アフィリエイト広告を利用しています
<< 2021年03月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリーアーカイブ
検索

広告

posted by fanblog

2020年03月09日

絵巻に残された謎! 応天門の変

単なる“他氏排斥”事件ではなかった!

明日3月10日は平安京を騒がせた大事件、応天門の変が起きた日です。(貞観八年 866年)

この出来事を簡単に説明すると、朝廷の重職にあった大納言の伴善男が平安京の応天門に放火した罪により失脚したという事件です。

これは、藤原氏による“他氏排斥”事件の一つとされ、教科書にも出ていますね。

他にも藤原氏による他氏排斥事件としては、承和九年(842年)の承和の変、安和二年(969年)の安和の変などが有名です。

応天門の変もこれら他氏排斥事件の一つに過ぎないと思われがちですが、この事件はそれほど単純なものではありません

この事件の黒幕とされている藤原良房には他氏排斥以外にも思惑があったのです。

そして、この事件の謎を呼ぶ「一枚の絵」とは?

というわけで、今回は応天門の変について語りたいと思います。

事件の経緯

貞観八年(866年)閏3月10日の夜半、平安京の朝堂院の正門である応天門で火災が発生し炎上しました。

当時、応天門の周囲に火の気がなかったことから、人々は「放火ではないか?」と噂しました。

事件から2ヶ月後、大納言の伴善男が右大臣の藤原良相(よしみ 良房の弟)に「応天門に放火したのは左大臣の源信(みなもとのまこと)だ」と密告しました。

善男と源信は朝廷内でライバル関係にあり普段から仲が悪かったので、日頃の恨みから伴氏が作った応天門を源信が放火したと告発したのです。

しかし、この事態を知った太政大臣の藤原良房が、源信は無実であることを清和天皇に訴えたため、結局源信は罪に問われませんでした。

これで一旦は終息するかに思われましたが、事件は思わぬ事態に発展します。

さらに数ヶ月後、今度は逆に「真犯人は伴善男の親子だ」という密告があったのです。

善男は懸命に容疑を否認しましたが、結局は犯人に断定されてしまい、親子共々流罪となってしまいました。

そして、この事件の後、良房は人臣(皇族以外)初の摂政となったのです。

古本、CD、DVD、ゲーム販売のもったいない本舗
事件のカギを握る !? 『伴大納言絵巻』

この事件の裏にはやはり朝廷内部の権力闘争があったことは事実です。

おそらく、善男は右大臣の良相と組み、ライバル関係にあった源信を放火犯として告発して失脚させ、その後に良相は空位となる左大臣の地位への昇格を狙っていたと考えられます。(※右大臣より左大臣の方が官位は上)

これに対し、良房はこの陰謀を阻止し、さらに善男と良相の二人を排除しようと考えたのです。

しかし、善男はともかく、なぜ身内である弟の良相まで排除しようとしたのでしょうか?

もし左大臣の源信が失脚して善男と良相の二人が朝廷内で台頭すると、実子のいない良房の藤原本家が、弟の良相の家に取って代わられる恐れがあったからです。

その事態だけは何としても避けたい良房は、善男に応天門放火の罪を被せ、善男もろとも弟の良相を失脚させてしまおうとしたわけです。

この事件の結果、大納言の善男と右大臣の良相の二人が失脚し、左大臣の源信も事件の影響で影を潜めてしまったので、まだ10代で若い清和天皇が朝廷内で頼りとするのは良房以外いなくなってしまいます。

こうして良房の思惑通りに事が進み、良房は正式な摂政となったのです。


ところで、この事件を描いた絵巻物として有名なのが平安末期に描かれた『伴大納言絵巻』です。

この絵巻の中に、この事件のカギを握っていると思われる一つの描写があります。

伴大納言絵詞.jpg
※左が清和天皇で中央が藤原良房

応天門の変について書かれた『宇治拾遺物語』によると、この描写は夜中に良房が清涼殿にある清和天皇の寝所を訪れ、「源信が放火犯などという讒言に惑わされないように」と天皇に忠告している場面と推測されています。

では、一番右で部屋の外から二人の会話を盗み聞きしている人物は一体誰なのでしょうか?

大納言の善男?右大臣の良相?それとも左大臣の源信?

何とも意味ありげな描写だけに様々な憶測を呼んでいますが、断定できる人物は未だ不明とされています。

【朝日新聞デジタル】本紙に匹敵する充実コンテンツ。本紙過去1年分も検索し放題!
応天門にまつわる諺

「弘法も筆の誤り」という諺はご存知ですね?

(その道に優れている人であっても、時には失敗することもある)という意味です。

弘法とは弘法大師、すなわち空海8月22日付ブログ参照)のことで、空海が書道の達人であったことから生まれた諺ですが、この諺のきっかけとなったのが応天門なのです。

書道の腕を見込まれた空海は、応天門に掲げる額の文字を書くことになりました。

書き終えて額を門の上に掲げてみると、「応」の字に点が一つ足りなかったのです。

そこで空海は、墨に付けた筆をなんと額に投げつけて最後の点を打ったというのです。

これも様々な伝説を持つ空海ならではのエピソードですね。

1冊95円のDMMコミックレンタル!
まとめ

  • 応天門の変とは大納言の伴善男が応天門放火の罪で失脚した事件

  • この事件は他の他氏排斥事件とは異なり、藤原良房による思惑が隠されていた

  • 応天門の変を題材として描かれた『伴大納言絵巻』には事件のカギを握る謎の人物が描写されている


皆さんはこの謎の人物、一体誰だと思われますか?
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9689608
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
プロフィール
カナケンさんの画像
カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
プロフィール
ファン
最新コメント
鎌倉幕府 vs. 朝廷 承久の乱 by 工藤電気屋 (05/28)
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。