2019年11月06日
謎に包まれた天才絵師・東洲斎写楽
役者絵で一世を風靡
三代目大谷鬼次の奴江戸兵
この役者絵をご覧になったことはありますか?
この絵を見て作品名まではわからなくても、作者は写楽と即答できる方は多いのではないでしょうか。
この絵は顔をデフォルメして主に上半身を画角の中央に据えた「大首絵」と呼ばれる写楽の代表的な画風です。
写楽の作品はどれも見る人に強い個性と圧倒的なインパクトを与えるので、印象に残りやすいのでしょう。
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
明治時代にドイツの美術研究家ユリウス・クルトは、写楽をレンブラント(オランダ)やベラスケス(スペイン)と並ぶ「世界三大肖像画家」と絶賛しています。
しかし、写楽がこれらの絵を描いていた当時は(役者があまり綺麗に描かれていない)と評判が悪く、全く売れませんでした。
また、写楽はその素性がほとんどわかっておらず、ほんの短期間で姿を消してしまったことも謎とされています。
写楽とは一体何者だったのでしょうか?
というわけで、今回は東洲斎写楽の謎について語りたいと思います。
写楽の謎
1.出身地・生没年不明
美術の世界は勿論、日本史の教科書にも当然の如くその名前と作品が出ているほど有名な絵師であるにも関わらず、出身や生没年が全くわかっていないのです。
当時の浮世絵師を紹介した『浮世絵類考』にも、写楽と同じ時代に活躍した絵師は名前や住所、生没年など詳細を記載してますが、写楽については「役者絵を描いたが人気がなく、すぐに出版されなくなった」としか記載されていません。
2.わずか10ヶ月で140点あまりの作品を出す
写楽は寛政六年(1794年)5月から翌年の1月にかけての10ヶ月間(※寛政六年は閏11月があった=11月が2回あった)で、版元(出版元、発行所)だった蔦屋重三郎の店から140点以上の浮世絵を刊行したのです。
浮世絵を描くペースとしてこれは驚異的ともいえるスピードなのですが、売れっ子絵師ならまだしも、上記したように当時の写楽の絵は全く売れなかったのに、版元の蔦屋がこれだけ数多くの出版をサポートしたことも謎とされています。
また、これだけ立て続けに作品を世に送り出したにも関わらず、その後はピタリと創作活動を止めてしまいます。
2月以降に出版された写楽の作品は一枚も発見されていないのです。
3.短期間に何度も画風を変えている
写楽の浮世絵は10ヶ月という短い創作期間の間に何度もその画風を変えていることも特徴の一つです。
写楽の作品は主に四期に分けられます。
・第一期・・・写楽の代表的な画風である役者の大首絵
・第二期・・・大首絵ではなく役者の全身を描き、絵の大きさも小型化
・第三期・・・第二期と同じく役者の全身絵に加え相撲絵も描く
・第四期・・・同じく役者の全身絵を描くが、作品数が明らかに減少する
→時期が進むにつれ、初期の迫力ある大胆な作風が影をひそめ、質の低下が見られたといいます。
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有名絵師の仮の姿か?
写楽は素性が不明で活動期間も短いことから、別人がこの時期だけ写楽を名乗って描いていたという説があります。
その最有力とされるのが喜多川歌麿です。
当時既に人気絵師だった歌麿と写楽の画風が似ていると指摘する人も多く、画風だけでなく版画の技法や字の筆跡も似ていたといわれます。
そして、この説を裏付ける一番の理由として、歌麿は寛政六年の5月から翌年の秋まで作品を一切出していないのです。
つまり、歌麿の休業期間と写楽の活動期間が一致していることになります。
偶然にしてはあまりにも奇妙と言わざるを得ません。
また、歌麿が写楽の出版を後押しした蔦屋のお抱え絵師だったこともこの説を有力視する理由の一つとなっています。
ただ、歌麿は晩年に写楽の絵を酷評していたので、本人ならば自分の絵を悪く評価するのもおかしな話であり、この説には疑問を持たれています。
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本当の正体は能役者だった !?
最近の研究により、写楽の正体として最も有力視されている人物がいます。
それは、斎藤十郎兵衛という能役者です。
十郎兵衛は江戸の八丁堀に住む阿波徳島藩・蜂須賀家お抱えの能役者でした。
その根拠として、写楽の活躍から50年ほど経った後に出版された『増補浮世絵類考』の中で「写楽は俗称を斎藤十郎兵衛という」と、はっきり書かれているのです。
先ほど紹介したクルトも著書『SHARAKU』の中に「斎藤十郎兵衛」の名を記しています。
また、東洲斎を並び替えると、さい・とう・じゅう(斎・藤・十)というアナグラムになるので、いかにも作家のペンネームとして考えられそうな感じもします。
では、これだけの記録や論拠があるにも関わらず、写楽=斎藤十郎兵衛説の信憑性が疑われていたのは何故か?
その理由は、斎藤十郎兵衛が実在した証拠が長い間見つからなかったからです。
ところが、かなり後の時代になって徳島藩の名簿や江戸の役者名簿から「斎藤十郎兵衛」の名が発見され、ようやくその実在が認められたので、現在では写楽=斎藤十郎兵衛が最有力とされています。
まとめ
- 写楽は出身や生没年が不明で、活動期間わずか10ヶ月で姿を消した謎の絵師
- 写楽の活動時期と喜多川歌麿の休業時期が一致していることから、写楽は歌麿のもう一人の姿との説もある
- 現在では写楽は能役者の斎藤十郎兵衛だったという説が最有力となっている
全国チェーンを展開する映像ソフトの最大手・TSUTAYAは、写楽を売り出した蔦屋重三郎にあやかって名付けたともいわれていますが、重三郎は最期に「しゃらくせぇ!」と言って息を引き取ったそうです。(笑)
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