2019年12月02日
民衆パワーの覚醒 ・ 一揆
下剋上の原点といえる一揆
昨日、香港でまた大規模な反政府デモがあり、デモ隊と警官隊が衝突しました。
これは、一週間前の11月24日に投開票された香港の区議会選挙において、民主派が圧勝(全452議席中の85%にあたる385議席を民主派議員が獲得)したにも関わらず、香港政府がデモ隊の要求に譲歩する姿勢をみせないことに民衆の不満が高まったためとみられています。
香港の抗議デモは6月に本格化してから間もなく半年ですが、未だ収束の見通しは立っていません。
中国でこれほど大規模な反政府デモが起きるのはあの天安門事件以来ですが、昨日もデモ隊の人数は38万人にのぼったとの報道もあり、中国政府にとっても脅威であることは間違いないでしょう。
このようにデモとは、一人一人の力は弱くても結束して数を増やせば強大な支配者にも対抗できることの証明ですが、日本でこのデモに相当する事件が最初に起きたのが、室町時代の一揆です。
時代的背景から説明すると、室町時代には農民が地縁的結合を強め、農民たちによる自治的な村・惣(そう または惣村)が誕生しました。
次第に力をつけてきた彼らは、年貢の減免や不法を働く代官の罷免などを求め、領主に対し様々な手段で抵抗するようになりました。
その抵抗の最も顕著な形が一揆です。
一揆とは、揆(やり方・方法)を一つにする(心を合わせて行動する)、一致団結するというのが本来の意味でしたが、やがて権力に対し武力で抵抗して自分たちの要求を認めさせるという形に転じていきました。
室町時代に頻発した一揆は、後に続く戦国時代の風潮である“下剋上”(下の者が上の者を倒す)のはしりといえるでしょう。
というわけで、今回は室町時代に起きた様々な一揆について語りたいと思います。
正長の土一揆 正長元年(1428年)
土一揆とは、農民(土民)が起こした一揆です。
この年は凶作になり疫病も流行したため、庶民の生活は困窮していました。
きっかけは近江(滋賀県)坂本の馬借(馬を使用する運送業者)が徳政を要求して蜂起したことでした。
徳政とは、幕府が借金の帳消しや年貢未納分の免除を認める緊急の臨時令のことです。
一揆は畿内各地に波及し、一揆勢は当時、高利貸を営んでいた酒屋や土倉を襲撃し借金の証文を奪い、その債務を破棄させました。
過去に例のない民衆による大規模な反乱が社会に与えた影響は大きく、当時の史料も「日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」と、その衝撃の大きさを伝えています。
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山城の国一揆 文明十七年(1485年)〜 明応二年(1493年)
国一揆とは、国人(在地の有力武士)が起こした一揆です。
応仁元年(1467年)に起きた応仁の乱以来、長きに渡り対陣を続けている山城国(京都府)の守護大名・畠山政長と義就兄弟に業を煮やした南山城の国人たちが両畠山の退陣、新関の廃止、寺社本所領の返還などを求めて蜂起しました。
一揆勢は両畠山軍を国外に追放し、国人たち36人の月番制により8年間に渡って南山城の自治支配を確立させました。
この一揆は、守護大名である畠山氏の支配下にあった国人たちが畠山氏を国外追放することに成功したことから、当時の史料にも「下剋上の至りなり」と記されており、この出来事はその後下剋上によって戦国大名にのし上がった者たちに少なからず影響を与えたと考えられます。
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加賀の一向一揆 長享二年(1488年)〜 天正八年(1580年)
一向一揆とは、本願寺の蓮如の布教活動により広まった一向宗(浄土真宗の一派)門徒が起こした一揆です。
加賀国(石川県)守護・富樫政親は、弟の幸千代と家督争いを繰り広げていましたが、当時北陸地方を中心に勢力を伸ばしていた一向宗門徒に目をつけ、これと手を結んで幸千代を駆逐し家督争いに勝利しました。
一向宗門徒は政親に協力したことで加賀における一向宗の保護を期待しましたが、一向宗の勢力拡大を恐れた政親は逆に一向宗を弾圧し始めました。
政親の手のひら返しに激怒した一向宗門徒は、およそ20万にも及ぶ大軍勢で政親の居城を包囲し、政親は敗死してしまいます。
以後、加賀は一向宗の僧侶や有力な門徒による自治支配が百年近く続き、この間の加賀は
「百姓のもちたる国」
と呼ばれました。
一向宗による自治支配は、天正八年(1580年)織田信長配下の軍勢により平定され終わりを告げました。
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まとめ
- 正長の土一揆は日本初の一般民衆による大規模な反乱だった
- 山城の国一揆で畠山氏を追放した国人たちは8年間に渡り南山城の自治支配を確立した
- 加賀の一向一揆により約一世紀に渡って一向宗門徒が支配した加賀は「百姓のもちたる国」と呼ばれた
昔も今も民主主義を求めて立ち上がる民衆の力は侮れない、ということですね。
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