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2020年01月24日

“凡庸”に異議あり! 徳川秀忠の功績

偉大な父の跡を継いだ二代目

今日1月24日は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が亡くなった日です。(寛永九年 1632年)

多くの方が「徳川」といえば、イコール「家康」を連想してしまうほど、家康は戦国武将としても政治家としても傑出した人物ですね。

家康の存在が偉大すぎる故、その跡を継いだ秀忠は影の薄い人物として見られてしまうことが多いと思われます。

昔からよくある事例として、一代で頭角を表わした偉人の二代目は凡人で、不思議と三代目になって再び優れた人物が出てくるケースがあるといわれます。

徳川家もそう言われる傾向があります。

つまり、二代目の秀忠は凡人で三代目の家光が優秀だということですね。

しかし、それはどうでしょうか?

家光が将軍になっても、しばらくは父の秀忠が大御所として実権を握り、家光は父の死後に父が作り上げた武断政治を踏襲したに過ぎないともいえるのです。

家光の政治で大きな業績である参勤交代も、秀忠が力を注いでいた大名統制策を受け継いで制度化されたものです。

家康のように、たった一代で偉大な功績を遺した人物は並みの才能の持ち主ではありません。

つまり、親があまりにも優れた能力を持つ故、その子は親の威厳の前に圧倒されてしまい、その結果、自然と大人しく控えめな性格になりやすいので、親と比べて目立つことが少ないため、平凡な人間のように思われてしまうのです。

家康はたくさんいた子供たちの中から、なぜ秀忠を自分の後継者に指名したのでしょうか?

というわけで、今回は徳川秀忠について語りたいと思います。

三男なのに後継者候補 !?

徳川秀忠 天正七年(1579年)〜 寛永九年(1632年)
徳川秀忠.jpg

秀忠は徳川家康4月17日付ブログ参照)の三男として遠江(静岡県西部)の浜松で生まれます。幼名は長松。

長松誕生から間もなくして長兄の信康が織田信長の命令で切腹させられており、次兄の秀康も結城家に養子に出されたので、長松は家康の跡継ぎ候補として育てられました。

天正十八年(1590年)1月 豊臣秀吉の人質として上洛した長松はこの時に元服し、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗りました。

文禄四年(1595年)9月 浅井長政の娘(織田信長の姪)で秀吉の養女となっていた江(ごう)と結婚します。

江は出戻りで秀忠より6歳年上の姉さん女房でしたが、江との仲は睦まじく、秀忠は側室(江以外の妻)を生涯持たなかった稀有な将軍として有名でした。

江との間に二男五女をもうけ、末娘の和子(まさこ)は後水尾天皇に嫁ぎ、皇室にも徳川家の血筋を遺しました。

また、後水尾天皇と和子の間に生まれた娘が明正天皇(女帝)として即位したので、秀忠は天皇の外戚にもなっているのです。

慶長十年(1605年)4月 家康の跡を継ぎ、秀忠は二代将軍となりますが、幕府の実権は依然として大御所となった家康が握ったままであり、秀忠は偉大な父を持つ二代目としての苦悩を味わうことになります。

元和九年(1623年)7月 将軍職を嫡男の家光に譲りますが、秀忠も父家康と同じく大御所となり、亡くなるまで幕府の実権を握っていました。

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大失態!関ヶ原に間に合わず

秀忠の生涯を語る上で最もクローズアップされてしまうのが、皮肉にもこの失態です。

慶長五年(1600年)9月 関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)に臨むに当たり、家康の本隊は江戸から東海道を西に進み、秀忠には中山道を進む別働隊3万8千を率いる役割が与えられました。

秀忠は進軍の途中、家康に反旗を翻した北信濃(長野県北部)の真田昌幸幸村の親子を攻めました。

秀忠としては関ヶ原参戦の前に手柄を立て、父への手土産としたかったのでしょう。

しかし、百戦錬磨の真田親子の守る上田城は守りが固く、秀忠は大軍をもってしても攻めあぐねてしまい、結局上田城は落とせませんでした。

それどころか、上田城攻めにかなりの時間を費やしてしまったため、肝心の関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を犯してしまったのです。(9月19日付ブログ参照

当然、秀忠は家康の激しい怒りを買ってしまい、秀忠の関ヶ原到着後、家康は会うことすら許しませんでした。

秀忠にはこの時の失敗がよほど堪えたものと思われ、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣の時には、関ヶ原遅参の汚名返上と言わんばかりに5万もの大軍を猛スピードで畿内へ進軍させたのです。

しかし、早く着くことばかりに気を取られていたので、肝心の戦の準備が整っておらず、その上かなりの強行軍により兵も疲弊させてしまい、またしても家康に叱責されてしまう結果となってしまいました。

まさに、「羹(あつもの)に懲りて なますを吹く」といった感じですね。(笑)

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秀忠は“凡庸な二代目”ではない

何かと父家康の影に隠れがちな秀忠ですが、諸大名を統制する武家諸法度、朝廷や公家たちを統制する禁中並公家諸法度などを制定し、幕府機構を整備するための基礎を固めたのは紛れもなく秀忠の功績と言えます。

特に将軍の権威を確立するための大名統制策は家康を上回る厳しいものがあり、秀忠が将軍在職中、改易(お家取り潰し)された大名は41家にも及びました。

秀忠は外様大名を改易・転封(領地移転)した跡地には徳川の親藩・譜代大名を配置し、周辺大名の監視を強化して強固な支配体制を構築することに余念がありませんでした。

このような秀忠の努力により、その後250年にも及ぶ徳川幕府の安定した長期政権が続けられたといっても過言ではないのです。


秀忠は関ヶ原における失態をみてもわかるように、戦場においてはこれといった功績がなく、武将としては今一つだったかもしれません。

家康の重臣の中には秀忠以外の子を跡継ぎに推す意見もありました。

それでも、家康が自分の後継者に指名したのは秀忠でした。

それはなぜでしょうか?

確かに秀忠は武勇という点では兄の秀康や弟の忠吉に劣りますが、これから戦乱のない平和な時代では、武勇よりも治世能力に優れた秀忠こそが徳川政権を築いていくのに相応しいと家康は考えていたからです。

そのような意味において、家康が選んだ後継者は間違っていなかったと思われます。

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まとめ

  • 徳川二代将軍・秀忠は織田信長の姪・江と結婚し、その末娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を生んだ

  • 秀忠は関ヶ原の戦いの時、合戦に間に合わず父家康に厳しく叱責された

  • 家康は平和な時代の統治者として治世能力に優れた秀忠を自分の後継者に選んだ


関ヶ原における遅参を猛省して大坂の役での速過ぎる進軍は、秀忠の真面目過ぎる一面を物語っていますね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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