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2020年03月30日

戦国の名言集・織田家

こんなことが・・・・

昨夜、志村けんさんが亡くなられたという訃報がありました。

新型コロナウイルスの陽性反応が発覚してからわずか一週間足らずの出来事です。

志村さんの感染がニュースになった時、既に人工呼吸器を付けていて重症だと聞いていたので心配していたのですが、まさかこんなに早く亡くなってしまうとは・・・・。

僕が物心ついた頃から志村さんは大スターで、小学生の時は『8時だヨ!全員集合』を毎週楽しみに見ていました。

全員集合の放送が終わってからも、『ドリフ大爆笑』や『だいじょうぶだぁ』などで見る志村さんのコントが大好きでした。

未だに信じられません、本当に悲しいです。

でも、今までたくさんの笑いを届けて下さったことに感謝しています、本当にありがとうございました。

心からご冥福をお祈り致します。


この名言集、徳川家、豊臣家に続いて今回は織田家です。

織田家の家臣は本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉に仕えた者が多いので、豊臣家の家臣=もと織田家臣という構図にもなっています。

織田家の家臣の特徴としていえるのは、もともとの身分を問わず、能力さえあれば台頭することができたということです。

よく知られているように、豊臣秀吉は農民出身であり、明智光秀は将軍家に仕えていたこともありましたが、その前は素性のよくわからない浪人のような身分でした。

革新家であった信長らしく、家臣にも能力主義を貫いていたといえます。

そんな信長に認められた家臣の中には、当時としては型破りな発想を持つ人物も少なくありませんでした。

というわけで、今回は信長の家臣たちが遺した名言について語りたいと思います。

「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」

これは、信長の重臣たちがそれぞれどういう存在だったかを端的に表現した言葉です。

「木綿藤吉」とは木下藤吉郎、後の豊臣秀吉のことです。

木綿というのは何に使っても便利で重宝することから、秀吉が器用でどんなことをやらせても上手にこなすことを木綿に例えたのです。

「米五郎左」とは丹羽長秀のことです。

米は人間が生きていく上で欠くことのできない食糧であるのと同じように、長秀は織田家にとって欠くことのできない存在であることを例えています。

「掛かれ柴田」は柴田勝家、「退き佐久間」は佐久間信盛をそれぞれ示しています。

織田家中随一の猛将として知られる勝家は戦場で常に勇猛果敢に突き進む姿勢から、逆に信盛は少しでも形勢が悪くなるとすぐ撤退しようとする姿勢からこう表現されたのでしょう。

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「既に知っていることは答えません」

森蘭丸 永禄八年(1565年)〜 天正十年(1582年)
森蘭丸.jpg

森蘭丸は信長お気に入りの小姓として知られていますが、信長が蘭丸を気に入っていたのは、彼が他の小姓たちと比べて傑出した才覚を持っていたからといわれています。

ある時、信長が厠(かわや=トイレ)に入る際、蘭丸に刀を持たせました。

用を足して出てきた信長は部屋に戻ると、何人かの小姓たちを集めて先ほどの刀を持ち

「この刀の鞘に刻み目がいくつあるかわかるか?当てた者にはこの刀をやろう」

と問題を出しました。

小姓たちはそれぞれに答えましたが、蘭丸だけは答えません。

不審に思った信長が「なぜお前は答えない?」と聞くと、蘭丸は

「私は先ほど刀をお預かりした時、刻み目を数えておりましたので既に正解を知っております。それを知らないふりをして答えるのは卑怯だからです。」

と答えました。

これを聞いた信長は蘭丸の正直さに感心して刀を与えました。

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「人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」

前田利家 天文七年(1538年)〜 慶長四年(1599年)

前田利家は14歳の時から信長に仕えていましたが、若い頃は気性が荒く、短気でケンカっ早い性格で知られていました。

ある時、信長が寵愛していた茶坊主に、利家は刀のこうがい(刀の装飾品)を盗まれてしまい、信長に茶坊主の処罰を求めましたが認められませんでした。

その時は我慢したのですが、さらに茶坊主が陰で利家の悪口を言っていることを知り、怒った利家はなんと信長の前でこの茶坊主を斬り殺してしまったのです。

激怒した信長はその場で利家を手打ち(処刑)にしようとしましたが、他の家臣たちに何とかなだめられ、利家は織田家追放処分となりました。

浪人となった利家のもとに織田家から様々な人間が訪れましたが、彼らの態度は主に三通りに分かれました。

一つめは、利家がこういう目にあっていい気味だとあざ笑う者。

二つめは、利家が信長様を恨んでいるのではないかと探りに来る者。

三つめは、利家のことを本当に心配してくれる者。

彼らを見て利家は一つのことを悟ります。

「しかし、本当の友人と言えるべき人は何と少ないことか。人は不遇に陥った時、はじめて本当の友情というものを知ることができるものだ」

その後、利家は再び信長に仕えるべく孤軍奮闘の活躍をみせ、ようやく再仕することを許されました。



まとめ

  • 「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田 退き佐久間」
    (織田家の重臣たちを表現した言葉)

  • 「既に知っていることは答えません」
    (森蘭丸)

  • 人は不遇に陥った時、本当の友情を知る」
    (前田利家)


利家の言葉は大きな挫折を経験した時、本当に痛感させられる名言ですね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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