2019年12月25日
戦国の名言集・豊臣家
徳川の時代になっても豊臣家への忠誠を忘れず
今日はクリスマスです。
聞くところによると、最近はクリスマスに何も特別なことをしない“クリスマススルー”が増えているみたいですね。
確かに今年はイブが火曜日で当日も水曜日という“ド平日”の日程の悪さに加え、10月に消費税が10%に上がったので高い外食をしないという影響もあるようです。
ある番組の調査では、今年のクリスマスは「普段の日常と変わらない」と答えた方が約40%もいたそうです。
この数字にはちょっと驚きました。
僕が学生の頃、クリスマスは本当に一大イベントでした。
クリスマスを目標に秋から必死にバイトし、イブは彼女とリッチなディナーをして奮発したプレゼントを渡す・・・というのが若者の定番だったのです。(※僕はバブル世代のちょい後です)
正直、僕自身は昔からクリスマスにあまり関心がない方だったので、特に残念ということもありません。
とはいえ、子供の頃の楽しかったクリスマスの思い出はあるので、クリスマスよりハロウィーンの方が盛り上がっている近年の傾向には何か違和感を覚えてしまいますね。
さて、今日は豊臣家の武将にまつわる名言を紹介します。
豊臣秀吉は「人たらしの名人」といわれるほど他人を懐柔するのが得意で、人望もありました。
その人たらしぶりは、秀吉のライバルだった徳川家康の重臣・石川数正が家康を裏切って秀吉に寝返ったほどです。(11月8日付ブログ参照)
そんな秀吉は多くの家臣に慕われていたので、豊臣家というよりは秀吉個人に忠誠を尽くす武将が多かったといえます。
関ヶ原の戦いの後、徳川の天下になっても「亡き太閤殿下(秀吉)の御恩を忘れてはならない」という思いが秀吉の直臣たちには受け継がれていました。
というわけで、今回は豊臣家にまつわる武将の遺した名言について語りたいと思います。
「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」
加藤清正 永禄五年(1562年)〜 慶長十六年(1611年)の言葉
「賤ヶ岳七本槍」や「朝鮮の虎退治」など数々の武勇伝を持つ猛将・加藤清正は、子供の頃から秀吉に実の息子のように可愛がられた武将です。
関ヶ原の戦いの後、世は豊臣から徳川の時代となり、清正も自分の娘を家康の息子に嫁がせるなど徳川家との関係は良好でした。
しかし、清正は領地である熊本から江戸の将軍家や隠居して駿府(静岡県)に住む家康と会見する時、必ず大坂城に立ち寄り、豊臣秀頼(秀吉の息子)に挨拶してから東へ向かうことを習慣としていました。
他の西国大名は、家康の顔色を気にしてまっすぐ江戸や駿府に向かうのが当然だったのです。
清正の行動を快く思わない家康の側近が「大坂城に立ち寄らず、まっすぐ江戸や駿府に来たらどうだ?」と清正に問い質すと、清正は
「自分が今日あるのは秀吉公おかげである。にも拘らず、大坂に挨拶もせず江戸に向かってしまっては武士として忠義に反するので、これだけはやめられない」
と、きっぱり言い放ちました。
律義で頑固な清正らしいエピソードですが、こういう一本筋の通ったところが清正人気の所以でしょうね。
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「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」
福島正則 永禄四年(1561年)〜 寛永元年(1624年)の言葉
賤ヶ岳七本槍の筆頭であり、関ヶ原でも大活躍した福島正則は清正と並び称される豊臣家の猛将で、やはり秀吉に子供の頃から可愛がられ、清正とは兄弟のような間柄でした。
正則は関ヶ原での活躍により、家康から広島49万石を与えられました。(9月29日付ブログ参照)
しかし、二代将軍・秀忠の時に居城の石垣を幕府に無断で修復した罪を問われ、改易(領地没収)になってしまったのです。
豊臣恩顧の大名を潰すための謀略とも思えるこの処分に納得がいかない正則の家臣たちは、正則に幕府へ異議を申し立てることを勧めました。
すると、正則は
「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」
と答えました。
つまり、正則は(この領地を与えてくれたのは家康公(先代)だから、家康公がこういう処分をしたのなら自分にも言いたいことはある。しかし、この処分を下したのは秀忠公(当代)だ。ならば仕方のないことなので、自分はこの処分に従う)と考えていたのです。
それでも納得いかず、幕府と一戦交えることも辞さない家臣に対し、正則は
「自分は弓。泰平の世では戦国の武器は蔵に収め鍵を掛けられるべきなのだ」
と答え、静かに領地を去っていきました。
まさに“老兵は語らず”という、古武士のような正則の心情が窺える言葉です。
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「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」
木村重成 文禄二年(1593年)?〜 慶長二十年(1615年)の言葉
木村重成は豊臣秀頼の家臣で、若いのですが勇猛果敢な武将として知られていました。
慶長二十年(1615年)大坂夏の陣(5月8日付ブログ参照)が始まると、重成はなぜかほとんど食事をとらなくなりました。
心配した妻が「しっかり食事をとらないと、いざという時にお役に立てませんよ」と諭すと、重成は
「ものを食わないのは首を切られた時のためだ。今度の戦でおそらく私は死ぬであろう。もし首を切られた時、切り口から食べ物が出てくるのは見苦しい限りなので、食事を控えている」
と答え、これを聞いた妻は言葉を失いました。
そして出陣した重成は徳川勢相手に奮戦しますが、最後は力尽き討死しました。
重成の首実検をした家康は、髪に焚き染められた香の香りに気付き、最後まで武士としての気高さやたしなみを忘れない重成の心掛けに感動したといわれます。
重成について詳しい素性はわかっていないのですが、おそらく20歳そこそこで、これほどの覚悟を持って戦に臨んでいたことを考えると、なかなかの人物であったと思われます。
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まとめ
「自分が今日あるのは秀吉公おかげである」
(加藤清正)
「先代には言うことあり、しかし当代には言うことなし」
(福島正則)
「ものを食わないのは首を切られた時のためだ」
(木村重成)
彼らの言葉には、絶対に曲げられないポリシーや強い覚悟のようなものを感じますね。
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