(群馬県)佐野の貧しい家に一人の旅の僧が訪ね、一夜の宿を求めた。
その家の主人は快く僧を迎え入れたが、貧しさゆえ立派なもてなしはできなかった。
なので、せめて暖かく暖を取って欲しいとの思いから、大切に育てていた三つの秘蔵の盆栽を薪代わりに火にくべてしまった。
僧は主人の心遣いに感動したが、室内を見渡すとこれほど貧しいにも関わらず、馬を飼い古びた太刀と鎧を所持している。
僧がその理由を尋ねると、
「拙者は佐野源左衛門常世と申しまして、佐野荘の領主をしておりましたが、一族の者に所領を奪われてしまいました。今でこそこのように落ちぶれておりますが、いざ鎌倉の一大事となれば一目散に馳せ参じ、幕府に忠勤を尽くす志を忘れておりません」
と答えた。
僧が去った後、間もなくして鎌倉幕府から諸国へ動員令が出された。
常世も装備を整え馬に跨りいち早く鎌倉に駆け付けた。
そして、執権・北条時頼は集まった大勢の武士の中から常世を呼び、前に歩み出た常世は驚いた。
なんと時頼は、あの夜の旅の僧だったのだ。
時頼は常世の覚悟を試すつもりで動員令を出したのだが、常世が言っていた通りに駆け付けたことを喜び、奪われていた佐野荘を常世に返してあげた。
さらに、鉢の木の礼として三つの新しい所領も与えたという。
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なぜ時頼の廻国伝説は生まれたのか?
時頼の廻国伝説は「鉢の木」の他にも南北朝時代に書かれた『太平記』や『増鏡』にその記述があります。
しかし、こうした逸話を裏付ける証拠がないため、「あまりにも出来過ぎた話」として疑問視されているのです。
では、なぜこのような伝説が生まれたのでしょうか?
時頼は執権政治の権力を強めるために独裁を行なった反面、弱小の御家人たちを救済する政策も積極的に行なっています。
まず時頼は執権に就任してから、御家人の負担を軽減するため京都大番役(朝廷や京都の警備)の任期を6ヶ月から3ヶ月に短縮しました。
また、武家以外の荘園領主(寺社や公家)に仕えている御家人が不当な処分を受けた時、幕府が荘園領主に抗議できるよう取り計らい、幕府が御家人の立場を守ることに努めます。
さらに、当時は所領関係などの御家人の訴訟問題が非常に多かったことから、建長元年(1249年)引付衆を設置して裁判の公平化と迅速化を図りました。
このように時頼は立場の弱かった御家人を救済する政策を数多く行なったため、弱小御家人の多い地方では特に評判が良く、時頼に感謝する思いから廻国伝説が生まれたのではないかと考えられます。
まとめ
- 時頼は幕府の有力御家人を次々と排除し執権政治の独裁体制を確立した
- 「鉢の木」とは、身分を隠した時頼に心尽くしのおもてなしをした地方武士を後に取り立てた話
- 時頼は立場の弱い御家人を救済する政策を積極的に行なったため、弱小御家人の多い地方では廻国伝説が生まれたと考えられる
確かに「鉢の木」の話は水戸黄門のシチュエーションと似てますよね?(笑)
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