2020年03月23日
源平最後の決戦! 壇ノ浦の戦い
源平合戦のクライマックス
明日3月24日は源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いが行われた日です。(文治元年 1185年)
源氏と平氏の戦いは、治承四年(1180年)5月に以仁王と源頼政が挙兵したのを皮切りに始まりました。
当初は劣勢だった源氏ですが、翌年に平氏の棟梁・平清盛(2月3日付ブログ参照)が亡くなったことにより徐々にその流れは源氏に傾き始めます。
源平合戦において、源氏の棟梁・源頼朝は鎌倉に入ってからほとんど動くことはなく、戦そのものは範頼と義経の二人の弟たちに任せていました。
頼朝は平氏を滅ぼさない限り源氏の安泰はないと考え、最後まで平氏追討の手を緩めませんでした。
頼朝の非情なまでの冷徹さと比べ、その頼朝を殺さなかった清盛は武士の棟梁としての“甘さ”があったと言わざるを得ないかもしれません。(1月13日付ブログ参照)
範頼と義経の活躍により、まるで坂道を転げ落ちるように滅亡へ向かってしまった平氏ですが、彼らもただ手をこまねいていたのではなく、彼らなりに最善の手を打っていました。
まず平氏が西へ移動した理由は、東国がもともと源氏の勢力が強かったのに対し、西国は平氏の勢力圏にあったためです。
そして海での戦いを挑んだのは、水軍を持たない源氏に対し平氏は海上戦を得意としていたからです。
しかし、一度相手に傾いてしまった流れを引き戻すのは容易ではありませんでした。
というわけで、今回は壇ノ浦の戦いについて語りたいと思います。
一ノ谷の戦いは義経の奇襲が勝因ではなかった !?
寿永三年(1184年)1月、先に京へ入った木曾義仲(1月20日付ブログ参照)を倒した範頼と義経は、その勢いのまま平氏追討に向かいます。
同年2月、平氏は摂津(兵庫県東部)一ノ谷に陣を構えて源氏を迎え撃つ体制を整えました。
この時、平氏の軍勢は源氏を上回っており、戦上手の義経といえども正面からぶつかっては勝ち目はありません。
かといって平氏の背後を突こうにも、後ろには険しい岩山がそびえ立つ通称・鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる難所がありました。
しかし、義経は敢えてここに目を付けたのです。
地元の者に「鹿が何とか通れるくらいのかなり険しい崖のような道」と説明されましたが、義経は
「鹿が通れるなら馬が通れぬはずがない」
と、鵯越を馬で攻め下り背後を突いて見事に平氏軍を敗走させました。
これが世に名高い「鵯越の逆落とし」です。
ところが、一ノ谷合戦の勝因は実は他にあったという説があるのです。
それは、後白河法皇による謀略です。
法皇は範頼と義経に平氏追討を命じておきながら、平氏には「源氏との和平交渉が成立した」と偽っていたのです。
法皇の言葉を信じた平氏軍は、油断して武装を解いたところで源氏の攻撃を受けたために惨敗したというのです。
実際、法皇の謀りごとを非難する内容が書かれた平氏の手紙が残っています。
ワンプッシュで取り外し、通話ができるスマートウォッチ。【EarBand (V08S/J】
弓の名手・那須与一は実在しなかった !?
文治元年(1185年)2月、範頼と義経は一ノ谷から讃岐(香川県)屋島に逃れた平氏を追ってきました。
海を挟んで源平両軍が睨み合っていたところ、平氏側から一艘の舟が現われ、その舟の舳先には竿の先に付けた扇が高く掲げられていました。
これは、「源氏には扇を一撃で射抜けるほどの弓の名手がいるのか?」という挑発だったのです。
義経は家来の那須与一を抜擢し、与一は期待に応えて見事、扇を一撃で射抜いてみせました。
この逸話は以前に紹介した屋島合戦のハイライト「扇の的」ですね。(7月23日付ブログ参照)
実は、この屋島合戦のヒーロー・那須与一は実在したかどうかが疑われているのです。
というのも、与一の名は『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語にしか登場せず、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』など信憑性の高い史料には出てこないからです。
『那須氏系図』によると、与一は下野(栃木県)出身で地元の豪族・那須資高の子で本名が宗高となっています。
ですがこの系図も、「扇の的」のエピソードが軍記物語などであまりに有名になったため、後から書き加えられたのではないかともいわれているのです。
「おもちゃコンシェルジュ」が個別プランニング【キッズ・ラボラトリー】
最終決戦に敗れ平家滅亡
文治元年(1185年)3月、平氏はさらに西へ逃れ、生き残りをかけて長門(山口県)の壇ノ浦で源氏を迎え撃つことになりました。
壇ノ浦古戦場
平氏が壇ノ浦を決戦の地に選んだのは、本州と九州の間に位置する関門海峡は激流で知られており、ここで戦えば海上戦を不得手とする源氏に勝てると考えたからです。
戦いが始まると、平氏は潮の流れを味方につけたことにより、劣勢だった兵力差を跳ね返して戦いを優位に進めました。
この時、平氏軍に追われた義経が舟から舟へ次々飛び移る“八艘飛び”をしたという伝説が残っています。(5月1日付ブログ参照)
ところが午後になって潮の流れが変わると形勢は逆転、源氏は兵力差にものをいわせて見る見るうちに平氏を追い込みました。
もはやこれまでと覚悟を決めた二位尼(平時子、清盛の妻)は、わずか8歳の孫・安徳天皇を抱いて舟から海へ身を投げました。
入水の際、安徳天皇が「どこに行くの?」と尋ねると、二位尼は
「波の下にも都がございますよ」
と優しく答えたといいます。
この戦いの敗北により、ついに平氏は滅亡しました。
『平家物語』
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」
宅配洗濯代行はランドリーアウト
まとめ
- 一ノ谷の戦いは義経の「鵯越の逆落とし」よりも後白河法皇の謀略に源氏の勝因があった
- 屋島の戦いで「扇の的」を射抜いた那須与一は実在が疑われている
- 壇ノ浦の戦いで平氏は海上戦に活路を求めたが、最後は敗れて平氏は滅亡した
ちなみに、歴代の天皇に代々継承される「三種の神器」(草薙剣・八尺瓊勾玉・八咫鏡)のうち草薙剣は、二位尼が腰に差したまま海に飛び込んでしまったので、この時に紛失したといわれています。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9723689
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック