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2019年11月29日

信玄を支えた名将たち

武田家にまつわる人物エピソード

10月23日付のブログでは織田家にまつわる人物エピソードを語りましたが、第二弾の今回は武田家です。

言わずと知れた“甲斐の虎”・武田信玄4月10日付ブログ参照)は戦国最強の武将ともいわれる名将です。

しかし、武田信玄が後世に語り継がれるほどの名将といわれたのは、信玄一人だけが傑出していたからではなく、彼を支えた有能な部下が多かったこともその理由といえます。

“武田二十四将”と呼ばれた甲州軍団の中核をなす家臣の面々は、戦国ファンなら誰しもが認める名将ぞろいです。
武田二十四将.jpg

永遠のライバル・上杉謙信との違いは、この家臣に恵まれたかどうかの差だったともいえるのです。

信玄ほど家臣に恵まれたとはいえない謙信ですが、もし謙信に武田二十四将に匹敵するくらいの有能な家臣が揃っていたら、あるいは信玄を圧倒していたかもしれません。

でも、信玄が有能な家臣を多く召し抱えられたのは、信玄には絶大な人望があり人心掌握術にも長けていたからこそです。

謙信は戦の天才ではありましたが、この点では信玄に一歩及びませんでした。

というわけで、今回は信玄を支えた名将たちについて語りたいと思います。

若き信玄に苦言を呈した傅役

板垣信方 生年不詳〜天文十七年(1548年)
板垣信形.jpg

信方は信玄の父・信虎にも仕えた武田家の筆頭重臣でした。

信方は信玄の傅役(もりやく=教育係)でしたが、国主の信虎は度重なる戦と重税などの失政により、領民や家臣の信頼を失っていました。

そこで、信方は信玄に父を国外へ追放することを進言しました。

さすがの信玄も父の追放には躊躇しましたが、信方の国を守るための決死の覚悟を感じ取り、父を同盟国である駿河(静岡県)の今川家へ追放し、父に代わって甲斐の国主の座に就きました。


こうして国主となった信玄ですが、まだ若かった信玄は昼夜を問わず遊び呆け、漢詩などにも没頭して国主としての執務を疎かにする怠惰な日々を送っていました。

これを見かねた信方はひそかに漢詩を猛勉強して、信玄の前で即興の詩を詠んでみせました。

(信方は漢詩など知らないだろう)と内心馬鹿にしていた信玄は驚きましたが、信方は

「主君のなさることを家臣が理解しないのは具合が悪いと感じましたので」

と語ったので、信玄は何とも気まずくなってしまいます。

この機に信方は、国主としての心構えや領国経営の何たるかを信玄に熱く語りました。

これを聞いた信玄は今までの生活態度を大いに反省し、今後は領国経営に専念することを涙ながらに誓ったといいます。


信方は、信玄が北信濃(長野県北部)の村上義清と争った上田原の戦いで惜しくも討死しました。

【それがだいじWi-Fi】
武田家の武名を惜しんだ忠臣

馬場信房 永正十一年(1514年)〜 天正三年(1575年)

もとは教来石(きょうらいし)景政という名でしたが、断絶していた甲斐の名門・馬場氏を信玄の命で継ぎ、馬場信房(信春とも)と名乗りました。

信虎・信玄・勝頼の武田家三代に仕えた信房は、信虎追放時も信方と共に信玄擁立に尽力しました。

信房は40年を超える戦のキャリアを持ち、生涯70回を越える戦闘に参加しましたが、かすり傷一つ負わなかったほどの戦さ巧者ぶりから“不死身の鬼美濃”の異名で恐れられる猛将でした。(※美濃は信房の官職名「美濃守」から)


信玄が今川・北条との三国同盟を破棄し駿河に攻め入った際、当主の今川氏真の住む館を攻め火を放ちました。

この時、今川家の財宝が焼失するのを惜しんだ信玄が「財宝を運び出せ!」と命令しました。

これを知った信房は

「敵の財宝を奪い取るなど、貪欲な武将として後世の物笑いになる」

と、部下が運び出した財宝を再び火中に放り込んだのです

後でこのことを知った信玄は、財宝よりも武田家の武名を惜しんだ信房にいたく感動し、欲に目が眩んだ自分を深く恥じたといいます。


信玄の死後、長篠の戦いで信房は一旦兵を引いて好機を待つことを勝頼に進言しますが聞き入れられませんでした。

信房は織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受ける武田軍の殿を務め、勝頼が逃げ延びるのを見届けた後、敵陣に突撃して華々しく討死しました。

この時の信房の戦いぶりは、織田信長の一代記『信長公記』に「馬場美濃守の働き、比類なし」と記されるほど見事な最期でした。

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恐れられた“赤備え” 強さの秘訣

山県昌景 享禄二年(1529年)〜 天正三年(1575年)

もとは飯富(おぶ)源四郎という名でしたが、信玄の嫡男・義信が謀反を企てた時に連座して死んだ源四郎の兄のことを配慮した信玄が、断絶していた甲斐の名門・山県氏を源四郎に継がせ、山県昌景と名乗りました。

昌景は自らの部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから「赤備え」として諸将から恐れられ、相手はこの赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がり逃げ出したといわれます。

昌景が最もその武名を轟かせたのは、三方ヶ原の戦い12月20日付ブログ参照)です。

武田軍の先鋒を務めた昌景は徳川家康の本陣まで切り込み、討死寸前のところまで追い込まれた家康は「山県とは恐ろしき武将ぞ!」と心底震え上がったといいます。

後に家康は武田家が滅んで甲斐を領有すると、昌景の赤備え隊だった旧臣を井伊直政にそっくり仕官させ、「赤備え」を復活させました。

家康にとって三方ヶ原での昌景の強さがよほど記憶に残っていたのでしょう。


ある時、昌景は「山県隊はなぜそんなに強いのか?」と訊ねられると

「常日頃の訓練も重要だが、一番大切なのは戦に臨む心構えであり、いつも初陣のように合戦に臨む覚悟で慎重に策を練り、たとえ勝てると思ってもそれを確信できない限りは戦わないことである」

と、昌景流の“戦の極意”を語ったそうです。


信房同様、昌景も長篠の戦いで討死しますが、昌景は全身に銃弾を浴びても馬から落ちず、軍配を口にくわえたまま絶命したといわれています。

まさに猛将・山県昌景にふさわしい壮絶な最期でした。

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まとめ

  • 信玄の傅役・板垣信方は不真面目だった若き信玄に国主としての心構えを説き、改心させた

  • 馬場信房は敵の財宝よりも武田家の武名を惜しみ、財宝を火中に投げ入れた

  • 山県昌景は強さの秘訣として「戦には常に初陣のつもりで臨み、勝算がない限り戦ってはならない」と語った


こうして見ると、やはり「名臣あっての信玄」と言えそうですね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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