2019年11月04日
“征夷大将軍” の起源とは?
本来、“征夷大将軍” とは(武士の棟梁)ではなかった
今日は月曜日ですが、文化の日の振り替え休日です。
先週末にテレビなどで「今年最後の三連休」と言っておりましたね。
そうなんです、11月23日の「勤労感謝の日」は土曜日、そして12月23日は今年から「天皇誕生日」ではなくなったのです。
僕は昭和四十年代の生まれなので大きな違和感はありませんが、昭和末期以降に生まれた人は物心ついた時から12月23日といえば天皇誕生日だったと思うので、多少の戸惑いはあるでしょうね。
今年は5月1日に天皇の譲位があったので、実は天皇誕生日のない一年なのです。(新天皇は誕生日である2月23日の時点ではまだ皇太子であったため)
来年以降の天皇誕生日は2月23日になります。(※ちなみに、昨日11月3日は明治天皇の誕生日)
さて、明日11月5日は坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任した日です。(延暦十六年 797年)
征夷大将軍といえば、一般的に源頼朝(1月13日付ブログ参照)や徳川家康(4月17日付ブログ参照)などに代表される武士の頂点に君臨する地位と思われていますが、征夷大将軍が武士の棟梁を意味するようになったのは源頼朝以降のことです。
元々、征夷大将軍とは(征夷)の文字が示す通り、蝦夷(えみし)征討を指揮する人物に与えられた官職なのです。
蝦夷とは、古来から東北地方に住んでいた民族のことを朝廷側の人間が蔑視して呼んだ名称です。
この蝦夷と朝廷には長きにわたる因縁の歴史がありました。
というわけで、今回は蝦夷征討の歴史について語りたいと思います。
東北地方は朝廷の支配の及ばない “未開の地”
朝廷が近畿地方を中心に国家の形成を推進する中で、東北地方に住む人々は異種の文化をもつ異民族として扱われ、蝦夷と呼ばれるようになりました。
国家の統一を目指す朝廷は、7世紀頃から東北地方に進出、8世紀に入ると日本海側に出羽国(秋田・山形県)を設置し、神亀元年(724年)には太平洋側に多賀城を築きここに鎮守府を置いて東北経営の拠点としました。
こうして朝廷による東北経営は順調に進むかと思われましたが、宝亀十一年(780年)蝦夷の豪族・伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、呰麻呂率いる蝦夷の軍勢は進撃を続け、多賀城をも陥れました。
これをきっかけに東北各地で蝦夷による反乱が相次ぎます。
朝廷は蝦夷の反乱を鎮圧するために、延暦八年(789年)征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)を派遣しますが、迎え撃つ蝦夷の族長・アテルイ(阿弖流為)の軍勢に巣伏(すぶせ)の戦いで大敗を喫してしまいます。
この五年後に朝廷は10万の大軍で再び蝦夷征討を実行しますが、やはり蝦夷の抵抗は激しく、アテルイの拠点である胆沢(いさわ)を攻略することはできませんでした。
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坂上田村麻呂の “男気”
二度目の蝦夷征討の際に副将だった坂上田村麻呂は蝦夷攻略に手応えを掴んでいたので、桓武天皇(10月21日付ブログ参照)は延暦十六年(797年)11月5日、田村麻呂を征夷大将軍に任命しました。
延暦二十年(801年)三度目の蝦夷征討に征夷大将軍として臨んだ田村麻呂はついに蝦夷を攻略し、アテルイを降伏させることに成功しました。
延暦二十一年(802年)田村麻呂はアテルイの拠点に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城からここに移しました。
翌年には胆沢城のさらに北方に志波城も築くなど、東北地方の平定に大きな功績を残しました。
降伏したアテルイは京に連行されますが、アテルイの武勇とカリスマ性を認めていた田村麻呂は、アテルイに蝦夷の長としての官位を与え、蝦夷支配の一員として迎え入れるため朝廷とかけあいました。
しかし、蝦夷を恐ろしい野蛮人だと決めつけていた京の公卿たちは田村麻呂の意見を認めません。
田村麻呂の必死の助命嘆願も受け入れられず、アテルイは処刑されてしまいました。
後に征夷大将軍が武門の最高位とされたのは、蝦夷征討を成し遂げ人望も厚かった伝説の英雄・坂上田村麻呂にあやかってのことなのです。
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『もののけ姫』のアシタカも蝦夷の一族だった!
ところで、『もののけ姫』の主人公として登場するアシタカは蝦夷一族の出身であることをご存じですか?
アシタカは、〔朝廷との戦い(坂上田村麻呂の蝦夷征討)に破れ500年余り経過した地の果てに隠れ住むエミシ(蝦夷)一族の数少ない若者〕という設定で描かれているのです。
また、この映画の宮崎駿監督は、九州の屋久島と東北の白神山地の風景を映画の世界観に取り入れたと語っています。
ということは、白神山地をアシタカの故郷の村のイメージで描いたのでしょうか?
アシタカは村を出て「西」に向かい、西方の地で活躍しました。
このアシタカの活躍には、長い間「西国」の朝廷に虐げられてきた蝦夷一族の意地を見た気がしますね。
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まとめ
- 征夷大将軍とは本来、蝦夷征討の最高指揮官に与えられた官位だった
- 朝廷は東北地方に住む人々を異民族として扱い、蝦夷と蔑んでいた
- 征夷大将軍が武門の最高位となったのは、坂上田村麻呂の武勇と功績にあやかったため
※最初に征夷大将軍となったのは大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)なのですが(延暦十三年 794年 二度目の蝦夷征討の際に任命)、その功績などから実質的には坂上田村麻呂が初代と考えられています。
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