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2019年12月06日

“世直し旅”はフィクション!? 水戸黄門の真実

“定番の勧善懲悪” が人気の時代劇ヒーロー

今日12月6日は時代劇のヒーロー・水戸黄門(徳川光圀)が亡くなった日です。(元禄十三年 1700年)※旧暦年

僕はまだ日本史にも興味を持っていなかった中学生の頃、なぜかドラマ『水戸黄門』にハマった時期があり(当時の黄門役は西村 晃さん)、毎週月曜日夜8時からの放送を楽しみにしていました。

黄門役といえば、豪快に笑う東野 英治郎さんをイメージされる方も多いと思いますが、僕は東野さんの黄門様は再放送でしか見たことがありませんでした。

黄門役で誰をイメージするかを言うと、年代がバレてしまうかもしれませんね。(笑)


時代劇はほとんどスタジオで収録するのでしょうが、水戸黄門では旅が主体なので野外ロケも多々ありました。

僕が大人になってから気付いたのは、水戸黄門に限らず時代劇の野外ロケは本当に大変だったろうなと思ったことです。

当たり前ですが、空き缶一個、電柱一本映ってはいけないのです、今どき秘境みたいな場所にある山でも電柱の1本や2本立ってるのに。(笑)

当時とはかなり違う風景を撮影しながら、その時代に存在しない物は絶対に映してはならない、これはなかなか大変なことだと思います。


時代劇も民放局ではすっかりやらなくなって久しいですね。(BSなどで昔の再放送のみ)

その理由として、時代劇は製作費がかかる割に視聴率が取れないからだと言われています。

でも僕は、高齢化とテレビ離れが進んでいる今こそ、テレビ業界は時代劇の価値を見直すべきだと思っています。


というわけで、今回は黄門様の実像について語りたいと思います。

学者として名を馳せた水戸藩主

水戸黄門こと徳川光圀は、寛永五年(1628年)御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つ水戸藩の初代藩主・徳川頼房の子として生まれました。

実は、光圀の母は頼房の正式な側室ではなかったため、妊娠が判明した時、堕胎するよう命じられていましたが、この子を不憫に思った母は密かに光圀を出産したという逸話が残っています。

やがて父の頼房にもその素質を認められた光圀は世継ぎとなることも決まり、9歳の時に元服し、当時の三代将軍・徳川家光の偏諱を受けて幼名から「光国」へ改名しました。

しかし、少年時代の光国は普段から素行が悪く、いわゆる“不良少年”でした。

光国が18歳の時、司馬遷の『史記』を読んで感銘を受け、これ以後生活態度を改めるようになりました。


明暦三年(1657年)30歳になった光国は、歴史書『大日本史』の編纂に着手し、以後の人生をこの歴史書の作成に捧げることになります。

この『大日本史』は、全部で397巻にも及び、完成したのはなんと明治三十九年(1906年)であり、約250年かけて作られた名前通りの壮大な歴史書なのです。

つまり、光国が亡くなった後も、その遺志を受け継いだ水戸藩の家臣たちが200年以上にわたり作成を続けたのですから、本当に凄い執念ですね。

しかし、元々水戸藩の財政は苦しく、光国はこの編纂事業に藩の収入の3分の1近くもかけてしまったので、藩の財政はさらにひっ迫したといわれています。

光国は江戸に常駐することが多かったので、『大日本史』作成のために江戸の水戸藩邸に設けられた施設が、のちに彰考館となる史局です。


寛文元年(1661年)父の頼房が亡くなり光国が二代藩主となりますが、頼房の家臣が当時の武士の風習にならい殉死(主君のあとを追って自殺すること)しようとしたところ、光国は

「殉死は父に対しては忠義かもしれないが、私には不忠義ではないか?」

と説得し、家臣たちの殉死をやめさせたといいます。


藩主時代の光国は領内の治水事業や寺社改革などに取り組み、また大きな船を建造して蝦夷(北海道)探検も何度か行なっていました。

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諸国漫遊はあくまでフィクション

さて、ドラマの水戸黄門では毎回悪人たちとの立ち回りをした後、助さんと格さんによる例の決めゼリフが有名ですね。

「静まれ!静まれ!この紋所が目に入らぬか!」

「こちらにおわそう方をどなたと心得る、恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」

「一同、ご老公の御前である、頭が高い、控えおろう!」

水戸黄門.jpg

・・・と、ド定番とわかっていながら、毎週8時45分前後に印籠を出すのを楽しみにしていたものです。(笑)

しかし、実際の光国は上記の通り『大日本史』の編纂に力を注いでおり、藩主時代もほとんど江戸に常駐していたので、ドラマのように日本全国を行脚したという事実はありません

また、決めゼリフにある「副将軍」という役職も徳川幕府にはありません

これは、水戸藩主には参勤交代がなく、常に江戸で将軍を補佐する「定府」という立場にあったため、俗にそう解釈されただけと思われます。

それでは、なぜ『水戸黄門』の物語が誕生したのでしょうか?

光国は『大日本史』編纂にあたり、多くの学者を動員して史料の収集をさせました。

その学者たちの中でも特に有名だったのが、佐々 介三郎(宗淳)と安積 覚兵衛(澹泊)の二人です。

彼らは史料集めのため実際に各地を旅しました。

また、光国も隠居後は水戸領内をよく巡察して廻ったといいます。

つまり、光国の手足となって各地を旅した介三郎(=助さん)と覚兵衛(=格さん)を、隠居後に領内を巡察した光国と結びつけて、“光国がこの二人の共を連れて世直し旅をした”という物語を創作したのだろうと考えられるのです。


ちなみに、水戸黄門の「黄門」とは、光国の官職であった中納言の唐名(中国風の呼び名)であり、光国の名前は52歳の時に光圀と改めました。

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初めて尽くしの黄門様

光圀は非常に好奇心が旺盛だったようで、全く新しいものを次々に試したことで有名です。

ワインやメリヤス足袋といわれたオランダ製の靴下やインコなど、当時の日本人がほとんど目にしたことのない外国の物をいろいろ取り寄せています。

牛乳チーズ餃子黒豆納豆を日本で初めて食べたのが光圀といわれています。

また、ラーメンを最初に食べたのも光圀といわれていましたが、最近の調査によると室町時代にラーメンのルーツと思われるものが既に食べられていたことが判明しました。(残念!)

ただ、光圀は中国の学者・朱舜水に献上された中華麺をもとに麺の作り方や味のつけ方を教わり、自らお手製の麺を作ってこれを「後楽うどん」と名付けて皆にふるまったそうです。


さらに光圀は、五代将軍・徳川綱吉が制定した生類憐みの令10月18日付ブログ参照を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていたといわれています。

たとえ生類憐みの令が無かったとしても肉食は避けられていた時代ですから、当時の光圀がいかに大それた行動をしていたかが窺えますね。

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まとめ

  • 二代目水戸藩主であった光圀は『大日本史』の編纂事業に生涯の多くを捧げた

  • 水戸黄門” の話は『大日本史』の編纂に協力した二人の学者と領内を視察した実績のある光圀を結びつけて創作された物語

  • 好奇心旺盛だった光圀は牛乳やチーズなどを日本人で初めて食べた


全国行脚はしていませんが、実際の光圀もドラマに負けず劣らずの偉人といえますね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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