2019年12月20日
家康を震撼させた甲州軍団 三方ヶ原の戦い
“最強軍団” に挑んだ若き家康
明後日12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日です。(元亀三年 1572年)
僕の好きだった大河ドラマ『武田信玄』(昭和六十三年 1988年)の中でも特に印象に残っているのが、この三方ヶ原の合戦開始のシーンです。
浜松城から出てきた徳川軍を見た信玄(中井貴一)の一言
「家康、血迷うたか・・・山津波の如く、一気に襲え!」
このセリフには正直、鳥肌が立ちました!
群雄割拠の戦国時代を生き抜いて、最後に天下を獲ったのが徳川家康(4月17日付ブログ参照)ですが、家康には生涯に二度の大きな危機があったといわれています。
一つは天正十年(1582年)本能寺の変後の伊賀越え(9月22日付ブログ参照)、もう一つがこの三方ヶ原の戦いです。
当時、“戦国最強”の呼び声もあったほど無敵を誇った武田信玄(4月10日付ブログ参照)率いる甲州軍団に戦いを挑んだ家康にとって、後の人生に大きな教訓を得ることになった合戦といえるでしょう。
一方の信玄にとっては、上杉謙信との5度にわたる川中島の戦いで凌ぎを削った甲州軍団の強さを改めて全国に知らしめた一戦でもあります。
また、三方ヶ原の戦いは合戦そのものだけでなく、まだ若かった家康と百戦錬磨の信玄の心理戦による駆け引きにも注目すべき点が多いのです。
というわけで、今回は三方ヶ原の戦いについて語りたいと思います。
上洛作戦を開始する信玄
永禄十一年(1568年)、武田信玄は三国同盟を破棄して駿河(静岡県)の今川家を攻めて以来、相模(神奈川県)の北条家とも手切れとなっていましたが、元亀二年(1571年)再び北条家と同盟を結びました。
北条家との再同盟により背後を突かれる心配がなくなった信玄は、長年にわたる念願であった上洛(京都に上ること)をついに決意し、いよいよ天下取りに向けて動き出します。
元亀三年(1572年)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲府を出発、信濃(長野県)の高遠から伊那谷を通り青崩峠を越えて(現在の秋葉街道)、遠江(静岡県西部)に入りました。
信玄出陣の報告を受けた徳川家康は、同盟者の織田信長に援軍を要請します。
武田軍が家康の領地を越えて自らの領地である尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)に侵攻するのを阻止したい信長は、3千の援軍を家康のもとに差し向けました。
この間にも武田軍は徳川方の二俣城などの支城を次々と落とし、家康の居城・浜松城に近づいていました。
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三方ヶ原におびき出された家康
信長からの援軍3千を加えてもまだ武田軍の半数にも満たない1万1千の徳川軍は、野戦では勝ち目がないと判断し籠城を選択、浜松城で武田軍を迎え撃つことにしました。
ところが、武田軍は浜松城の近くまで来たものの城攻めはせず、浜松城を通過して西へ向かってしまったのです。
自らの眼前を素通りされるという屈辱を受け、このまま指をくわえて見過ごすわけにはいかない家康は、家臣たちの反対を振り切って出陣します。
但し、家康も無策に城を飛び出したわけではありません。
浜松城から西へ向かうと大きな坂があり、その坂上から武田軍の背後を突けば小勢でも勝機はあると考えていたのです。
しかし、家康よりも信玄の方が一枚上手でした。
武田軍が浜松城の前を通過したのは、長丁場になる籠城戦を避け、家康を城からおびき出し野戦に持ち込むための陽動作戦だったのです。
信玄の目論み通り、まんまとおびき出された徳川軍を確認した信玄は軍勢を反転、坂上から勢いよく徳川軍に襲い掛かりました。
両軍は浜松城の北、三方ヶ原で激突します。
奇襲を仕掛けるつもりでいた家康が逆に仕掛けられる格好となってしまい、徳川軍は家康の側回りにいた旗本まで討ち取られるほどの大敗を喫し、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰りました。
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自らへの戒めを忘れない家康
武田軍の猛攻から辛うじて逃げ延びた家康は、あまりの恐ろしさになんと馬上で脱糞してしまったのです。
これを見た家臣の大久保忠世は「殿は糞をたれ流して逃げ帰ったぞ!」と敢えて大声を出して笑い、大敗して意気消沈していた城兵を笑わせたといわれます。
城に戻った家康は意外な行動に出ます。
浜松城の城門を開け放ち、かがり火を焚いてその状況が敵からよく見えるようにしたのです。
これは、空城の計といわれるもので、中国の『三国志』で諸葛孔明が用いたとされる作戦です。
つまり、敢えて無防備な状態を敵に晒すことで、相手は「何か罠があるのではないか?」と疑心暗鬼になり、躊躇して攻められなくなってしまうという一種の心理作戦なのです。
しかし、軍法にも精通していた信玄は、これが空城の計であろうことを見破っていました。
ところが、信玄は「この私相手に家康がこんな子供騙しの作戦を採るだろうか?」と更に考えてしまい、結局城攻めはしなかったことで、家康は命拾いしました。
家康は多くの家臣を失った今回の無謀な合戦を猛省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことを肝に銘じるため、惨敗した直後の惨めな自分の姿を肖像画に描かせました。
その時の絵がこちらです。
家康はいつもこの絵を傍に置き、慢心しそうになった時に見て自分を戒めたといいます。
まとめ
- 武田信玄は天下を狙うため上洛を開始し、徳川家康の遠江に侵攻した
- 信玄の陽動作戦により城からおびき出された家康は三方ヶ原で大敗した
- 敗れた家康は直後に惨めな自分の姿を描かせ、生涯この絵を自分への戒めとした
僕も「空城の計」は、敵の心理を逆手に取ったなかなか面白い作戦だと思いました。
例えば、玄関が思い切り開いてる家をプロの泥棒が見たら、逆に警戒して入れないでしょうね。
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