2019年12月04日
“欠けない満月” を体現した藤原道長
摂関政治の全盛期を確立した “御堂関白”
今日12月4日は藤原道長が亡くなった日です。(万寿四年 1027年)
道長は平安時代中期の摂関政治の全盛期に活躍した人物です。
古代〜中世の日本において、天皇の権威は絶対的でした。
そこで、朝廷に仕える有力貴族であった藤原氏は、自分の娘を天皇に入内(嫁がせる)させ、娘が生んだ男子を天皇にして自らは天皇の外祖父として権力を握るというシステムを構築したのです。
このやり方は、平安末期に平清盛も真似ています。
朝廷において天皇に代わり執務を代行する役職は主に二つありました。
摂政・・・天皇が女性や幼少だった場合に政務を代行する
関白・・・成人男子の天皇を補佐する
摂政は(代行)、関白は(補佐)という建前になっていますが、いずれもその権力は絶大であり、実質的な支配者といえる役職でした。
平安中期の藤原氏は、天皇の外祖父になった上で代々摂政や関白の座について政治を支配しました。
これが摂関政治です。
というわけで、今回は摂関政治の全盛期に絶大な権勢を誇った藤原道長について語りたいと思います。
娘たちの力で権力を独占
古代から朝廷に仕えていた藤原氏は、平安時代に入ると朝廷内のライバル貴族を追い落とす他氏排斥を繰り返して権力を拡大していきました。
安和二年(969年)に起きた安和の変で他氏排斥がほぼ完了すると、今度は藤原氏内部で氏の長者(一族のトップ)を巡る争いへ移行しました。
摂政であった藤原兼家を父に持つ道長でしたが、五男であったため元々は家督を継ぐ見込みはありませんでした。
しかし、父の死後、兄たちの中でも有力だった長兄の道隆や次兄の道兼が相次いで病死したため、道隆の嫡男で道長の甥にあたる伊周と権力争いを繰り広げ、これに勝った道長が氏の長者の座に就きました。
藤原氏のトップとなった道長は、自分の娘たちを次々に天皇に入内させることに力を注ぎました。
まず長女の彰子を一条天皇に、次に次女の妍子を三条天皇に入内させます。
そして、ここから道長はかなり強引なやり方でさらに娘たちを入内させるのです。
彰子の生んだ後一条天皇と後朱雀天皇に、なんと彰子の妹である威子と嬉子をそれぞれ入内させたのです。
つまり、道長は長女の生んだ男子(天皇)に下の娘を嫁がせたということです。
これにより、朝廷内は皇太子妃・皇后・皇太后などの地位を道長の娘たちで独占するという異様な人間関係になりました。
こうして朝廷の人間関係を完全に手中に収めた道長は、約30年にわたり権勢を振るいました。
一方で仏教信仰に厚かった道長は、豪奢な阿弥陀堂を持つ法成寺を建立したことでも有名です。
法成寺は別名を御堂といい、道長は晩年ここに住んでいたので“御堂関白”と呼ばれていました。
実は、道長は正式には関白に就任していないのですが、上記のような絶対的立場にあった道長にとって、もはや官職など関係なかったかもしれませんね。
スカパー!
自らの栄華を詠った「望月の歌」
権力の絶頂にあった道長は、三女の威子が後一条天皇に入内したことを祝う宴の席を盛大に開きました。
この宴で道長が披露したといわれるのが次の詩です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(この世は自分のためにあるようなものだ 望月(満月)のように何も足りないものはない)
これは道長の栄華を象徴する詩として有名ですが、大勢の朝廷関係者が集まる面前で、ここまでのことを言ってのける道長の権勢がいかに凄かったかを窺わせる内容ですね。
この「望月の歌」を記録した『小右記』の著者・藤原実資は、道長を次のように評しています。
「太閤(道長)の徳は帝王の如し、世の興亡はただ我が心にあり、呉王とその志相同じ」
(道長の仁徳はまるで天皇のようであり、世の中の情勢は彼の心ひとつで決まり、その意思は中国の皇帝に匹敵する)
また、文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、道長は紫式部が書いた『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれています。(※光源氏のモデルは他に在原業平や源高明)
この他にも、平安時代末期の歴史物語『栄華物語』と『大鏡』は、ともに道長の栄華について描かれています。
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やはり若い頃から大物感があった !?
『大鏡』には道長の栄華だけでなく、若い頃のエピソードがいくつか書かれています。
@ 父の兼家が親戚である藤原公任(『和漢朗詠集』の撰者)の優れた才能を羨み、息子たちに「お前たちでは遠く及ばない、(公任の)影を踏むことすらできまい」と嘆息しました。
兄の道隆と道兼が言葉もなかったのに対し、道長は「影を踏むことはできないかもしれませんが、私はその面を踏んでやりましょう」と答えたそうです。
A 道長兄弟が花山天皇の前で怪談話をした時、天皇の発案で兄弟たちが肝試しをすることになりました。
道隆と道兼が肝試しの途中で逃げ帰ってしまったのに対し、道長は一人で指定された大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってくる度胸を示しました。
B 兄の道隆の嫡男で後に政敵となる伊周と弓比べをした道長は、「我が娘が天皇の妃となるならば当たれ!」と言って矢を放つと見事に的の真ん中に命中し、伊周は外してしまいます。
続いて道長が「私が摂政あるいは関白になるならば当たれ!」と言って放つとやはり命中したといいます。
まるで自らの未来を予言したかのようなエピソードですね。
まとめ
- 藤原氏のトップに立った道長は次々に娘たちを天皇に嫁がせ朝廷を支配下に入れた
- 全盛期の道長は「望月の歌」に象徴される絶大な権勢を誇った
- 道長は若い頃から凡庸な兄たちとは違う大物ぶりを示していた
白河上皇の「天下三不如意」(11月25日付ブログ参照)もそうですが、権力の絶頂に君臨した人物が遺した言葉はスケールが違いますね。
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