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2020年03月20日

秀吉さえも恐れた天才軍師 黒田官兵衛

なぜ官兵衛は天下を獲れなかったのか?

今日3月20日は黒田官兵衛が亡くなった日です。(慶長九年 1604年)

豊臣秀吉の軍師として知られる官兵衛の名は、平成二十六年(2014年)の大河ドラマ『軍師官兵衛』(主演:岡田准一)によってさらに有名になりました。

戦国時代の三傑といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の名前が上がりますね。

しかし、「歴史に名を残す」という意味ではこの三人に及ばなかったものの、戦国武将としての能力は彼らと同等、あるいはそれ以上だったかもしれない武将は存在しました

そのうちの一人に挙げられるのが官兵衛です。

他にも武田信玄伊達政宗がそのくらいの器だったといえます。

信玄は天下取りの志半ばにして病没してしまいましたが、彼があと10年長生きしたら、天下の形成は大きく変わっていたといわれています

政宗の場合、彼が頭角を現わし始めた頃には既に秀吉が天下を治めつつありました。

信玄とは逆に政宗はあと10年早く生まれていたら、天下獲りも夢ではなかったかもしれません。

では、三傑とほぼ同時代に生きた官兵衛はどうだったのでしょうか?

彼は誰もが認める大器でしたが、あまりにもその才覚を発揮し過ぎてしまったため周囲に警戒されてしまい、結果として歴史に大きく名を刻むほどの活躍ができなかったと考えられます。

そういう意味では、「能ある鷹は爪を隠す」という言葉を実践できなかったのが官兵衛の失敗といえるのではないでしょうか。

というわけで、今回は黒田官兵衛について語りたいと思います。

片足にハンデを負った軍師

黒田官兵衛 天文十五年(1546年)〜 慶長九年(1604年)
黒田官兵衛.jpg

官兵衛は黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨(兵庫県)の姫路に生まれます。官兵衛は通称で本名は孝高(よしたか)。

官兵衛は主家の小寺政職に仕えていたので、若い頃は小寺姓を名乗っていました。

当時の播磨は弱小豪族が多く、彼らは西の毛利と東の織田という二大勢力の間に立たされていました。

彼らの多くは毛利方につく立場を表明していましたが、そんな中にあっても官兵衛一人だけは織田信長の革新性と将来性を早くから見抜き、織田方につくことを強く主張しました。

官兵衛は他の豪族にも織田方につくよう働きかけ、播磨国内の豪族のほとんどを織田方に転向させることに成功したのです。

こうして信長の信頼を得た官兵衛は織田に帰属し、信長家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の配下となります。

天正六年(1578年)10月、信長家臣の荒木村重が突如謀反を起こして居城の有岡城に籠城するという事件が起きました。

官兵衛は村重を説得するため有岡城に入りましたが、逆に捕えられ土牢に閉じ込められてしまいます

約一年にも及んだ劣悪な環境下での土牢生活は官兵衛の体を蝕み、この時から官兵衛の片足は不自由になってしまいました。



秀吉に“中国大返し”を進言

秀吉には官兵衛が仕える以前から竹中半兵衛という軍師もいましたが、天正七年(1579年)に半兵衛が病没したことで官兵衛は秀吉が最も信頼する軍師となりました。

官兵衛の活躍も手伝って秀吉が織田家中でも指折りの重臣となっていた時、彼らの運命を大きく変える大事件が起こります。

天正十年(1582年)6月、本能寺の変で主君信長が非業の死を遂げてしまったのです。

この時、官兵衛は秀吉と共に毛利氏の備中(岡山県)高松城を攻めている最中でした。

突然の悲報に呆然とする秀吉に対し、官兵衛は

「今こそ殿が天下を獲る千載一遇の好機ですぞ!」

と囁いたのです。

秀吉は官兵衛の進言に従い、急遽毛利氏と和睦して全軍を京都に引き返しました。

これが世に言う“中国大返し”です。

秀吉は織田家中の誰よりも早く謀反人・明智光秀を討つことに成功し、一躍信長の後継者候補に名乗りを上げました。

しかし、官兵衛の進言により秀吉の天下取りへの道は開けたものの、主君の不慮の悲報に接した状況で天下取りを囁くという官兵衛の恐ろしいまでの冷徹な感性に、秀吉が警戒心を抱いたのは当然といえるでしょう。

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秀吉は農民から成り上がった苦労人だけに、自らの家臣に対しても警戒を怠らなかったといわれています。

相当な能力があり、自分の近くに置いては危険と思われる武将は遠方へ追いやることが多かったのです。

蒲生氏郷2月7日付ブログ参照)がそうであり、官兵衛も九州の豊前(福岡県)中津に移されました。

官兵衛は軍師として秀吉の天下取りに大いに貢献したにも関わらず、中央から九州に追いやられてしまったのです。

現代で例えるなら、栄転という名の左遷といえるでしょう。

秀吉は官兵衛について

「世に恐ろしきは徳川と黒田なり、されど徳川は温和の人なり。黒田は何とも心許し難き者なり」

と語っています。

秀吉が自分を警戒していることを悟った官兵衛は家督を嫡男の長政に譲り、自らは出家して「如水」と名乗りました。

秀吉の死後、如水は天下獲りの野望を抱き、関ヶ原の戦いの裏で九州を席捲しかけますが、関ヶ原の戦いがわずか一日で終わってしまったことで、如水の野望も潰えました。(9月19日付ブログ参照

如水はこの時のことを相当悔やんでいたらしく、臨終の際にも

「関ヶ原で三成がもう少し頑張っていてくれたら、わしは九州から攻め上がって天下を手中に収めることができたかもしれない」

と嘆いたそうです。



まとめ

  • 黒田官兵衛は織田信長の将来性を早くから見抜き、地元播磨の豪族たちに織田方につくよう説得した

  • 官兵衛は豊臣秀吉の軍師として中国大返しを進言するなど秀吉の天下取りに貢献した

  • 官兵衛は能力の高さを秀吉に警戒されたため九州に左遷され、ついに天下を獲ることはできなかった


こうして官兵衛の生涯をみると、人は才能だけでは歴史の表舞台に上がってこられないことを実感させられますね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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