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2019年12月23日

太平洋戦争の火蓋を切った男 東条英機

有馬記念は衝撃の結末に・・・!

昨日の日曜日、中山競馬場では年末の風物詩・有馬記念が行われました。

普段、競馬は見なくても、この有馬記念と5月の日本ダービーだけは参加するという方が多いようです。

レースは単勝1.5倍の圧倒的1番人気・アーモンドアイがなんと9着に敗れるという波乱の結果でした。

競馬において、1番人気が惜しくも負けること自体は決して珍しいことではありません。

しかし、アーモンドアイほどのズバ抜けた実力と戦績を誇る真の大本命馬が、何の不利もなくこれほどの大敗を喫したことには僕も驚きを隠せませんでした。

前回のブログに書いた通り、昨日12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日だったので、僕も信玄を意識して大勝を!と意気込んでいたのですが・・・結果は家康と同じ惨めな惨敗となってしまいました。(泣)

改めて、競馬の難しさというものを痛感した有馬記念でした。


さて、今日12月23日は東条英機が亡くなった日です。(昭和二十三年 1948年)
東条英機.jpg
明治十七年(1884年)〜 昭和二十三年(1948年)

東条は太平洋戦争を開始した総理大臣として有名です。

また、戦時中にも政治の独裁を行ない、戦局をさらに悪化させた張本人として非常に評判の悪い人物です。

彼が戦後、戦争責任を問われA級戦犯として死刑になったのは当然の結果といえるかもしれません。

しかし、彼は本当にA級戦犯の名に相応しい愚かな国賊だったのでしょうか?

そして、日本が太平洋戦争に突入したのは彼一人の責任なのでしょうか?

東条を擁護するつもりはありませんが、彼にもアメリカとの戦争に向かわざるを得ない事情があったと思われるのです。

というわけで、今回は東条英機について語りたいと思います。

エリート軍人から総理大臣へ

東条英機は軍人の家に生まれ、陸軍士官学校から陸軍に入隊、陸軍のエリートとして関東軍参謀長などの要職を歴任しました。

昭和十一年(1936年)に起きた二・二六事件2月26日付ブログ参照)以後、東条は陸軍の実権を握りトップの座に上り詰めます。

その後、近衛文麿内閣の陸軍大臣となりますが、関係が悪化したアメリカとの戦争をためらう近衛首相を東条が強く批判したことをきっかけに近衛内閣は総辞職しました。

この時点までは、確かに東条は対米開戦派でした。

昭和十六年(1941年)10月、総辞職した近衛内閣に替わり、東条は現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任します。

この時、東条は昭和天皇から対米戦争回避に力を尽くすよう直接指示されました

天皇への絶対忠信の持ち主であった東条は、それまでの考えを改め、対米戦争回避を懸命に模索したのです。

しかし、アメリカ側の日本に対する要求(ハル・ノートと呼ばれるもの)は、それまでの多大な犠牲と引き換えに大陸における利権を獲得してきた日本がとうてい受け入れられる内容のものではありませんでした。

東条は全く妥協の余地が見られないこの要求を、アメリカの最後通牒と受け取り、苦悩の末ついに対米開戦を決意します。

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戦争責任を追及されA級戦犯に

昭和十六年(1941年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦します。

開戦から半年は日本軍が快進撃を続け、太平洋の勢力圏を大きく広げました。

一方で東条は翼賛政治会(よくさんせいじかい)という政治結社を作り、軍部勢力が政治を独占する体制を作り上げています。

しかし、昭和十七年(1942年)6月にミッドウェー海戦で日本軍は大敗を喫し、以後は防戦一方となっていきます。

さらに、昭和十九年(1944年)7月、サイパン島の日本軍が陥落し、いよいよ日本の敗戦が現実的なものになってくると、東条内閣は責任を取り総辞職しました。

こうして昭和二十年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、終戦となりました。

戦後、GHQ(8月30日付ブログ参照)に逮捕されることを知った東条は、軍人として生き恥を晒すことを良しとせずピストル自殺を図りますが、この時は重傷を負ったものの何とか一命は取り止めました。

昭和二十一年(1946年)5月、戦争責任者を裁く極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開廷し、東条もこの裁判にかけられることになりました。

昭和二十三年(1948年)11月、25人の被告に有罪判決(7人の死刑、18人の禁固刑)が下され、最も責任が重いA級戦犯とされた東条は、12月23日に絞首刑を執行されました。



東条の遺骨が行方不明?

絞首刑執行後、東条の遺骨はなぜかアメリカ軍が持ち去ってしまい、一時期遺骨の行方がわからなくなってしまったことがありました。

東条のものだけでなく、同じく処刑された他の戦犯たちの遺骨も不明になったのです。

東条の遺族らは早くから遺骨の返還を日本政府に求めていましたが、この時政府は遺族に対し「アメリカ軍の規定により返還することはできない」と伝えています。

ところが、東条の刑執行から48年も経った平成八年(1996年)、東条らの遺骨は(アメリカの)政治上の理由で太平洋に散骨していたことが明らかになりました。

なぜ、アメリカは東条ほかA級戦犯たちの遺骨を持ち去り、海に散骨してしまったのでしょうか?

アメリカ側のいう「政治上の理由」とは、おそらく太平洋戦争に深く関与した戦争犯罪人たちが靖国神社に葬られ、“日本のために死んだ英雄”として扱われることを嫌ったのではないかと推測されます。



まとめ

  • 東条英機は太平洋戦争を開始した総理大臣だが、昭和天皇の命を受け戦争回避の努力もしていた

  • 東条は戦後、東京裁判にかけられ最も重いA級戦犯として絞首刑となった

  • 東条の遺骨をアメリカ軍が持ち去ったのは、東条が“日本のために死んだ英雄”として扱われるのを避けるためと推測される


歴史上“悪人”とされる人物も、その当時の状況や置かれた立場を考慮した上で判断することが必要ですね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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