2020年01月27日
悲劇の将軍!源実朝暗殺の真相に迫る
黒幕は北条氏ではなかった !?
今日1月27日は鎌倉幕府三代将軍・源実朝が亡くなった日です。(健保七年 1219年)※改元前
建久三年(1192年)〜 健保七年(1219年)
実朝は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1月13日付ブログ参照)の次男として生まれ、若くして将軍の座に就いたものの、公の場で身内に殺された悲劇の将軍です。
実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮において甥の公暁に暗殺され、その公暁も直後に殺されたことで源氏の直系が途絶えてしまいました。
一般的にこの事件については、頼朝の嫡男であった二代将軍・頼家が伊豆の修禅寺に幽閉された後に暗殺された出来事が、現将軍である実朝の陰謀だと吹き込まれた頼家の子・公暁が父の復讐のために実朝を討ったとされています。
当初、この事件の黒幕は北条一族とされていました。
なぜなら、源氏の正統が断絶すれば、幕府の実権を握れるのは御家人の中で最も実力のある北条氏だからです。
しかし、北条氏が黒幕だとすると疑問が残ります。
実朝は気性の激しかった兄の頼家と違って大人しい性格だったので、有力御家人の北条氏と対立することもなく、実朝の将軍就任中も実質的には北条氏が実権を握っていました。
そんな実朝を、なぜ今さら北条氏が殺す必要があるのでしょうか?
この事件にはもっと深い陰謀が隠されていたのです。
というわけで、今回は実朝暗殺の真相について語りたいと思います。
事件の概要
健保七年(1219年)1月27日、雪が降りしきる鎌倉の鶴岡八幡宮において、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が右大臣に任命されたことの就任式典が行われました。
式典後(最中とも)、石段脇の大銀杏の陰から突然一人の男が飛び出し、「親の仇はかく討つぞ!」と叫んで実朝を斬り、傍にいた太刀持ちの源仲章も斬り捨てました。
この暗殺者は二代将軍・源頼家の遺児である公暁で、殺された実朝にとっては甥にあたる人物でした。
公暁は討ち取った実朝の首を持ち去り自宅に戻った後、「今こそ我は大将軍である。その準備をせよ」という書状を書き、その書状を有力御家人の三浦義村の元に届けさせました。
しかし、いくら待っても義村が来ないので、公暁自ら義村の屋敷へ出向きました。
すると、公暁は義村の屋敷に着いたところで義村の家臣に襲われ殺されてしまったのです。
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三浦義村黒幕説
この説の根拠は、公暁が義村の家臣に殺されたからだけではありません。
この時に実朝と一緒に殺された源仲章がこの説のカギを握っています。
実はこの式典における実朝の太刀持ちは最初、北条義時だったのです。
ところが、義時は体調不良のため、式典の途中で太刀持ちを仲章に代わってもらったのです。
そして、公暁はこの太刀持ちが義時から仲章に代わったとは知らずに斬りました。
つまり、当初から公暁は実朝だけでなく義時も殺すつもりだったと思われるのです。
犯行の時、公暁が叫んだ「親の仇」も、実朝ではなく義時のことだったと考えられます。
なぜなら、公暁の父・頼家は北条氏と激しく対立していたために幽閉され後に暗殺されたことから、頼家暗殺が北条氏の仕業というのは暗黙の事実とされていたからです。
事件後の公暁の言葉も含めて考えると、実朝を殺したのは怨恨ではなく自分が次の将軍になるためであって、「親の仇」は義時の方だったと推測されます。
それでは、三浦義村はこのことにどう関係しているのでしょうか?
公暁の乳母が義村の妻であったことから、公暁と義村は親子に近いような親密な関係だったのです。
初代将軍の頼朝の死後、北条氏は幕府の実権を握るため有力御家人を次々と滅ぼしていたので、義村も危機感を抱いていました。
そこで、義村は公暁をそそのかし、公暁に実朝と義時の二人を殺させた上で公暁を次期将軍に擁立し、自らは公暁の後見人として北条氏に代わって幕府の実権を握ろうとしていたのではないでしょうか?
しかし、義時暗殺が失敗したことを知り、義時に今回の目論みが発覚してしまうことを恐れた義村が、口封じのために公暁を殺したと考えられます。
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実朝暗殺は鎌倉武士の総意だった !?
この事件の真相は、北条氏や三浦氏の有力御家人による権力闘争などが原因ではなく、武士社会全体に関わる切実な問題が背景にあったとも考えられています。
日本ではこの半世紀ほど前まで朝廷を中心とした貴族が政治を行なっていました。
貴族政治の下で武士たちはまるで「番犬」のように蔑まれ、ずっと貴族たちに虐げられてきたのです。
関東では源頼朝が将軍となり幕府を開いたことで、ようやく武士たちの地位が向上したのです。
しかし、実朝は武士でありながら貴族的な性格をもつ将軍でした。
公家の娘を妻に迎え、側近も後鳥羽上皇に仕えていた源仲章を始め朝廷寄りの人間が多かったのです。
また、実朝は歌人としても有名で、自らの歌集として『金槐和歌集』を出しています。
この和歌を通じても朝廷の貴族たちと親交が深かったといわれています。
かつて、平氏や木曾義仲(1月20日付ブログ参照)、源義経が朝廷と関わったことで破滅への道を歩んだことを幕府の御家人たちはよく知っていました。
御家人たちは実朝に、武家が朝廷と関わることの危うさを説き行動を諌めますが、実朝の貴族志向はやむことがありませんでした。
そこで、実朝が将軍に君臨していることで幕府の将来に不安を覚えた御家人たちが、公暁を使って実朝を亡き者にしたということです。
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まとめ
- 鎌倉幕府三代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で甥の公暁に襲われ命を落とした
- この事件の黒幕とされる三浦義村は北条氏に代わって幕府の実権を握ろうとしていたが、北条義時暗殺が失敗したので口封じのため公暁を殺した
- 御家人同士の権力闘争が原因ではなく、貴族志向の強かった実朝を不安視した鎌倉武士の総意でなされたとも考えられる
頼朝の血を引く源氏の直系がすべて悲劇的な最期を迎えてしまったのは、数々の陰謀によって多くの人間を葬ってきた頼朝の因果応報といえるのでしょうか。
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