2019年09月29日
関ヶ原の戦いで明暗を分けた大名たち
関ヶ原の結果が現代の国政にも影響 !?
関ヶ原の戦いに勝利したことにより徳川家の覇権が確立し、その後270年近く江戸時代が続くことになるので、関ヶ原の戦いは日本史において間違いなく大きなターニングポイントであったといえます。
大きなターニングポイントという点では徳川家だけでなく、全国の大名たちも関ヶ原後にハッキリと明暗が分かれることになりました。
戦後の論功行賞(手柄の有無や大小を決め、それに応じて賞罰を与える)によって大幅に石高を加増された者、逆に減封(領地削減)されたり改易(領地没収・お家取り潰し)された者、あるいは転封(領地移転)された者など様々です。
この時に転封され幕末まで続いた大名家は、明治以降もその地域では名家として地元の人々に長く敬愛されたので、その子孫が政界に進出したケースもあります。
その中で一番有名なのが、肥後細川家の第18代当主・細川護熙(もりひろ)氏です。
護熙氏は参議院議員→熊本県知事→衆議院議員を経て、平成五年(1993年)に内閣総理大臣に就任しています。
ご先祖様が果たせなかった天下獲りの夢を現代に実現したわけですね。(笑)
その他、現職の秋田県知事・佐竹敬久(のりひさ)氏も、関ヶ原後に秋田へ転封された佐竹家の第21代当主です。
そこで今回は、関ヶ原の結果、主な大名たちがその後どうなったのかについて語りたいと思います。
加増された主な大名
小早川秀秋 筑前(福岡県)福岡36万石 ⇒ 備前(岡山県) 岡山51万石 ⇒ 跡取りがいないため改易
彼の裏切りによって東軍の勝利が決定的となったのは言うまでもないことですが、秀秋は西軍の宇喜多秀家の領地・岡山に移り大幅に加増されました。
しかし、関ヶ原からわずか2年後に秀秋は病死、跡取りがいなかったため小早川家は断絶してしまいます。
秀秋は21歳の若さで亡くなったため、関ヶ原で秀秋の裏切りによって死んだ大谷吉継の祟りではないかと噂されました。
福島正則 尾張(愛知県)清州20万石 ⇒ 安芸(広島県)広島49万石 ⇒ 居城を無断修復したため改易
上杉討伐時の小山会議(9月15日付ブログ参照)において、真っ先に家康に味方するのを宣言したことにより他の大名たちもほとんどが正則に同調したこと、関ヶ原でも戦いの最前線で大活躍したことが評価され大幅に加増されましたが、移転先の居城・広島城の石垣を幕府の許可なく無断で修復した罪を問われ改易となりました。
この改易処分は、秀吉に子供のようにかわいがられた豊臣恩顧の正則の存在が目障りだった幕府の仕組んだ陰謀といわれています。
黒田長政 豊前(福岡・大分県)中津18万石 ⇒ 筑前(福岡県)福岡52万石
長政も関ヶ原での槍働きに加え、彼が戦前に行なった様々な裏工作(9月19日付ブログ参照)が功を奏したので、東軍勝利の影の立役者として大幅に加増されました。
長政は福岡城を築城し、初代福岡藩主となっています。
細川忠興 丹後(京都府)宮津18万石 ⇒ 豊前(福岡・大分県)小倉40万石 ⇒ 肥後(熊本県)54万石
忠興も正則と同じように家康に味方することをいち早く表明し、関ヶ原でも長政とともに活躍(9月17日付ブログ参照)したことから大幅に加増されました。
忠興は初代小倉藩主となりますが、跡を継いだ忠利の代に熊本へ加増・転封され、幕末に至ります。
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減封された主な大名
毛利輝元 安芸(広島県)広島120万石 ⇒ 長門(山口県)萩37万石
関ヶ原の戦い当日、大坂城にいた輝元は西軍の名目的な総大将であったので、本来なら当然改易処分となるはずでしたが、毛利一門の吉川広家が戦前に毛利家の存続と所領安堵を条件に家康と不戦の密約を交わしていたので、何とか改易だけは免れ大幅な減封処分に止まりました。
上杉景勝 会津120万石 ⇒ 米沢30万石
関ヶ原の戦いのきっかけを作り、家康に討伐軍を起こさせた上杉家ですが、小山から反転した家康軍を追撃しなかったことや、戦後すぐに家康の元へ謝罪に赴いたこと(9月19日付ブログ参照)などが評価され、大幅な減封処分に止まりました。
佐竹義宣 常陸(茨城県)水戸54万石 ⇒ 秋田20万石
石田三成とも親交があった義宣は、東西いずれにつくか散々迷った挙句、三成に味方しようとして家中の者に猛反対されてしまいます。
仕方なく最終的には家康側につくことを決めたものの、義宣の優柔不断な態度に家康は秋田への転封を命じました。
※東北地方は陸奥(太平洋側)と出羽(日本海側)の二分割で広いため、地名のみ表示
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改易された主な大名
石田三成 近江(滋賀県)佐和山19万石 ⇒ 改易
※三成については次回のブログで詳しく語る予定です。
宇喜多秀家 備前(岡山県)岡山57万石 ⇒ 改易
秀家は五大老の一人として関ヶ原では西軍の主力として奮闘しますが、敗戦後は逃れて一時島津家に匿われます。
その後、潔く家康の元に出頭し、八丈島に流罪となり50年近い流刑生活を送った末、この地で生涯を閉じました。(享年84歳)
長宗我部盛親 土佐(高知県)浦戸22万石 ⇒ 改易
長宗我部元親の四男で家督を継いだ盛親は、関ヶ原では当初家康に味方するつもりでしたが、その旨を家康に伝える使者が足止めされたため、やむなく西軍につくことになりました。
関ヶ原の戦場においても煮え切らない態度で、結局戦わずして撤退したことにより改易処分となります。
浪人となった盛親は大坂の役で豊臣家に馳せ参じ、大坂城五人衆(真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登)の一人として奮戦しますが、敗戦後に捕えられ処刑されました。(5月8日付ブログ参照)
真田昌幸 信濃(長野県)上田3万8千石 ⇒ 改易
親子で東西に分かれた昌幸は、次男の信繁(幸村)と上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍を苦戦させた結果、秀忠軍が関ヶ原の決戦に間に合わないという事態を招きました。
戦後、昌幸と信繁は紀伊(和歌山県)の九度山へ追放されますが、昌幸の所領であった上田は東軍についた長男の信幸が相続することになりました。(9月19日付ブログ参照)
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まとめ
- 小早川秀秋、福島正則、黒田長政、細川忠興は大幅に加増されたが、小早川家と福島家は後に改易となった
- 毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宣は大幅な減封となったが、改易は免れた
- 石田三成、宇喜多秀家、長宗我部盛親、真田昌幸は改易処分となったが、昌幸の領地は東軍についた長男の信幸が受け継いだ
関ヶ原で敵中突破を敢行し戦場を逃れた島津義弘(9月17日付ブログ参照)が、家康の家臣にとりなしを頼んだとはいえ、改易どころか減封すらされなかったのは驚きですね。
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