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2019年11月25日

天皇引退後も“ご隠居”とは呼ばせない !? 院政

202年ぶりに復活した上皇

今年4月に平成天皇(明仁様)が譲位して「上皇」となられましたね。

日本で上皇が復活したのは、江戸時代後期の文化十四年(1817年)に退位した光格上皇以来202年ぶりのことです。

これは、明治以降から現在に至るまで皇室典範には退位に関する規定がなく、天皇は終身在位となっていたからです。

しかし、陛下もご高齢になられ、天皇として日々の激務を遂行されることが困難になられたので譲位を決意されました。

なお、天皇退位に関する皇室典範特例法は平成天皇一代のみに適用される臨時法(時限立法)であり、恒久法ではないため、新たな特例法の制定もしくは皇室典範の改正がない限り、令和天皇(徳仁様)以降には適用されません


さて、明日11月26日は平安時代後期に院政が始まった日です。(応徳三年 1086年)

院政とは、天皇が譲位し上皇となった後も政治の実権を握り、上皇の住まいである院を中心に政務が行なわれることです。

こうした形態を現代で例えるなら、社長が引退し会長となった後も会社の実権を握ったまま仕事を続けるといった形ですね。

院政期の上皇は年齢的な衰えを理由に譲位するわけではありません。

それが理由ならば、当然実権も譲り渡すはずですから。

それでは、なぜ上皇となってからも政治の中心に居座り続けたのでしょうか?

というわけで、今回は院政について語りたいと思います。

摂関政治の衰退

平安時代中期には藤原氏の一族が摂政あるいは関白の位に就き政務を取り仕切る摂関政治12月4日付ブログ参照)が行なわれ、藤原道長・頼通父子の時代に摂関政治は全盛期を迎えました。

藤原氏は代々娘を天皇家に嫁がせ、生まれた男子を天皇に即位させることで自らが天皇の外祖父となって朝廷の実権を握っていたのですが、頼通の娘には(後に天皇となるはずの)男子が生まれませんでした。

こうした状況から、治暦四年(1068年)藤原氏を外戚としない(藤原氏の娘が母ではない)後三条天皇が即位します。

後三条天皇は藤原氏との姻戚関係が薄れたことから、摂関家(藤原氏)に気兼ねする必要がなくなり、天皇親政を行ないました。

後三条天皇の跡を継いだ白河天皇も摂関家を抑えて天皇親政を行ないます。

応徳三年(1086年)白河天皇は皇位を子の堀河天皇(当時8歳)に譲った後も上皇として住居である院の中に院庁を開き政治の実権を握りました

これが院政の始まりです。

白河上皇が院政を始めた理由としては、天皇が幼くして即位しても、補佐するのはそれまでのような摂政や関白ではなく、父である上皇が補佐するという慣例を作ることによって摂関政治を排除しようとする目論みがあったと考えられます。

上皇の意志を伝える文書である院宣院庁下文は絶対的な権威がありました。

院政において上皇は、主に摂関政治の下では不遇を受けていた中小の貴族たちを登用したので、反藤原氏的な立場の地方役人などから絶大な支持を得ました。

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白河院政の全盛期

白河上皇は、堀川・鳥羽・崇徳の三天皇の時代に実に43年に渡り院政を行ないました。

院政は地方役人を優遇したため、荘園(私有地)や知行国(一国の支配権を皇族や公家に与え、そこでの税収も与える制度)から莫大な収入を得ることで権力を拡大しました。

こうして摂関政治に代わって政権を握った院政ですが、院政を行なった歴代の上皇は仏教を厚く信仰し、造寺や造仏を積極的に行ないました。

同時に奈良の興福寺(南都)や比叡山延暦寺(北嶺)などの大寺院も手厚く保護しました。

院の保護により勢力を拡大した両寺院は自衛のため僧兵という武力集団を組織し、気に入らない仏教政策などがあると、たびたび僧兵を繰り出し朝廷に強訴してきたので、院にとっては何とも皮肉な結果となりました。

当時、絶大な権力を誇っていた白河上皇でさえも、

「山法師と双六の賽と賀茂川の水は意のままにならぬ」
(延暦寺の僧兵とサイコロの目とたびたび洪水を起こす賀茂川だけは自分の思い通りにならない)

と嘆いたほどです。(天下三不如意

このため、僧兵などに対抗する院の自衛組織として北面の武士を設置しました。

この北面の武士は、当時近畿地方で有力な武家であった平氏などから構成されていたので、北面の武士の活躍は後に武家が台頭するきっかけとなりました。

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白河上皇の好色が保元の乱の原因 !?

40年以上に渡り院政を行なった白河上皇は、その権力にものを言わせ女性関係もかなり盛んだったといわれています。

あの平清盛2月3日付ブログ参照)も白河上皇の子だったという噂があります。

朝廷内では白河上皇を中心に、もっと複雑でドロドロした人間関係が繰り広げられていたのです。

白河上皇は藤原璋子という少女を7歳で養女に迎え入れ寵愛しましたが、やがて上皇は自分の孫にあたる鳥羽天皇に成長した璋子を嫁がせます。

そして生まれたのが後の崇徳天皇なのですが、この崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、白河上皇と璋子との間に生まれた子だといわれているのです。

つまり、鳥羽天皇にしてみれば、祖父と妻の間にできた子というわけです。

さらに、白河上皇はこの子をわずか5歳で崇徳天皇として即位させ、鳥羽天皇を譲位させてしまったのです。

いくら白河上皇が絶対的な権力を持っているとはいえ、ここまでされては鳥羽上皇が面白かろうはずがありません。

それから間もなく白河上皇が崩御すると、ようやく院政の権力を握った鳥羽上皇はもう一人の妻・藤原得子との間にできた実子・近衛天皇を即位させ、崇徳天皇を譲位させます。

その近衛天皇が17歳の若さで崩御してしまうと、今度は後白河天皇を即位させるなど、鳥羽上皇は徹底して崇徳上皇を冷遇したのです。

ちょっと複雑になってきたので系図で見てみましょう(笑)
院政系図.jpg
父であるはずの鳥羽上皇に冷遇され続けた崇徳上皇は、鳥羽上皇の死後、それまで抑えつけられていた不満が爆発し、弟の後白河天皇と権力の座を激しく争った結果、公家や武士を巻き込んで保元の乱(保元元年 1156年)に発展したというわけです。



まとめ

  • 白河上皇は摂関政治を排除するために院政を行なったと考えられる

  • 絶大な権力を誇った白河上皇でさえ延暦寺の僧兵らによる強訴には手を焼いた

  • 白河上皇の乱れた女性関係は保元の乱の遠因となった


ちなみに、上皇が出家すると法皇という名称に変わります。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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